彼岸華の夢

月雲花風

[Chapter 1 不気味な動画]

窓の外には、二年前のあの惨劇の日をなぞるような、重く湿った雨が降りしきっていた。


二十二歳。本来なら生命の輝きを謳歌しているはずの瀬戸陽葵(せと・ひまり)は、薄暗い自室のベッドで、ただスマートフォンの液晶が放つ無機質な青白い光に顔を照らされていた。

かつては「太陽のように笑う」と称された彼女の面影は、今や見る影もない。


瞼の裏に焼きついているのは、あの一枚の静止画だ。


大学の並木道、乱舞する桜の花びら。

レンズの向こうで悠真が笑い、彼女もまた、眩しそうに目を細めていた。

あの瞬間、明日という時間は永遠に更新され続ける当たり前の事だと信じて疑わなかった。


だが、その傲慢な平穏は、あまりにも残酷な現実という暴力によって粉砕された。


赤信号を蹂躙した大型トラック。

鼓膜を抉るような金属の断末魔。

凄まじい質量が彼女の「太陽」を押し潰し、一瞬にして永遠の闇へと叩き落としたのだ。


今、彼女の感覚を支配しているのは、窓を打つ重い雨音だけだ。


心の中に横たわる時計の針は、あの日、あの時から一秒も動こうとはしない。

ただ湿った錆だけが、静かに、確実に、彼女の意識を侵食し続けていた。


カーテンを閉め切った六畳一間のアパートは、彼女の精神の器そのものだった。静謐で、停滞し、どこか腐蝕の匂いが漂っている。


目的もなく指先で画面をスクロールし、興味のない広告や、見知らぬ他人の幸福な断片をやり過ごす。それが彼女に許された唯一の、そして最も空虚な現実逃避の時間だった。


不意に、アルゴリズムが提示した一つの動画が、彼女の指を止めた。


『【探索】東北の禁域?地図にない古道で見つけた謎の鳥居が不気味すぎた』


投稿者は「カノン」という名の、登山を趣味とする配信者だった。

普段の陽葵なら、こうしたオカルトじみたコンテンツには一瞥もくれなかっただろう。しかし、サムネイルに映し出されたその「異常」に、心臓が微かに脈打った。


苔生し、どす黒い赤色を放つ鳥居。それは周囲の原生林から浮き上がっているように見えた。

何かに手招きされるように、陽葵は再生ボタンをタップした。


動画は、カノンが東北の深山を軽快に歩くシーンから始まる。

「今日はちょっと、冒険してみようと思います!」

スピーカーから流れる無邪気な声。彼女は獣道すら定かではない斜面を登り、光の届かない杉林の奥へと侵入していく。画面越しにも、森の湿った空気と、重圧のような沈黙が伝わってくる。木々の間を抜ける風の音が、陽葵の部屋の静寂を浸食し始めた。


数分後、配信者の声が強張った。

「……え、何これ。こんな場所に、道なんてないよね?」


カメラがパンした先、鬱蒼と生い茂る木々を力任せに押し広げるようにして、その鳥居は立っていた。

朱色は剥げ落ち、赤黒くくすんだ木肌は、まるで火に焼かれた人骨を思わせる。扁額(へんがく)の文字は刃物で削り取られたように判読不能で、その奥には、光を拒絶するような底なしの暗闇が広がっている様に思えた。


カノンが鳥居に近づこうとした、その時だ。

カメラが激しく手振れを起こし、デジタルのノイズが画面を走る。

配信者自身は気づいていないようだったが、リアルタイムのコメント欄は、ある一点の異常に騒然としていた。


陽葵は息を止め、動画を一時停止させた。

コンマ数秒、シークバーを戻し、スロー再生にする。

レンズが鳥居の柱をなめるように捉えた一瞬、その背後、深い茂みの影に――。


「……嘘」


震える声が漏れた。

そこに、一人の男が立っていた。

白いシャツ。少し癖のある黒髪。そして、穏やかでありながら、どこか遠い場所を見つめるような優しい眼差し。


それは、この世の誰よりも陽葵が知っていて、そして二度と触れることができないはずの、愛した人の姿だった。


浅見悠真(あさみ ゆうま)。

二年前の冬、彼女の目の前で、暴走したトラックの犠牲となり、物言わぬ肉塊へと変わった恋人。

警察も、医者も、そして火葬場の炎も、彼の死を残酷なまでに見せつけていたはずだった。


陽葵の瞳から、熱いものが溢れ出した。スマートフォンを保持する指先が、痙攣するように震える。

画面の中の彼は、生気を欠き、幽霊のように輪郭が透けて見えた。だが、その立ち姿、肩の傾き、少しだけ首を傾げる癖――すべてが、悠真そのものだった。


コメント欄は「幽霊だ」「合成だ」と不気味な熱狂に沸いている。

だが、陽葵には分かっていた。これは他人の空似などではない。

自分の心臓の奥深くに刻み込まれた、彼という存在の、唯一無二の姿だ。


彼女は憑かれたように動画を巻き戻した。画面を最大までズームし、画素が粒子となって崩れるほどに彼を求めた。

悠真は鳥居のそばで、何かを待つように、あるいは何かから守るように、静止していた。


彼が立っているのは、あの鳥居の「向こう側」なのだろうか。

それとも、この現世に何らかの未練を繋ぎ止めているのだろうか。


「悠真……どうして、そこにいるの?」


返ってくるはずのない問いかけが、雨音の中に溶けて消える。

二年間、完全に停止していた時計の針が、不吉な軋みを立てて動き始めた。


東北の深い山。由来不明の鳥居。そして、死の深淵から姿を現した恋人。

それらが、陽葵の「絶望」という名の安寧を、容赦なく引き裂いていく。


もはや、後戻りはできない。そんな確信があった。

この場所へ行かなければならない。たとえそこが、生者が足を踏み入れてはならない、常夜の国への入り口であったとしても。


陽葵は濡れた頬を拭うことも忘れ、投稿者のプロフィールや撮影場所のヒントを狂ったように探し始めた。

その瞳には、久しく失われていた、執念という名の暗い光が宿っていた。

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