背中
一丸壱八
第一章 雨の港
雨の匂いに、鉄錆が混じっとる。
倉庫の屋根を叩く音がうるさくて、
目の前には、水たまりが広がっとる。そこに油が浮いて、虹色に滲んどった。
その泥水の中に、
「終わりですね、アンタの時代も」
声がした。
若いやつやった。どこの組ん、誰かは知らん。名前なんかどうでもよか。
そいつは銀色のオートマチックを下げて、肩で息をしとる。着とるスーツは細身で、靴もピカピカばってん、構えが軽い。重心も高か。
それでも、立っとるのはそいつで、膝をついとるのは親分やった。
親分の右腕が、だらりと垂れとる。
グレーのスーツの袖口から、どす黒いもんが滴って、アスファルトの染みを広げよった。
俺は、そこから五メートル離れた場所で、へたりこんどる。動こうとしても、足が鉛のごと重くて動かん。ただ、見るしかできんかった。
親分は、何も言わん。
ゆっくりと、左手で懐から煙草を取り出した。箱はショートホープ。角が潰れとる。
一本くわえて、オイルライターを擦った。
シュボ、という音が雨音に混じる。火はつかんかった。湿気っとるんか、オイルが切れとるんか。
親分は二度、三度とローラーを回して、それからふうと息を吐いて、ライターと煙草を水たまりに捨てた。
「何も言わんとですか」
若いやつが苛立ったように言うた。
親分は、ゆっくりと顔を上げた。五分刈りの頭に、雨粒が無数についても気にも留めん。右のこめかみの白髪が、濡れて光っとる。
「……終わったなら、行け」
親分の声は、低くて、少し嗄れとった。
若いやつは鼻で笑うた。
「最後まで戦う気はなかとですか。敵に背を向けるとは、焼きが回りましたね」
親分は、濡れたアスファルトに手をついて、立ち上がった。
右足を引きずっとる。左肩が、いつもより下がって見える。
それでも、親分は若いやつを見んかった。視線は、もっと遠く、海の方を見とるようやった。
「背中を向けるかどうかは、俺が決める」
それだけ言うて、親分は若いやつに背を向けた。
若いやつが銃口を向けたまま、引き金を引こうとして、やめた。
親分の背中が、そこにあった。
濡れて、汚れて、少し丸まったかもしれん。
それでも、それは壁のごと分厚うして、向こう側の景色を全部隠してしまいそうやった。
負けても、この人は背中だ。
俺は地べたを這うようにして、その背中を追いかけた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます