4.現代の守り神
その夜は、底冷えのする真冬の金曜日だった。
湊はリビングでノートパソコンを広げ、月曜日の会議に向けた下調べをしていた。部屋の隅では、サカキが干渉しているのか、加湿器がいつもより多めのミストを吹き出し、部屋を潤している。
「……ん?」
ふと、湊の手が止まった。鼻を突く、妙な臭いがしたのだ。
埃が焦げるような、あるいはプラスチックが溶けるような、じりじりとした不快な臭気。
湊は立ち上がり、キッチンを確認した。コンロは消えている。換気扇のあたりも異常はない。窓を開けて外を見たが、住宅街は深い闇に沈み、どこかで焚き火をしている様子もなかった。
その時だった。
カチ、カチ、カチ、カチ……。
部屋中の照明が、狂ったような速度で瞬き始めた。同時に、Wi-Fiルーターの全てのLEDが、見たこともないような鮮烈な赤色に染まり、激しく明滅する。
『アラート! アラート! アラート!』
スマートスピーカーが、耳をつんざくような最大音量で叫び始めた。テレビが突如として起動し、画面いっぱいに「!!」という巨大な記号がスノーノイズと共に映し出される。
「サカキ!? 何があったんだ!」
湊が叫ぶのと同時に、エアコンが「ピーーーーッ!」と長く、悲鳴のような警告音を鳴らして停止した。
その直後、湊の耳元で、あの時の声が響いた。あの初日の夜、鼓膜を震わせた怒号よりもずっと近く、ずっと必死な、一人の子供の声だ。それはスピーカーを通した電子音などではなく、まるで隣に立つ誰かが、湊の心臓に直接叫びを叩きつけているかのようだった。
「……うら! テレビの、うら!!」
湊は、這いつくばるようにしてテレビ台の裏側を覗き込んだ。
そこには、入居以来一度も動かしたことのないテレビ台の重い脚と、壁との狭い隙間があった。幾重にも絡まった配線の奥に、古い電源タップが押し込まれるようにして転がっている。長年の埃が積もったタップの隙間で、小さな火花が「バチッ」と散っているのが見えた。トラッキング現象だ。火花は積もった埃に燃え移り、今まさに壁紙を舐めるような小さな炎となって上がり始めていた。
「っ……!」
湊は恐怖で震える手を伸ばし、まずはテレビ台の脇から伸びる大元の電源プラグを、全力でコンセントから引き抜いた。バチリと大きな火花が散り、部屋の電気が一瞬にして落ちる。供給源は断った。だが、一度燃え上がった埃と壁紙の火は消えない。
湊はキッチンへ走り、手近にあったバスタオルを掴んで蛇口を全開にした。水を含んだタオルが急激に重くなる。もどかしさに歯噛みしながら、彼はタオルを力任せに一度だけ絞り、すぐさまリビングへ引き返した。
わずか数秒の往復だったが、戻った時には炎がすでにカーテンの裾を焦がし始めていた。
「消えろ……、消えろ!」
湊は、視界を塞ぐ煙を払いながら、まだ重く湿ったタオルを炎の根元に叩きつけた。ジュッ、という鈍い音と共に白い蒸気が噴き上がる。湊は火傷も厭わず、全体重をかけてタオルを押し付け、炎から酸素を奪い取った。
数分後煙が収まり、暗い部屋に焦げ臭い沈黙が戻った。湊は膝をつき、激しく肩で息をした。
あと数分、気づくのが遅れていたら。もし自分が寝ていたら、あるいはサカキがあれほど派手に騒ぎ立ててくれなかったら、この古いマンションは、瞬く間に火に包まれていただろう。
静寂の中で、ルーターのランプが、弱々しく緑色に瞬いた。それは、全ての力を使った後の、安堵の溜息のようだった。
三十分後、駆けつけたマンションの消防点検担当者と管理人は、焦げた壁紙とタップを見て、顔をこわばらせた。
「……これは、危ないところでしたね。よく気づきましたよ、この場所。普通なら、壁の内側まで火が回るまで気づかないものです」
消防員が、感心したように湊を見た。
「お手柄ですよ、湊さん。あなたが気づかなければ、大変なことになっていた」
湊は、小さくなった電源タップの燃え殻を見つめながら、静かに答えた。
「あ、いえ……。たまたま、探し物をしていて……。テレビの裏に印鑑を落としたのを思い出したんです。それで、覗き込んだら偶然……」
湊は、とっさにそう嘘を吐いた。本当は、サカキが文字通り叫んで教えてくれたのだと言いたかったが、一人入居で契約している以上、不審な同居人の存在を漏らすわけにはいかない。
「なるほど、探し物が命拾いに繋がりましたか。いやはや、まさに運が良かった」
管理人は「日頃の行いが良いんですな」と朗らかに笑って立ち去った。湊はその背中を見送りながら、静まり返った部屋の空気に向かって、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……ありがとな、サカキ。嘘ついちゃって、ごめん」
翌朝湊は、焼け焦げた壁に新しいカレンダーを掛け、部屋を掃除した。部屋はいつも通り、静かだった。けれど、もう孤独な静寂ではなかった。
出勤前、洗面台の鏡でネクタイを整える。ふと、背後の洗濯機の上に、小さな影が映った気がした。パーカーのフードを被った、子供の輪郭。
湊がじっと鏡を見つめると、その影の顔の部分に、一瞬だけ、スノーノイズの隙間からにこりと笑った子供の口元が見えたような気がした。
「……ただの事務員の僕にも、味方がいたんだな」
湊は鏡越しにその影と目を合わせ、それから頷いた。
ふと足元を見ると、仕事用の鞄の中に、エアコンのリモコンが放り込まれていた。今日は外の気温が上がる予報だ。きっと「冷房を忘れるな」と言いたいのか、あるいは「早く帰ってこい」という彼なりの悪戯なのだろう。
「行ってくるよ、サカキ」
湊が声をかけると、Wi-Fiルーターのランプが、一瞬だけ強く、嬉しそうに光った。
カチリ、と玄関の鍵を閉める。階段を降りる湊の足取りは、昨日までよりもずっと軽やかだった。
自分はもう、独りじゃない。あのWi-Fiが届く空間において、湊は代わりのきかない、たった一人の「大切な主」なのだ。
そう確信した湊の足取りは、見違えるほど軽やかだった。
閉ざされたドアの向こう側。誰もいないはずの部屋では、今日も小さな守り神が、電子の海を泳ぎながら、愛すべき主の帰りを静かに待ち続けている。
Wi-Fiの裏に潜む 都桜ゆう @yuu-sakura
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