[Chapter 2: 断ち切れぬ想い]

窓の外には、どろりと濃い夜の闇が張り付いている。

しんと静まり返ったワンルームマンションの密閉された空間で、瀬戸陽葵はスマートフォンの画面を凝視し続けていた。

液晶から放たれる冷たい青白い光が、彼女の貌を死人のように白く塗り潰している。


何度、そのシークバーを戻しただろうか。

画面の向こう側、登山系配信者の背後に、それはいた。

ほんの一瞬、ノイズのように映り込む人影。

首をわずかに傾げる癖、なだらかな肩のライン、そして遠目からでも伝わる、あの異様なほど穏やかな佇まい。


「ほんとうに……悠真、なの?」


震える声が、誰に届くこともなく空気に溶けて消える。

二年前、彼女の世界は唐突に機能を停止した。

深夜に鳴り響いた警察からの電話。消毒液の臭いが立ち込める病院の廊下。

白い布の下に横たわっていた彼は、もはや愛した男ではなく、熱を失った一つの「物質」に過ぎなかった。

触れた指先から伝わってきた、骨まで凍りつくような死の感触を、彼女の心臓は今も記憶している。


葬儀を終え、遺骨を墓に納め、彼のいない日常を「死んでいないだけ」の状態で消化してきた。

そんな彼女の前に、死んだはずの男が、デジタルの砂嵐を超えて回帰してきたのだ。


あり得ない。


脳の冷静な部位は、それが単なる見間違いか、あるいは奇跡的な偶然が生んだよく似た別人であると冷たく告げている。

しかし、陽葵の心はその否定を即座に跳ね除けた。

これは理屈ではない。もっと深い場所にある、魂の記憶だ。


動画の背景にある、東北の深い山中に位置するという地図の空白地帯。

そこには奇妙な鳥居が立っていた。

赤というよりはどす黒く、まるでそこだけ時間が腐敗しているかのような不気味な景色。

彼はその「境界」に立っていた。


もし、あれが本物の彼なのだとしたら。

なぜ彼はあんな場所に留まっているのか。

あるいは、彼はあの場所から助けを求めているのではないか。


一度芽生えた疑惑は、猛烈な勢いで陽葵の精神を侵食していった。

会いたい。もう一度だけでいい。

その理由を知るためなら、今の生活など、脱ぎ捨てた抜け殻のようにどうなっても構わない。

彼女は立ち上がり、デスクに置かれたノートパソコンを開いた。


動画に映り込んでいた地形、植生、配信者が漏らしたわずかな言葉の端々。

それらを執拗に繋ぎ合わせ、撮影場所という名の「目的地」を特定していく。


夜が明ける頃、陽葵は会社へ一通のメールを送った。

身内の不幸という体裁で、一週間の休暇を乞う。

嘘を吐くことに罪悪感はなかった。今の彼女にとって、現実の世界は鏡の向こう側の出来事のように希薄で、手触りのないものに変わっていた。


クローゼットの奥から、埃を被った小さめのポーチ鞄を引きずり出す。

最低限の着替え。彼との思い出を閉じ込めたままのデジタルカメラ。

気休めにもならない安物の懐中電灯。

実用的な装備とは言い難いが、今の彼女にはそれが精一杯の武装だった。


洗面所の鏡の前に立つと、そこには酷くやつれた女がいた。

頬はこけ、目の下には澱のような隈が落ちている。

光を失った瞳は、この二年間で流した涙の量を物語っていた。

しかし、その瞳の奥には、以前にはなかった鋭い意志の火が、狂気にも似た光を宿して灯っている。


「いま行くよ、悠真」


自分自身に呪いをかけるように、彼女は呟いた。

これが現実逃避だとしても、残酷な幻影だったとしても、確かめずにはいられない。

東北の山、あの赤黒い鳥居の先にある「何か」が、自分を呼んでいる。


彼女は硬く結んだ口元を一度だけ緩め、深く息を吐き出すと、部屋を後にした。

玄関の鍵を閉める音が、静まり返った廊下に重く、しかし静かに響いた。


それは、彼女が安穏とした停滞を捨て、未知なる場所、愛した者の元へと足を踏み出す決意の音だった。

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