砂の混じらぬ聖域

まろえ788才

第1話 ハルマゲドン

午前三時。予熱を終えたオーブンの熱が、私の世界を起動させる。


小麦粉、水、酵母。こねる、叩く、丸める。


数年前、空が割れた。光と影が衝突し、街は焼けた。


父はパンを届けに行ったまま、崩れた外壁の下で紙屑のように消えた。


それでも、私は店を開ける。


午前七時。

開店と同時に、二人の男が入ってくる。


一人は灰色のコートの紳士。


もう一人は黒革のジャケットの男。


二人は決して視線を合わせない。

だが、注文のタイミングだけは重なる。


「おはよう。バゲットを一本」


紳士――かつて天使を率いた「主」が、穏やかに言った。


「俺はメロンパンだ」


男――かつて地獄を統べた「魔王」が、そっけなく言った。


「三二〇銅貨です」


レジで二人の肩が触れ、空気が凍りついた。


床が鳴り、棚のジャム瓶が震え始める。私はカウンターを叩いた。


「お客さま。殺気でクロワッサンの層が潰れます。おやめください」


世界の意思が、ぴたりと止まった。

神は咳払いをし、悪魔は視線を逸らした。

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