涙とともに卵かけご飯を食べた者でなければ、人生の本当の味は分からない。
吉高 都司 (ヨシダカ ツツジ)
第1話
つぎの患者さん呼んでください。
最近配属されたばかりの看護師さんが、廊下の待合席で待っているであろう患者さんを呼びに行った。
ドアの向こうで、次に入って来るであろう、患者さんの名前を読み上げるのが、ドア越しに聞えた。
暫くするとスライド式のドアが開き、本人と、付き添いの母親が入って来た。
カルテに目を通すのにキーボードを叩いて、画面に映ったデーターを確認した。
今年、中学に進学する年齢と、大まかな症状を見て取った。
あの子の症状、そのものだった。
あの子。
僕が引っ越した先は、親の転勤であの町、片田舎と言うには、そのものズバリ絵にかいたような片田舎だった。
木造の駅舎、駅前のロータリーの周りに商店街と本屋、後は食堂があるくらいの。
建設中の大型スーパーの工事現場から漏れてくる工事の音が、この町のこれからの発展の音に聞こえていた。
そこからバスに揺られて十五分くらいだったのが、とても長く感じた。
それくらいの、片田舎だった。
そこにある、新興住宅地は、周りがほとんど自分と同じような年代の家族が移り住んでいた。
あの子にはじめて会った時、白杖の印象が大きかった。
カツカツと歩くときは、器用に白杖で床や壁を叩きながら真っ直ぐに歩いていた。
校舎の中では、友達が手を引いたり、肘を持たせたりしながら、各教室の移動や、学校帰りなど、彼女の周りには絶えず人がいた。
とても明るく、人を引き付ける何かがあるのだろう。と、僕は遠巻きに見ているだけだった。
心臓に持病があった僕は、みんなと同じように運動が出来なくて、必然的に休み時間は教室で本を読んでいた。
専ら、休み時間などはドッジボールや何かで、グラウンドに出る男子が多い中、元々本が好きだった僕は、休み時間のほとんどを読書にあてていた。
お陰であだ名は博士、あまりいい印象は無いけれど、特に嫌でなかったからそのままにしておいた。
博士君。
ある日の休み時間、彼女に急にあだ名を呼ばれた。
気が付くと、僕と彼女の二人きりになっていた。
さっと、教室の中に風が吹き抜け、カーテンをたなびかせていた。
えっと、何。
僕が答えると。
いつも、本読んでいるのね。
と彼女。
エーと、なんて答えたら良いのか分からずにいると。
目が見えなくても、ページをめくる音がするわ。
いつも位置も同じ方向から。
彼女は、こっちを向いて、微笑んだ。
僕は、心臓が止まるかと思った。
女の子に微笑まれたことが無かったから。
女の子の笑顔を真正面からはっきりと向けられるなんて、全くなかったから。
えっと、と、さっきからえっと、としか言って無い。
女の子と話すなんて、朝のオハヨー、下校のバイバイ、さよーならーくらいしかない。
何て話したらいいのか答えに苦しんでいたら。
廊下から、ガヤガヤとこの教室に向かって来るみんなの声が近づいてきた。
彼女は、それを聞くと、慌てたように。
今度、本を読み聞かせてくれたらうれしいな。
博士君が大好きな本でいいから。
と、ここまで慌てて言うと。
みんなの入って来る方に向き直った。
教室に、今度は負けないからな、いい戦いだったわ、あの時のボールはたまたま当たっただけだって、そんなことないわ、ぜってー負けねえからな、とか色々ガヤガヤ言いながらドッジボールを持った男子と、女子が入って来た。
男女混合か、男子、女子チームでドッジボールの感想戦を繰り広げていた。
ふと、さっき本を読んでくれないかと言ってきた彼女は、彼女の席に集まって来た女子の友達数人とお喋りしていて、さっきのセリフが僕の聞き間違いじゃないか。と、勘違いしてしまいそうな、あれが現実だったのか、なんだったのか不思議な感覚だった。
その不思議な感覚は間違いじゃないと、思ってたよりも早くに分かった。
市民ホールで、読書、読み聞かせ朗読会があって、僕はボランティアである本を読むことになっていた。
そこに、来ていたのが彼女だった。
母親らしい女性と一緒に来ていて、僕は会場のみんなに、前回の続きから読みだした。
面白かった、また今度聞かせて下さいな、と、母親らしい人が僕に会釈をして、そして手を引かれ彼女達は出て行った。
今度、私の家に来て、読んで下さる?と。
後日、彼女の母が市民ホールで顔見知りになった僕を、母親の了解を得たからと、自宅に招待した。
通された部屋のテーブルには、木の四角いまな板の上に規則正しく穴の開いた鉄製の定規が乗ってる何だか初めて見る物があった。
好奇心に負けて、これはなに?と僕が聞くと。
どれ?と言って。
テーブルの上にあったそれを、彼女に触らせた。
あーこれ?と言って手早く、一枚の白い紙をまな板の上に乗せ、上辺にある金具に紙を挟み、無数に穴の開いた鉄製の定規をその直ぐ下に合わせた。
そして、右手に鉄の先の尖っていない針よりもずっと太い鉄の棒を、その無数に空いた穴に、ある一定の間隔で押し込んでいった。
その定規の右から左まで穴あけを進めて行ったあと、白い紙を、そのまな板から外し僕に手渡した。
かざすと、横一列に小さい凸凹が並んでいた。
点字。
彼女はそう言った。
よく、エレベーターの階層のボタン付近や、公共の施設の案内板にこんな点があるでしょう。
目の見えない人が、触ってその文字を読むための文字。
と続けた。
僕も触ってみたけど、全く分からなかった。
全然分からないや。
そう言うと。
彼女は、
クスクス笑って。
そうね、習わないとね。
と、言った。
一冊の本を点字にしようと思ったら、すごい沢山のページになったり、原本と少しニュアンスが変化したりするから、こうやって読んでもらうのはとっても助かるの。
そう続けた。
その後何度か、家に行き本を読んであげた。
小さな朗読会。
僕は、夏目漱石や太宰治、ヘッセなど手あたり次第持って行って読んだ。
二人だけの朗読会。
暫く続いたそんな夏のある日
どこか遠くへ、行きたい。
彼女はそう言った。
海の見える、私は見えないけど、以前連れて行ってもらった時海の匂いと音がとても心地よかった。
じゃあ一度行ってみようか。
僕は勇気を出して言ってみた。
電車を乗り継ぎ、着いた海の見える街。
白い杖を器用に扱いながら僕の後ろを歩いていた。
僕は勇気を出した。
彼女の左手を握り歩き出した。最初はびっくりしたようだったが、やがて笑顔になった。
陽に照らされた彼女の笑顔はまぶしかった。
其のまぶしかった笑顔は、夏休みが終わりと共に、突然去っていった。
あまりに突然だったので、理解が追いつかなかった。
あんなに、本を読んだのに、そう思って。
彼女の家に行ってみた。
表札は外され、人の気配は全くなかった。
ガレージには、後で処分するのだろうか、持ち主から引き離された家具が、鎮座していた。
僕は泣きながら家に帰った。
僕は泣いた、悔しくて泣いた。
早く大人になって、強くなりたい、心底そう思った。
強くなって守れるものを守りたい。
そんな大人になりたい、と。
部屋の隅で、膝を抱え、拳を握り締め、ありとあらゆる罵詈雑言を自分に向けて、不甲斐ない自分に向けて放っていた。
それに、輪をかけて腹が立ったのが、そう言った状況でもお腹が減る事だった。
真っ暗な居間に行き、片付けられたキッチン、食べるものはなにも無かった。
自分からいらないと言って、自分の部屋に籠ったのだから、当然と言えば当然。
それでも白米は、炊飯器の中に湯気を立ていた。
おかずも何もないが、生卵があった。
ご飯をよそいで、生卵を割って入れた。
普段なら、生卵は別の器でかき混ぜるのだが、白米の上に直接割り入れ、味付けをして、一気にかきまぜた。
お腹がすいていたので、いつもよりおいしく感じた。
その事が、自分の悔しさを再び増長し、涙が溢れてきた。
悔しいのに、悲しいのに、おいしく感じてしまう自分が、不甲斐ないのに一丁前に、おいしく感じてしまう自分に腹が立って、怒りと悔しさとで、また涙が溢れて泣きながら卵かけご飯を掻き込んでいた。
この時の味は今でも忘れはしない。
あの味が、その後の僕の人生を、決定づけたのかもしれない。
その後、僕は心臓の手術を経て高校、大学とラグビーが出来るようになるまで回復し、この世から目の不自由な人を根絶したいと、単純な子供の誓いを胸に、ただひたすらがむしゃらに進んだ。
実直に、それだけを思い、決して平坦な道のりではなかったが、医療に携われる医者の卵となって、研修医としてこの大学病院に身を寄せている。
目の前の彼女の病状を、指導医と共にカンファレンスし、白杖を持って、母親と共に病室を出て行く彼女を見送った。
後姿に、あの日の彼女と重ね合わせた。
先生。
先の看護師さんが僕を呼んだ。
次の患者さん、お呼びしていいですか。
と、続けた。
あ、お願いします。
と、僕。
廊下に、看護師さんが患者さんの名前を呼ぶ声が、ドア越しに響いた。 了
涙とともに卵かけご飯を食べた者でなければ、人生の本当の味は分からない。 吉高 都司 (ヨシダカ ツツジ) @potentiometer
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます