砂の城

perchin

砂の城

 電気を消したリビングは、水槽の底のように静かだ。

 窓の外には、東京の夜景が広がっている。宝石箱をひっくり返したような光の粒。

 かつては、あの光の一つ一つが、私を祝福しているように見えた。

 今はただ、汚れた網膜を刺すだけのノイズに過ぎない。

 手元のグラスには、ヴィンテージのワイン。

 一口含んでも、鉄の味がする。

 私の舌が壊れたのか、それとも、これが孤独の味なのか。

 二十代の頃、私は確かに「女王」だった。

 少し微笑めば、仕事も、男も、チャンスも、すべてが向こうから擦り寄ってきた。

 「君は特別」「才能がある」「美しい」

 甘い言葉のシャワーを浴びて、私は勘違いをしたのだ。自分が世界の中心だと。

 若さという、期限付きの魔法がかかっているだけだとも気づかずに。

 三十代。魔法の効力が薄れ始めた頃、周りは次々と「降りて」いった。

 結婚、出産、家庭。

 同期の友人が、幸せそうな顔で指輪を見せてきた時のことを覚えている。

 私は心の中で嘲笑った。「家庭に縛られるなんて、可哀想に」と。

 私はキャリアを選んだ。

 男に媚びる生き方なんて選ばない。仕事で結果を出せば、誰もがひれ伏すと思っていた。

 邪魔な人間は蹴落とした。人のアイデアも奪った。

 「仕事ができる女」という鎧を着込んで、私は独りで戦い続けた。

 友人は消え、恋人も去り、気づけばスマホの着信履歴は業務連絡だけになっていた。

 それでも平気だった。寂しさなんて、弱者の感情だと思っていたから。

 そして今、四十代。

 今日、会議室で突きつけられた現実は、あまりにあっけないものだった。

 「今のトレンドとは少しズレているんじゃないかしら」

 年下の上司が、私の企画書を指先だけで弾いた。

 プロジェクトのリーダーに抜擢されたのは、二十代の生意気な小娘だった。

 かつての私によく似た、若さと自信に満ち溢れた女。

 彼女を見る周囲の目。ちやほやと持ち上げる空気。

 ああ、知っている。あの席は、かつて私のものだった場所だ。

 私は、追放されたのだ。

 私が人生の全てを賭けて積み上げてきたキャリアは、若さという暴力の前では、あまりに無力だった。

 会社を出て、この広いマンションに帰ってくる。

 「ただいま」と言う相手はいない。

 観葉植物さえ、私の世話が行き届かずに枯れている。

 ふと、手のひらを見る。

 綺麗にネイルを施された指先。

 でも、その手は何も掴んでいない。

 家族もいない。腹を割って話せる友人もいない。困った時に助けてくれる仲間もいない。

 そして今、誇りだった仕事さえも、指の隙間からサラサラとこぼれ落ちていく。

 怖い。

 得体の知れない恐怖が、足元から這い上がってくる。

 私は、何のために生きてきたんだろう。

 あの華やかだった日々は、何だったんだろう。

 鏡を見る。

 そこに映っているのは、厚化粧で武装した、怯えるおばさんだ。

 誰も愛してくれない。誰からも必要とされない。

 涙さえ出ない。

 だって、泣いたところで、拭ってくれる人はいないのだから。

 私はグラスをテーブルに置いた。

 カツン、という硬質な音が、空っぽの部屋に響く。

 私には、何もない。

 ……いいえ、違う。

 「失った」のではない。

 私は「若さ」という借り物の衣装を着ていただけだったのだ。

 それを脱いだ私の中身は、最初から空っぽだったのだ。

 夜景が滲む。

 ここは、砂で作った城。

 波が来るのを、ただ独りで待つだけの場所。

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