玻璃にエレクトリカ

湊波

序章 あとのまつり - After Silver Coins -

第1話 終わりよ。なにもかも

 硝子ガラスの心に電気がはしって、あたしは失恋の痛みを思い知った。


 ひなは意を決して携帯端末から顔をあげる。狭いアパートの一室だ。ダイニングテーブルには、冷えきったコーヒーがはいったままの海色のマグカップがふたつ並んでいる。おそろいという言葉の苦みを、ひなはなんとか無視した。カップがふたつあるだけよ。ひとつはあたし。もうひとつは目の前の裏切り者。あぁ最悪だ。こんな別れ方をするなんて半年前のあたしに言っても信じないだろう。頭の中は言葉の嵐であふれているのに、二人きりの部屋は静かだ。


 裏切り者の男がコーヒーをひとくち飲んだ。色素のうすい髪はさらりとしていて、襟足えりあしだけが少し長い。ニットにジーンズという私服のくせに、どこかモデルのような出で立ちだ。しなやかだけれど男らしい首筋、長いまつ毛が影を落とす涼やかな目元、映画のワンシーンのような物憂げなため息。


 馬鹿。見惚みとれてどうするの。


「別れよ」ひなは固い声で言った。「終わりよ。なにもかも」


 裏切り者がテーブルの上で指を組んだ。真剣な表情を作ってみせる。


「考えなおさない? ひなちゃん」

「無理。浮気したのはあんたのほうでしょ」

「浮気じゃない。終電逃したから、部屋を借りてただけだよ」

「正確に言って。あんたは女の人の家に一晩泊まってた」

「まりこさんは気にしてなかったさ。ひなちゃんと付き合ってるって言ったけど、笑って流してくれたよ?」


 天気話並みの気軽な返事でとうとう限界がきた。ひなはコーヒーカップの中身を裏切り者に向かってぶちまける。「それを世間は浮気っていうのよ、繊月せんげつゼン」


 前髪からコーヒーをしたたらせながら青年が目を丸くする。くそっ。ひなはわめき散らすかわりに息を止めて立ちあがった。ソファに放り投げていた通学鞄をつかみ、そのまま玄関へ直行して家を出る。


 扉を閉めたところで息が続かなくなった。背中を乱暴に扉へ預け、その勢いのままずるりと座りこむ。あいつが追いかけてくる気配はない。それはつまり、そういうことだ。


 あたしたちは別れた。今この瞬間から恋人ではなく赤の他人だ。


 不思議と涙はでなかった。怒りよりも夜通し起きていた疲れと、たった十分にも満たないやりとりが終わった解放感がどっとのしかかってくる。まったくもう、なんなのよ。


 ひなは立てた膝から顔を少しだけあげ、金属の手すり壁越しの冬の朝日に叫んだ。


「……ばーか!」



 *****



 西暦二〇二〇年、世紀の大発明があって機械人形クォーツが生まれた。人間とおなじやわらかな体を持ち、脳の代わりに電子チップで思考する人形。電子チップに水晶の欠片を使っているからクォーツと呼ぶ。


 その使命は人間とともに暮らし、彼らを支援すること……これはまぁいい。

 機械人形であることにも不満はない。学校に行かなきゃいけないのは同じだし。


 問題は何事も自分で考えなきゃいけない、ということだ。

 具体的に言うと失恋。その対処法を。


 それくらいは対処法をインプットしてくれてもいいんじゃないの? どう考えても人生の無駄でしょ。ていうか浮気ってなによ。そんなふうに文句を並べたところで誰が答えてくれるでもなく、結果として苛々とモヤモヤを抱えたまま、もっと正確にいうなら最高潮に不機嫌なまま、ひなは高校卒業三日前を迎えた。


「ねぇねぇ見た? 今朝の繊月せんげつくんの呟き」


 真岡第一高校、その四階である。屋上へ通じる階段を登りきる手前でヒソヒソ話が飛んできて、ひなは危うく階段を踏み抜きそうになった。


 先頭を行く男子がひとりと、中ほどに女子がふたり、それを追いかけるのがひなという構図でかれこれ一時間ほど行動している。仲がいいわけじゃない。卒業前の最後の授業のせい。グループ行動なので仕方なく。


 話を切り出したのはおさげの少女のほうで、授業中だと言うのに得意げに携帯端末を見せびらかしている。


「ほらこれ。急にひとりになって寂しいって書いてある。かわいそうじゃない?」


 ひなは顔をしかめた。

 ぜったいに嘘だ。わざわざSNSで呟いてみせたのは一万人のフォロワーの同情をひくために違いない。


「通学中だったのに、私、思わず叫んじゃった。でもまぁ良かったのかもね? たしか付き合ってた子、不良みたいな女の子だったらしいし」


 失礼な。たしかにあたしは金髪で、目も緑っていう派手な見た目だけど、どっちも生まれつきそうなんだから仕方ないでしょ。


「女子ってほんと、繊月ってやつの話が好きだよな。あんなナヨナヨしたやつの何がいいんだよ」


 ひなはぼそっと呟いた。「……少なくとも、あんたよりは良い顔してるわよ」


 繊月ゼンの顔立ちはアイドルみたいに華やかだ。実際はアイドルじゃないけれど、気が向いたときに読者モデルの仕事を引き受ける程度には顔がいい。普段は軽薄そうな雰囲気のくせに、きちんと女子のエスコートもできる。真剣なときだけ男らしさが垣間見えるのもいいとおもう。ギャップ。それだ。


 それにひなはやられた。半年前、夏休み目前の七月最後の週だ。ところが蓋を開けてみればヤツはとんでもない我儘わがまま男で、ひなのことはいつまでも子供扱いし、挙げ句とんだ浮気野郎だったというわけ。それでも最後まで顔だけは良かったわけだけど。くそったれ。


 というか、やけに静かじゃない?


 ひなは我に返った。男子ひとりと女子ふたりがじっとこちらを見つめている。まずい。


「お前さぁ、失礼すぎじゃね?」男子が不機嫌そうに言った。

「あーっと……ごめん」

「ちょっ、ひなの返事適当すぎるんですけど。ミヤもそう思うよね?」おさげが隣の少女の肩を叩いた。

「えぇ、そうですね。ひなさん、私たちは人間を支援する立場なんですから」


 ミヤと呼ばれた少女は優等生のお手本のような綺麗な笑顔を浮かべて、ことりと首をかしげた。ファストフードの店員もびっくりの機械人形スマイルだ。居心地が悪い。ものすごく。ひなが逃げるように目を逸らしたときだった。


 耳裏でノイズが鳴る。


 波長十四キロヘルツ、細い金属の糸を弾いたみたいな音。この授業で設定された課題だ。


 ひなは階段を駆けのぼった。戦闘支援モードに切り替わったミヤの鋭い声が、後ろから追いかけてくる。


「ターゲット接近、距離三十メートルです!」


 屋上の扉を勢いよく開く。


 雲ひとつない晴天だ。コンクリートの地面は雨だれでまだらに灰色になっていて、高さ二メートルほどのフェンスは緑のペンキが錆びついている。人影はない。当たり前だ。真岡第一高校を中心に周囲二キロは関係者以外の立ち入りが禁止され、仮想空間と接続している。


 現実世界に仮想空間を重ね合わせる技術も、二〇二〇年代に大きく躍進した。いまや小型装置数台でエリアを囲めば、その範囲内に自在にデータを投影できる。たとえばひなが踏みしめているコンクリートの屋上、その感触は本物だ。けれどその見た目はデータで表現されたものだ。今日は深度3Hのデータが採用されているから、三時間前の現実世界を映していることになる。


 けれど、世界の見た目を変えることは目的じゃない。

 データにひそむバグを可視化して、効率よく退治することこそが目的だ。


 そのバグは獣の形で、給水塔のてっぺんにいた。体長二メートル弱、丸々とした体は真っ黒な毛並みに覆われ、鼻と上唇が先端にむかって長く伸びる。投影技術を創った研究者はバグを虫ではなく動物――バクという形で表現するよう設定した。間違いなく正しい判断だ。もし虫の形をしていたなら、バグ退治はもっと不人気な仕事になっていただろう。


 唸り声をあげた獏が突進してきた。ひなたちは二手に分かれて飛び退く。ど派手な音を立てて鉄製の扉がひしゃげた。近くで見るとかなりでかい。蛍光赤デジタルレッドの目は興奮したようにらんらんと光っている。これは実習用の獏で、ひなたちを傷つける設定はされていないはずだ。


 たぶん。

 おそらく。


 獏が怒りをぶちまけるように蹄で地面を叩き身を低くする。反撃が必要だ。ところがひなの後ろでは、おさげの少女が悲鳴をあげて尻もちをついている。あぁもう、これだから口先ばっかのやつは嫌なのよ。


 ひなは携帯端末を取り出して画面を叩いた。簡易記述式コードが起動し、合成音が響く。


起動Act初期刀Default


 端末から投射された灰白色の燐光がひとふりの刀を作る。刃長六十センチ、地鉄じがねは黒灰色。刃紋のほとんどない刀身は文字通り初期刀だけれど、武器であることには違いない。


 獏が襲いかかってくる。ひなはすれ違いざまに右前足を切りつけた。手応えは浅い。獏は真っ黒な血を撒き散らしてよろめいたが、蛍光赤デジタルレッドの目に宿る危険な輝きはいっそう強くなった。その口がぱかりと開く。喉奥に不穏な黒色の燐光が渦巻くのが見えた。まずい。


 身をひこうとしたひなとは反対に、男子学生が意気揚々と前へ飛び出した。その手には、ひなの刀よりもずっと美しい刀がある。地鉄はやわらかな若葉色、ゆるく波打つ刃紋もはっきりしている。間違いなくひなの刀よりも上位のはずだ。でも、タイミングが悪すぎる。


 ひなはとっさに男子の首根っこをつかんで引き倒した。直後、獏の口から黒色の燐光がレーザーみたいに放たれる。首をひねった。


「っ、」


 右頬にはしった鋭い痛みに、ひなはひるんだ。ほんの一瞬だ。でも戦闘においては致命的だ。気付いたときには獏はひなの目の前に迫っている。


 どこからともなく簡易記述式コードの合成音が響いた。


起動Act白雪の原Freeze


 地面から四本の鎖が飛び出して獏の巨体を絡め取った。ひなの目と鼻の先で獣が潰れたように崩れ落ちる。空がかげった。


 顔を跳ね上げたひなは、一人の少年が飛び降りてくるのを見る。無造作にめくった制服の袖からのぞくのはしっかりと筋肉のついた腕だ。スポーツ刈りの黒髪、不機嫌そうな眉間の皺。長身の彼が空っぽの手を宙に突き出すと同時、声が響いた。


 やわらかく高らかな少女の声だ。


創造装填イマジナリー・ロード!』


 少年の手のあたりで青の燐光がうずまき弾けた。あらわれた刀は雨上がりを迎えた露草の花弁色。明るい薄青色の光を帯び、真っ直ぐな刃紋が太陽の光を弾く。


 飛び降りざま、少年が獏の頭部に刀を突き立てた。獣の動きが止まり、一拍あとに巨体が内側から膨らんで弾けた。零と一から構成される黒の燐光が飛び散る。


 少年のところに少女が駆け寄ってくる。腰まで伸びた黒髪と、満開の桜を思わせる薄紅色の瞳が印象的な彼女は、不良少年の無事を喜ぶみたいににっこり微笑んだ。


 その場にいる全員の携帯端末が鳴動し、教師の声を吐き出した。


おめでとうCongratulations青柳あおやぎ義清のりきよならびに機械人形クォーツサクラによる標的の討伐を確認したため、実習を終了します。全員、体育館へ再集合するように。それから個体番号1393X、識別名称ひな。授業終了後、生徒指導室に来なさい」


 ひなはうんざりと携帯端末を引っ掴んだ。


 まったくなんなのよ、もう。現実に引き戻されてため息をつく。薄紅色の目をした少女が、ちらと視線を向けてくる。それから逃げるように、ひなは早足で校舎にはいった。



 *****



 今どきの義務教育における、機械人形クォーツへの教育方針はいたってシンプルだ。


 ひとつ、機械人形の役割は人間を支援することである。

 ふたつ、仮想現実での戦闘支援とは、人間のための武器を創ることである。


「だからあなたもパートナーの武器を創らなければならないのよ。自分で武器を振り回すんじゃなくてね。分かるかしら、ひなさん」


 なめらかな声で諌めてくる教師の声に、ひなはむっつりとした。


 校舎二階の端、とびきり日当たりのいい生徒指導室はとにかく狭い。足の錆びた長机には、本と黄ばんだプリントの山がうず高く積まれている。床には表面の剥げた地球儀やら、埃をかぶったスクリーンやらが転がっていた。そのほか奥行きがやたらあるテレビとか、なんて書いてあるのか分からない立て看板とか、枯れた観葉植物とかエトセトラ。


 その部屋の真ん中だ。長机をはさんで、ひなはかれこれ一時間あまり説教をくらっている。まさか卒業目前まで呼び出されるとは思ってなかった。しかも今さら、機械人形だから戦うな、なんて。


 体育教師が首を傾げてみせた。紺色のジャージ、ひとつくくりにした黒髪、それから万人受けしそうな特徴のない顔立ち――思春期の子どもを指導する目的で作られた機械人形の識別名称はマリコだ。そういえば、あいつの浮気相手もだった。嫌なことを思い出して、ひなは顔をしかめる。


 二人目のマリコこと体育教師は、腹が立つくらい落ち着いた声で尋ねた。


「ひなさん、理解できる?」

「納得できません」ひなは渋々と返事をした。「あたしが武器を創れない不良品の機械人形だってことは、先生も知ってると思うんですけど」

「なるほど。入学してから一度も武器を喚べなかったことを気にしているのね」

「いや、そのことはどうでもよくて」

「大丈夫よ、ひなさん。あなたの世代の機械人形には武器を喚ぶ機能が標準で搭載されているの。つまり能力はあるってこと」

「……でも喚べないじゃないですか」

「努力が足りないのよ」


 ひなは苛々しながら身を乗り出した。


「いいですか、先生。その話は二ヶ月前に終わったはずです。あたしが国際データ保護機関DIVERから内定をもらったときに!」


 社会の秩序を守るのが警察であるように、仮想空間の秩序を守るのが国際データ保護機関、通称DIVERの任務だ。要するにデータ世界で獏と戦う仕事で、本部はアメリカ、世界各国に支部がある。ひなが採用されたのは日本支部だった。


「大事なのは」ひなは早口で続けた。「あたしが支援部門ではなくて実戦部門で内定をもらえたってことです。人間のための武器が喚べなくてもいい。人間を守るために戦えるのなら機械人形でも役に立てる。そういうメッセージってことなんですよ。だから先生たちも古い考えにとらわれてないで、価値観をアップデートしなきゃ、」

「その保全機関から今朝連絡があったんですよ。ひなさんの内定を取り消して、再検討したいと」


 ひなはぽかんと口を開けた。「うそ」

 教師は穏やかな表情のまま手を組んだ。


「嘘じゃないわ、ひなさん。担当官があなたの申告に疑いを持ってるの」

「あたしの何を疑うっていうの? 実技も筆記もずるなんてしてない」

「そこではないわ。彼らが疑っているのは、あなたが武器を喚べないということ」

「はぁ?」

「実戦部門に配属されたいがために、わざと能力を隠しているのではないか? それを確認したいから、技官の指示にしたがって追加テストを受けるように。以上が保全機関から送られてきたメッセージよ――さぁ、ちょうどよかった。担当の方が来られたみたい」


 たてつけの悪い扉が開く音がした。振り返ったひなは今度こそ言葉を失う。


 ひとりの青年が立っていた。色素のうすい髪はさらりとしていて、襟足だけが少し長い。ブラックのパンツ、ブラウンのタートルネック、それから同じ色のチェスターコート。完璧に計算された服装は、どこをどう見たってモデルのそれだ。シルエットだけみれば細身だった。けれど彼の手足がしなやかな筋肉を備えていることをひなは知っている。当然だ。ひなは今朝までこの男といっしょに暮らしてたのだから。


「やぁひなちゃん。今朝ぶりだね」


 男は腹が立つくらい綺麗な笑みを向けてきた。最悪だ。

 なんであんたがここにいるのよ、繊月せんげつゼン。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

玻璃にエレクトリカ 湊波 @souha0113

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画