2.決定的な朝

 その週、湊の勤める商社は異様な熱気に包まれていた。

『プロジェクト・ブルー』。数億円が動く大規模な物流システムの入札案件だ。

 事務職である湊に回ってきたのは、営業部が作成した数百枚に及ぶプレゼン資料の最終校閲だった。

「湊くん、君の正確さが頼りなんだ。明日の朝九時、役員会議が始まるまでに完璧な状態にしておいてくれ。ミスは許されないからな」

 上司の言葉は、期待というよりは「失敗した時の責任の所在」を明確にする宣言のように聞こえた。


 深夜二時半。湊は自宅のデスクで、ブルーライトに焼かれた目をしばたたかせながら、最後のグラフの数字をチェックしていた。

 静まり返った部屋の中で、唯一の音は、カタカタと鳴るキーボードの打鍵音と、Wi-Fiルーターが時折発する微かな高周波音だけだ。ルーターのLEDは、深夜のデータ通信を反映して、神経質なリズムで点滅を繰り返している。

 湊の意識が朦朧とするたび、ルーターの点滅が鋭く、速くなった。まるで、湊の集中力が途切れないよう、目に見えない情報の脈動で彼を鼓舞しているかのようだった。

 背後からじっと見つめられているような、肌を刺す微かな熱。湊はそれを、極度の疲労によるのぼせか、あるいは背後にあるクローゼットの奥から漏れ出している、この古い建物の淀んだ暖気のせいだと思い込もうと努めながら、ただひたすらに指を動かし続けた。

 やがて、時計の針が三時を回る直前、最後のエンターキーが静寂を叩いた。

「……終わった」

 ようやく全ての修正を終えてクラウドへアップロードを完了した。泥のような疲労が全身を駆け巡る。湊は眼鏡を外し、這うようにしてベッドに倒れ込んだ。

 頭の片隅で「アラームをセットしなければ」という思考が火花を散らしたが、重力に負けたまぶたがそれを遮断した。意識は急速に、深い闇の底へと沈んでいった。


 どのくらい眠っただろうか。ふと、湊は自分が「覚醒」していることに気づいた。だが、何かがおかしかった。指先一つ動かせない。

(……金縛りだ)

 経験したことのないほどの重圧が全身を支配していた。胸の上に、巨大な鉛の塊が乗っているかのような閉塞感。呼吸が浅くなり、喉の奥がヒリヒリと焼けるように熱い。

 その時、耳元で「ジジ……ジジジ……」という音がした。テレビの砂嵐を凝縮したような、無機質で耳障りなノイズ。

 視線だけを動かそうとしたが、眼球さえ凍りついたように固定されている。ただ、ぼやけた視界の端で、棚の上のWi-Fiルーターが異常な発光をしているのが見えた。普段の穏やかな緑ではない。パトカーの赤灯のような、あるいは警告信号のような、禍々しい赤色の光が、一定の間隔で部屋を切り刻んでいる。

 ――カサリ。

 布団の下で何かが動いた。

 冷たい。驚くほど冷たい指のような感触が、湊の右足首を掴んだ。それは一本や二本ではない。無数の小さな指が、蜘蛛の子が散るように湊の体を這い上がってくる。パジャマの生地を透過して、その死人のような冷たさが皮膚に直接突き刺さる。

(やめろ……来るな……!)

 悲鳴を上げようとしても、口内は乾ききり、舌は上顎に張り付いて離れない。

 指は膝を通り、腹部を抜け、ついには首筋まで到達した。小さな、けれど力強い手のひらが、湊の頸動脈をじわじわと圧迫していく。死の恐怖が、ドロリとした汗となってこめかみを伝った。

 その時だった。

 部屋中の電子機器が一斉に、飽和状態のノイズを吐き出した。スマートスピーカーが震え、テレビの電源が勝手に入り、エアコンが狂ったように上下する。

 そして、湊の耳朶に直接唇を押し当てるような距離で、その「声」が響いた。

 それは鼓膜を震わせる音というよりは、脳内に直接叩き込まれる電子的な衝撃に近かった。五歳くらいの子供のあどけなさと、何百人もの老若男女が絶叫したものを合成したような歪んだ重低音。それが一つに重なり、逃げ場のない湊の意識を真っ向から貫いた。

「起きろ!!」

 その咆哮と同時に、湊の視界が激しく上下に振れた。声の主が叫びと共に湊の肩を掴み、脱臼させるほどの勢いで前後に揺さぶったのだ。金縛りで凍りついていた感覚が、その乱暴な物理的衝撃によって無理やり砕かれ、湊の体はベッドの上で跳ねるように自由を取り戻した。

「うわあああああああ!!」

 湊は叫びながら跳ね起きた。肺に強引に空気が流れ込み、激しくむせる。心臓は肋骨を突き破らんばかりに脈打っていた。慌てて周囲を見回すが、朝の光が差し込み始めた六畳間の寝室には、人影などどこにもない。ルーターのランプは、何事もなかったかのように静かな緑色の点滅に戻っている。

 湊は震える手でスマートフォンを掴んだ。時刻は、午前八時十五分。

「……っ!」

 喉の奥で、ひゅっと空気が鳴った。家を出るまで、あと十分しかない。

 もし、今の叫び声がなければ。自分は今も泥のような眠りの中にいて、取り返しのつかない大遅刻を犯していただろう。

 湊は、暗いままのスマートフォンの画面を凝視した。本来鳴るべきはずのアラームが設定されていない。昨夜、最後の力を振り絞って作業を終えた自分は、あと一歩というところで力尽き、セットする直前で意識を失っていたのだ。

 あの耳を裂くような絶叫がなければ、今日という日は、湊の会社員人生の終わりの日になっていた。自分を恐怖のどん底に突き落としたあの「何か」が、結果として自分を最悪の事態から救い出したのだ。

「やばい、間に合わない……!」

 湊は震える足で立ち上がり、支度を始めた。

 洗面所へ駆け込み、冷たい水で無理やり頭を覚醒させる。寝室へ戻り、パジャマを脱ぎ捨ててワイシャツを掴んだ、その時だった。

 何気なく視界に入った鏡の中に、自分の体に残る異変を見つけた。湊の手が止まる。

 鏡越しに映る自分の右肩。そこには、誰かに力任せに掴まれたような、鮮明な指の形をした鬱血が浮かび上がっていた。五、六歳の子供の手のサイズ。だが、その指の数は奇妙に多く、どう数えても六本、あるいは七本あるように見えた。

 あの衝撃は、夢でも幻聴でもなかった。

 一瞬、部屋の隅の暗がりに誰かが立っているような気がして背筋が凍った。だが、今は恐怖に浸っている時間さえ惜しい。湊は震える手でボタンを留め、逃げ出すように部屋を飛び出した。


 タクシーに飛び乗り、滑り込みで会社に到着した湊は、無事に資料を提出した。

 会議室に入っていく役員たちの背中を見送りながら、彼は自分の震える指先をじっと見つめていた。

 あの不快な金縛りも、あの耳を裂くような怒号も、自分を呪うための怪異などではなく、泥のような眠りに沈んでいた自分を、強引に現実へと引き摺り出すためのものだったのではないか。もしあのまま寝過ごしていれば、自分という「背景」すらこの会社から消えていたはずだ。そう考えれば、あの暴力的なまでの目覚めは、冷徹なまでの「慈悲」だったと言えるのかもしれない。

 自分は確かに、あの部屋に住む得体の知れない「何か」に救われたのだ。


 その日の夜。帰宅した湊は、暗い部屋の照明をつける前に、Wi-Fiルーターの前に立った。緑色の小さな光が、暗闇の中で規則正しく瞬いている。

「……そこに、いるんだろ?」

 返事はない。ただ、ルーターが微かに熱を帯び、ブーンという低い稼働音を立てているだけだ。

 湊は、意を決してダイニングテーブルへ向かった。彼は鞄からスマートフォンを取り出し、メモアプリを起動した。画面に浮かぶ白い余白に、彼は震える指で、一文字ずつ言葉を打ち込んでいった。

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