第3話 愛人ランナウェイ

 一ヶ月後。

朝6時にインターホンが鳴った。

飛び起きて画面を確認すると、猫崎が映っている。普段のスーツではなく、ダボッとしたスウェットパンツにTシャツを着て、髪はクシャクシャだ。

玄関を開けた。

「おはようございま……」

「部屋に入れてください」

猫崎は強引に玄関に入ってきて、後ろ手に鍵を閉めた。

「芝さん、やっかいな事になった」タメ口だ。

「なに。寝起きで……」

「不倫がバレて、記事になる」

「いつ?」

「今日だよ!」

「誰の?」

「オメーと萬田先生!」


 あまりのことに返事を返す気になれず、とりあえず洗面所へ行く。猫崎もついてきた。歯を磨き、ヘアバンドをして顔を洗う。化粧水をつけていると、鏡越しに後ろにいる猫崎と目があう。

「バレるわけなくない?」

「宿舎に芝が泊まった日の夜中に、先生がコンビニでゴムを買ったのを撮られた。愛人ならゴムくらい自分で用意してこいよ!」


 洗面所を出て、寝室へ行く。クローゼットを開けて、ブラとジーンズとシャツを出した。猫崎は寝室の入口に立って、こちらを見ている。眼の前でドアを閉めた。

「あの人がゴムを買うのを撮られたからって不倫してるってなる?」ドア越しに言う。

「相手は議員がオーナーになっている歯科医院のスタッフ、ってところまで記事になってるんだよ」

「スタッフはたくさんいるけど」

「29歳のSさん。地元出身の美人歯科衛生士。写真も撮られてる」

着替え終わり、寝室のドアを開けるとそこにまだ猫崎はいた。

「このビルの前で、先生と話しただろ」

「知り合いなら話くらいするでしょ」

「議員宿舎に入るところも撮られてる」

キッチンへ行き、コーヒーメーカーに粉を入れ、水を入れた。

「変装してたのに私ってわかる?」

「大宮で俺の車に乗り換える所から撮られてんだよ!」

「……ずっと見張られてたってこと?」

「少なくとも3ヶ月。記者から写真を見せられた。芝ぁ!オメーは里香さんとポッポの散歩に行ったりしてんのか?ふざけんなよ!最低限の倫理観持てよ!」


 コーヒーの香りが漂った。カチッとスイッチの切れる音がして、コーヒーが出来上がる。

「砂糖を入れないと飲めない」キッチンカウンターの向こうから猫崎が言った。

「飲むの?」仕方なくマグカップを2つだし適当に砂糖を入れる。

「ミルクも」冷蔵庫から牛乳パックごと出してカウンターに置いた。お互い立ったままコーヒーを啜る。

「里香さんはポッポを連れて実家に帰った。芝もしばらく表に出るな」

「歯科医院の仕事に行かなきゃ」

「クビに決まってんだろ。オーナーと不倫して働き続けられると思ってんのか」



「待て、待て!芝!待てって!!」

バッグを掴み部屋を出た。階段を駆け下り、駐車場へ行く裏口から出る。

猫崎は後ろからついてきて、車のドアを開けようとする私の腕を掴んだ。

「部屋にいてくれ。頼むから」

「離して!」


「どーもー」不意にすぐ近くから声がして、辺りを見回す。

マンションの駐車場の生垣の向こうから、片手にスマホを掲げた唇の色の悪い、メガネの男が声をかけてきた。

「離してあげたほうがいいんじゃないですか、猫崎啓太さん。芝由紀子さん、おはようございます」

ほかにも何人かがこちらへ走ってくる。

「ちょっとお話を聞かせてもらえますか」

記者だ。

猫崎は運転席のドアを開けて私を押し込み、自分は後部座席に乗った。

「すみませーん、芝さん!お聞きしたいことが……」

私は無言で車を出した。



 走り始めて10分ほどたち、猫崎は後部座席から助手席に移動して、後ろを振り返った。

「つけられてはいない」

猫崎は両手で顔を覆い、深くため息をついた。

「萬田先生が失脚したら俺も終わり。実家の靴屋も終わり。萬田不動産から店舗を借りてんだけどさぁ、俺が秘書するって条件で色々……。芝はいいよ、お前んち金持ちだもんな」

「うるさい」

もううんざりだった。猫崎にも、憲児にも、自分にも、何もかも。

「お母さんの家に行けよ。一時的にでも群馬から出ろ」

「あの人はもう私のお母さんじゃない」

「自分は不倫してんのに、再婚した母親は許せねえんだ」猫崎は半笑いでこちらを見た。

「黙らないと殴るよ」猫崎は黙った。



 運転は単純作業だ。

国道をひたすらに走った。猫崎はあれっきり口をきかず、さっき横目で見たら口をわずかに開け、呆けたように寝ていた。

間抜けな寝顔だ。

車をコンビニに停め、トイレを借りる。

お茶とガムをレジに出すと、後ろから缶コーヒーがカウンターに置かれ、猫崎がクレジットカードで払う。

「こんなもん、経費だろ」



 車は再び出発した。

「芝はなんで、萬田先生と付き合ってんの。どう見ても芝は萬田先生の事は好きじゃないだろ。すげぇ年上だし……金もらってんの?学費出してもらったとか?」

「もらってるわけないでしょ」

「マンションは」

「家賃は払ってる」

「じゃあなんで不倫してんだよ。好きでもない男相手に、損しかしてねえじゃん」

「時間外で歯のケアをしてる時に誘われて、断りきれなかっただけ」




 付き合い始めた頃の私はまだ歯科助手で、ビルの近くの実家に住んでいた。

ちょうど、母に恋人を紹介されたところで、家には帰りたくなかった。

「由紀子ちゃん、時間外に対応してくれてありがとう」普通の歯ブラシで、憲児の歯を磨いただけだった。

「いいえ。スッキリしましたか?」

憲児は歯をイーッとしてみせた。完璧な歯並び。歯茎も歯の色も申し分ない。

「うん。やっぱり人に磨いてもらうと気持ちいい。そうだ、渡したいものがある。上まで来てもらえるかな」

「はい。ここを片付けてからでいいですか?」

「待ってるよ」

片付けを終えて、受付前のソファに座っていた憲児に声をかける。

「終わりました。お待たせしてすみません」

「行こうか」

憲児は私を先に乗せ自分もエレベーターに乗ると、6階のボタンを押した。

エレベーターが開くと玄関はちょっとしたホールになっていた。

「お邪魔します」

「いらっしゃい」

ホールの隅のスリッパに履き替え、家の中へ進んだ。

「書斎においで」スーツの後ろ姿のあとについていく。

ドアが開くと、部屋の中の様子は思っていたのとまるで違った。


 15畳ほどの縦長の部屋の片面は、全て造り付けの本棚になっていた。部屋の奥には窓、手前には窓を背にした事務机があり、ノートパソコンが2台に電話が置かれ、机の片側には書類やファイルが山積みになっている。事務机の手前は長テーブルで、椅子が6つ並んでいた。長テーブルにもパソコンが何台か置かれ、本棚と反対の壁際にはコピー機と扉付きの棚があった。その奥のフックにはジャンパーや帽子、タスキや何かが掛けられ、部屋の隅には旗が置かれている。

「雑然としてるだろ」

「勉強が好きな人の部屋って感じがします」思った事をそのまま言った。

「どこでも好きな椅子に座って。俺の椅子でもいいよ」

私は好奇心から、憲児の椅子に座った。

座り心地のいい、ハイバックのデスクチェア。

「どこへ置いたかな……ああ、あった。これだ。はい、開けてみて」

渡されたのは渋い緑色の紙袋で、灰色の厚紙のケースが入っていた。

てっきり、歯科絡みの書類だと思っていたので面食らう。

受け取って、中から灰色の箱を出す。文庫本でも入っていそうだ。

箱を開けるとツルツルとした木が見え、引っ張り出すとフォトフレームだった。

「芝先生の写真。昔、芝先生が親父と一緒に新聞社の取材を受けたんだ。駅前から群馬を再構築するというテーマで。その時に撮られた写真を、焼き増ししてもらった」

胸が詰まった。母はもう、わけのわからない男と一緒に、私たちを置いてこの街を離れようとしている。

「ごめん、悲しい気持ちにさせたかな」

違う、と言いたかったが声が出なかった。何かを口にすれば、そこから決壊し、全て崩れてしまいそうだった。

「来てもらったのには他にも理由があって、君のお母さんとお付き合いしてる人から、話を聞いた。うちの父が昔、君のお父さんに紹介した人で、身元は確かだ。お母さん再婚するんだね」

もう我慢できず、私は顔を歪めて泣いた。一昨日、母から恋人がいることを聞いたばかりなのに、周りはもっと先にそれを知っていたのだ。

「泣かせてごめん。もし由紀子ちゃんがここに残るなら、歯科衛生士の資格が取れたあともうちで働いて欲しいって言いたかったんだ」

「母とは一緒に行きません」

「よかった。由紀子ちゃんにいて欲しい。今日も歯を磨いてくれてありがとう」

渡されたティッシュで涙を拭く。書斎のドアを見た。奥さんにまで泣いてるのをみられたら嫌だった。

「里香は今日は実家に帰ってる」察したように憲児が言った。

「家に帰るなら送るよ」

「今はお母さんにあんまり会いたく……」

家には母がいる。恋人も来ているかもしれず、帰りたくはなかった。

資産管理は母がしていて、私にはホテルに気軽に泊まれる余裕もない。

明日は日曜で休みだが、明後日になればまた朝からパートで働き、夕方からは専門学校に行かねばならない。

「泊まっていいよ。バスルーム付きのゲストルームがある。俺が泣かせてしまったし、里香は事情を話せば分かってくれる」

「里香さんに悪いので帰ります。私が泊まったら、嫌な気持ちになると思う」

「じゃあ言わない。言わなければバレない」

にこやかな顔。

私たちは乱雑な書斎で、束の間見つめ合った。

大学の時に駅で声をかけられてから、事あるごとに憲児は私に連絡し、すれ違えば必ず声をかけてきた。

少しづつ距離は縮まって、二人で飲みに行ったことも、父の命日に家に来たこともあった。

「泊まって、由紀子ちゃん」

憲児は私の涙を指の背で拭った。




 車は群馬に背を向け、国道を走っていた。

「損しかないのに7年も愛人やってたのか。芝先生が生きてたら、萬田先生を殴ってる」

「私の事も殴る」

「芝、愛人なんかやめろ」

有意に長い静寂があった。

「わかった。やめる」

「本気で言ってるか。本気なら今すぐ先生の連絡先をブロックしろ。先生には俺から言う。芝と別れれば、先生はまだ政治家としての評判を建て直せる」

「そうして」カーナビに使っていたスマホを助手席の猫崎に渡す。

猫崎はしばらく私のスマホを操作してからラックに戻した。


 1時間後、私と猫崎は海岸にいた。

空は灰色で海からの風が強く、耳を風の音が塞いだ。もう夏は遠の昔に去っていき、秋さえも駆け足で通り過ぎようとしている。

猫崎は俯いて、ひっきりなしに震えるスマホを見ていたが、ポケットに仕舞った。

「再来週の月曜日に引っ越せ」

「わかった」





「休憩行ってきます」

「芝さん、お昼どうするか決まってる?」

院長の女性歯科医師が声をかけてきた。

「まだ決まってません。どこかあります?」

「医院の前の道を漁港に向かって真っすぐ行くと、道の左側に喫茶店があるの。サン・パウロって店。そこのお刺身定食がおすすめ」

「喫茶店ですか?」

「そうよ。医院の自転車に乗っていって」

「ハイ」


 生まれて初めて電動自転車に乗る。

最初は戸惑ったが、しばらく走ると慣れた。鮮やかなオレンジ色の自転車。ペダルを踏み込むと、誰かに背中を押されるように加速した。

天気も良く、自転車日和だった。


「いらっしゃいませ。ランチですか?」

店員は若い女の子だった。よく日焼けした筋肉質の腕が、黒いTシャツから見えている。

「はい」

「今日はもうアジフライ定食しかないんです」店の中は2時目前とあって、3組の漁港関係者と思われるお客さんがいるだけだ。

「はい。それでお願いします」

「アジひとつ!」

「はいよー」厨房から男の人の声がした。


 席に案内される。

柱時計が重たい音で2時を知らせた。ずいぶんと古そうな時計だった。

「ごちそうさん」3組の客も一斉に帰って行った。

店内は船の中のようなインテリアで、海賊でも出てきそうだ。

「お姉さんって磯山歯科さんの歯医者さんですか?自転車が磯山先生のですよね」目立つオレンジ色の自転車は店内からも見えた。

「歯科衛生士です。今週から勤めてます」

店員の女の子はぱっちりとした目でこちらを見つめ、ふふっと笑った。

「訛ってます?先々週に群馬から来たんです」

「訛ってないです」

「アジできたよ!」

「ハーイ」

厨房から声がかかり、テーブルまで出来上がった定食がやってくる。

「アジフライ定食です。熱いから気をつけて」ニコッとした彼女に、思わず釣られて笑った。


 午後の仕事も無事に終わり、先生に挨拶して医院を後にする。歩いて行ける距離に、アパートを借りた。

こじんまりとしたアパート。

設備は古いが、手入れが行き届いていて、快適だ。ほんのりと海の香りを感じながら階段を上がる。


「由紀子」

憲児が薄オレンジ色の外灯に照らされ、部屋の前にいた。

「……こんばんは」他になんと言えばいいのだろう。憲児のスキャンダルは秘書の恋人を週刊誌が誤認した、という苦しい言い訳が通り、無かった事になっていた。

「どうしても話したくて来た」

「すみません。帰ってもらえますか」

「戻って来てほしい。頼む。何でもする」

「これ以上、皆さんにご迷惑をかけるわけにいかないので」

「里香は気にしないと言っていた」

「里香さんには申し訳ないと思ってます」

「よりを戻さなくてもいい。またあの部屋に住んで、芝歯科医院で……」

「あそこはもう芝歯科医院じゃありません」

「由紀子に歯を磨いてもらいたいんだ!」

「私、憲児さんの歯を磨くの好きじゃありませんでした」

「……ずっと付き合ってたじゃないか」

「付き合ってません。私から一度でも好きって言ったり、誘ったり、会いに行った事があったか考えてみて」

憲児は一歩後ずさり、頬に手を当てた。

「歯が痛い。由紀子、歯が痛いよ」

「痛いなら、かかりつけの歯医者に行ってください」

憲児は階段を降り、よろめきながらアパートの敷地から出ていった。

塀の向こうから車のドアが開く音がして、ギャンギャンと犬が鳴くのが聞こえる。

「ポッポ!噛むな!やめてくれ!」

私は階段を駆け下りた。

「里香さん!」

見覚えのある黒塗りの車に、運転席には猫崎がいた。助手席には暴れる白い犬を抱いた里香が座っていた。

里香はパワーウィンドウを下げた。

「由紀子さん」里香の声に非難の響きはなく、だが親しみも無かった。

「里香さん、あの……、ごめんなさい」先ほどの会話が聞こえていたに違いなかった。

里香は美しい目で由紀子を見つめ、窓を閉めた。車は細い小道を通って去っていった。





 10月。

午後三時の喫茶店サン・パウロ。

店内は空いている。頼んだブレンドコーヒーは飲み終わった。

「今日は私服なんですね」レジにいたのはいつもの女の子だった。

「まだお休みに何していいかよく分からなくて。一人暮らしなんです」

店員の女の子は日焼けした顔にわずかに驚いた表情を見せて、すぐにいつもの笑顔に戻った。レジの横に屋外シアターのポスターが貼られている。

日付は今日だ。6時半から。映画は『オズの魔法使』。

「お姉さん、コレ興味あります?私が車出すから一緒に行きません?」

目の前の名前も知らない日焼けした女の子を見る。なんと答えるのが正解なのだろう。

「イエス?」

笑顔で聞かれて、私も思わず笑顔で頷いた。

「おとーさーん、私、磯山歯科のお姉さんと映画に行くから、5時で上がるね!」

女の子は厨房に声をかけた。

「はいよー」

姿の見えない父親の返事は、すぐに帰って来た。












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痛かったら手をあげて 山原水鶏 @zgshorror

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