Wi-Fiの裏に潜む

都桜ゆう

1.ノイズの混じる日常

 みなとの人生を構成しているのは、他人の使い残したノートの余白のような時間だった。

 朝七時にアラームが鳴り、コンビニのパスタサラダで胃を満たし、満員電車の隅で誰にも肩をぶつけないよう身を縮める。二十八歳、中堅商社の事務職。彼の主な仕事は、営業部が書き散らした数字の整合性を確認し、規定のフォーマットに当てはめていくことだ。

「湊くん、これ、急ぎじゃないんだけど今日中に。あと、ついでにシュレッダーもお願いね」

 先輩社員が投げ置いた書類の束に、湊は「わかりました」とだけ答える。相手は湊の目を見ることさえない。自分は、この世界の解像度を落とした時に真っ先に省略される「背景」なのだと思う。誰の記憶にも残らず、誰の人生も変えない。そんな「モブキャラ」としての平穏が、湊にとっては唯一の安息だった。


 半年前、築四十年のリノベーションマンション『コーポ・サカキ』に越してきたのも、その「目立たなさ」が理由の一つだった。

 古びたレンガ造りの外観とは裏腹に、室内は驚くほど現代的に改装されていた。白を基調とした壁紙、無垢材風のフローリング、そして最新のスマートホーム機能。それなのに、家賃は周辺の相場より二万円も安い。

「……二万円、ですか」

 内見の際、湊は不動産屋の男に確認した。二万円という数字は、単なる「お得」の域を超えている。普通なら、孤独死や凄惨な事件を疑う「事故物件」のラインだ。

 案の定、不動産屋の男は視線を泳がせ、ネクタイの結び目をいじりながら言った。

「ええ。まあ、その……。

 少し、配管の音が気になるという入居者様も過去にいらっしゃいまして。あとは、物件の由緒というか、土地の歴史を気にされる方も。ですが、建物自体に心理的瑕疵(かし)があるといった報告は受けておりません」

 嘘ではないのだろうが、肝心なことを隠している。そんな顔だった。普通ならここで躊躇する。だが、当時の湊は連日の深夜残業と、職場の人間関係の摩擦ですり減り、正常な判断力を失いかけていた。

(幽霊が出るなら、出ればいい)

 湊は冷めた心でそう思った。

 自分のような、誰の記憶にも残らない影の薄い人間に、わざわざ祟りに来るような暇な幽霊がいるだろうか。いたとしても、生きた人間から浴びせられる嫌味や、終わりのない事務作業の山に比べれば、怪奇現象など可愛いものだ。何より、月に二万円、年間で二十四万円も浮くという事実は、彼にとってどんな魔除けよりも魅力的だった。

「いいですよ。耳栓をすれば済む話ですし、僕は霊感もありませんから」

 それに、と湊は自嘲気味に付け加えた。

「僕みたいな地味な人間、幽霊だって化けて出る甲斐がないでしょう。多分、相手にすらされませんよ」

 湊が淡々と告げると、不動産屋の男は「……そうですか」と短く応じた。

 男の顔に浮かんだのは、厄介な在庫が掃けた安堵感だけではなかった。それは、先の短い病人に無理やり保険を売りつけるような、あるいは、すぐ潰れると分かっている店に融資を決めるような、どこか後味の悪そうな表情だった。男は目を合わせないまま、事務的な手つきで契約書を机に広げた。

 その時、部屋の隅にある古い給湯器が、ククッ、と小さく震えた気がした。まるで、湊の「自分なんて相手にされない」という言葉を笑ったかのように。

 しかし、実際に暮らし始めてみると、最初の数ヶ月は驚くほど平穏だった。霊に干渉されることも、恐ろしい現象に悩まされることもない。「自分のようなモブキャラは、怪異にすら無視される」という自嘲気味な読みは、正解だったように思えた。

 配管の音は確かに時折響いたが、それ以上にこの部屋は静かだった。Wi-Fiの速度も驚くほど速く、在宅ワークも快適そのもの。湊は「最高の買い物をした」とすら思い始めていた。

 しかし、部屋に染み付いた「古い匂い」が、最新の加湿器が吐き出すミストに混じり始めた頃、その平穏は少しずつ、ノイズを帯びるようになっていった。


 最初の出来事は、よく晴れた火曜日の朝に起きた。

 いつものように出勤しようと玄関の棚に手を伸ばした湊は、そこにあるはずのものが無いことに気づいた。

「……ない。自転車の鍵」

 昨夜、確かにそこに置いた記憶がある。湊は几帳面な性格だ。物の定位置を外すことは滅多にない。  

 靴を脱ぎ、部屋に戻って探し始めた。棚の裏、ソファの隙間、果ては洗濯機の中まで。刻一刻と時間が過ぎていく。遅刻の二文字が頭をよぎり、焦りで指先が冷たくなる。

 結局、十五分間探し回っても見つからず、湊は諦めて駅まで走ることにした。

「最悪だ……」

 息を切らしながら、いつも自転車で通り抜ける大きな交差点に差し掛かった時。湊の足が、凍りついたように止まった。

 交差点の中心で、大型トラックが横転していた。その下敷きになり、無惨にひしゃげた一台のママチャリ。アスファルトには黒々としたブレーキ痕と、飛散したガラス片が朝日にギラついている。

「……え?」

 もし。もしあの時、鍵がすぐに見つかっていたら。

 湊がいつもの時間に、いつもの速度でこの場所を通りかかっていたら、今頃あのトラックの下にいるのは自分だったのではないか。

 震える足で会社に向かい、一日中上の空で仕事をこなした。帰宅後、疲れ果てて玄関の扉を開けた湊は、悲鳴を上げそうになった。見つからなかった自転車の鍵が、冷蔵庫の、納豆のパックの上にちょこんと置かれていたのだ。

「なんで……僕が、自分で入れたのか?」

 無意識のうちに。認知症、あるいは重度の健忘症。そんな不吉な言葉が脳裏をよぎった。

 それが序章に過ぎなかったことを、湊はすぐに思い知らされることになる。

 ある週末の夜。特売で買ったばかりの三パック入りの納豆が、まだ一つも食べていないのに、ゴミ箱の底に捨てられていた。

「嫌だ。本当に、頭がおかしくなったのかもしれない」

 自分の行動が信じられなくなり、湊は頭を抱えた。しかし、その翌日。スマホに流れてきたプッシュ通知が彼を震え上がらせた。

『重要:〇〇社製「極み納豆」自主回収のお知らせ。製造工程での金属片混入により……』

 ゴミ箱に捨てられていた納豆のパッケージと、画面に映る画像が一致する。

 誰かが、自分の命を守っているのか。それとも、もっと恐ろしい何かが、自分を弄んでいるのか。

 湊は、ゴミ箱の中の納豆を見つめたまま、得体の知れない寒気に襲われた。

 助けられた。そう思うには、やり口が不気味すぎる。もし「何か」が部屋にいるとして、それは自分を慈しんでいるのではなく、まるで飼育箱の中の虫を観察し、死なない程度にピンセットで突(つつ)き回しているのではないか。

「守護」と「悪意」の境界が曖昧なまま、湊の心は休まる暇を失っていった。部屋に漂う気配は、もはや気のせいでは済まされないほど、濃密な「物理的な質量」を伴い始めていた。

 深夜。湊がベッドの中でスマートフォンの画面を眺めていると、リビングに設置したスマートスピーカーが、前触れもなく起動した。

 ポーン、という受付音。

『……後ろにいます』

 合成された無機質な女の声が、静寂を切り裂いた。湊の背中を、氷の指でなぞられたような戦慄が走る。

「……誰、だ」

 震える声で問いかけても、スピーカーは『お役に立てそうにありません』と冷たく返すだけだ。


 また別の夜。消したはずのテレビが、突然ついた。映し出されたのは番組ではなく、ザラザラとした白と黒の砂嵐、スノーノイズだった。デジタル放送が主流の現代において、目にすることのないはずのその光景は、あまりに場違いで不気味だった。

 ザーッ、という耳障りな音が部屋を満たす。湊が慌ててリモコンを探すと、それはなぜかテレビの真ん前、床の上に垂直に立てられていた。

「ひっ……!」

 喉が引き攣った。テレビの画面を凝視する。

 ノイズの中に、時折、何かが見える気がした。それは、パーカーのようなものを羽織った小さな子供の輪郭。だが、顔の部分だけがテレビの砂嵐と同期したように激しく歪み、目も鼻も口も判別できない。

 ノイズの隙間から、ジジッ、ジジジ……という電子的な摩擦音に混じって、複数の子供が同時に笑っているような声が聞こえた。

 湊は気づけば、キッチンの隅で蹲っていた。

 この部屋には、自分以外の何かがいる。それはWi-Fiの電波という見えない情報の波を棲処すみかとしながら、同時に、部屋中の壁を這う配線や家電の回路にまで、その不気味な指先を伸ばしているのだ。

 目に見えないネットワークから、物理的なコンセントの奥底まで。この部屋のあらゆる電気的エネルギーが、その「何か」の通り道になっている。

 古いマンションに付き物のネズミや害虫ではない。もっと現代的で、それでいてひどく古風な「悪意」あるいは「守護」。

 窓の外には、都会の夜景が広がっている。数えきれないほどの光の粒。その一つ一つに人が住み、生活があるはずなのに、今の湊にとっては、この部屋だけが世界から切り離された暗い深海の底のように感じられた。

 壁に設置されたWi-Fiルーターの、緑色のLEDランプがチカチカと点滅している。まるで、暗闇の奥で誰かが瞬きをしているかのように。  湊はガタガタと震えながら、朝が来るのをただひたすらに待った。

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