第二章 手当て
「……灯り、つけろ」
親分の声で、俺は我に返った。
港近くの古アパートの一室。湿気た畳の匂いがする。
裸電球の紐を引くと、ジジ、と音がして黄色い光が部屋を埋めた。
親分は上着を脱いで、シャツを破いた。
右の二の腕に、裂けたような傷がある。肉がめくれて、血が止まらん。
親分は何も言わずに、救急箱を顎でしゃくった。
俺は洗面器に水を汲んで、消毒液を垂らした。水が白く濁って、独特の匂いが鼻を突く。
タオルを絞って、傷口を拭う。
親分の筋肉が、一瞬だけピクリと固まった。
「すんません」
「……構わん」
針と糸を出す。
裁縫道具の針じゃなか。釣り用のテグスと、太めの縫い針たい。
針の先をライターで炙る。先が赤く焼けて、また黒く戻る。
親分は煙草をくわえて、天井を見上げとった。
針を刺す。
皮膚が硬い。指先に、ブチッ、いう感触が伝わってくる。
震えそうになる手を、必死で抑えた。
親分は瞬きひとつせん。ただ、くわえた煙草の灰が、少しだけ早う落ちた気がした。
呼吸が浅い。
肋骨が浮き出るたびに、そこにある古傷が歪む。
「……親分、痛かですか」
俺が聞くと、親分は横目で俺を見た。
その目は、深い井戸の底のごと暗うして、何も映しとらん。
「早うせえ」
それだけやった。
痛いとも、やめろとも言わん。
この人は、説明せん。
痛みがどこにあるんか、どれくらい辛いんか、俺には分からん。
ただ、親分の首筋に汗が滲んで、それが一筋、ツーっと流れていくのを見ただけたい。
傷を縫い終わって、ガーゼを当ててテープで固定した。
親分は新しいシャツに着替えて、また無言で煙草に火をつけた。
その背中は、さっきよりも少し小さく見えた気がしたばってん、ありゃあ俺の前にある壁たい。
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