第7話 これは恋じゃない、はずだった

 文化祭が終わってからも、当たり前に学校は続いている。画用紙や段ボールは片付けられて、色とりどりのクラスTシャツは制服に変わり、いつも通りの放課後だ。


「朝倉先輩。アンケートここに置いておきますね」

「ありがとう。助かる」


 生徒会室の机の上には、文化祭の"その後"が山のように積み上がっている。決算書、アンケート、反省会用の資料。文化祭前よりマシとはいえ、紙の量だけ見ればあの頃と大差ない。


「あ、あとこの間刷った生徒総会の案内、年度が去年のままでした……」

「マジか。直しとくから気にすんな」


 由良が申し訳なさそうにプリントの束を見せる。この程度のミスなら可愛いものだ。本刷りの前で助かった。後で直せばいい。


「文化祭終わったのにこんな忙しいの、謎だよねえ」


 計算機とにらめっこしていた速水が顔をあげる。彼女の前には決算書や領収書が散らばっていた。


「後処理までが文化祭ですから」

「何その"帰るまでが遠足です"みたいなやつ」


 由良に軽快にツッコみながらも、計算機を打つ手は止めないところは流石だと思う。


「でもさでもさ、今年結構私たち頑張ったと思わない?」

「そうなんですか?」

「今年は大きなハプニングもなく無事乗り切ったもん〜。ね、会長?」


 急に話を振られて、慌てて振り向く。


「まあな。何事もないのが一番だし」


 当たり障りない返事を返したけど、心の内は穏やかじゃなかった。


 振り返った拍子に、ホワイトボードに貼られた役職表が目に入る。印刷されたA4用紙の下、誰かがボールペンで書き足した『雑用係(特例):芹沢』の文字。玲央が来なくなってからも、消されずにそのままになっていた。


 毎日のように生徒会室に顔を出しては、「会長の彼氏来ました〜」なんて軽口を飛ばしていた玲央を思い出す。あいつがよく座っていたソファは、相変わらず余ったプリントやパンフレットが積まれている。あいつが座れる場所なんて、どこにもない。


「はぁ……」


 ソファを見つめながら、思わず溜め息が零れた。


「お疲れですか?朝倉先輩」

「まあな。準備忙しかったし」


 誤魔化すように咳払いをすると、怪しむような速水の視線が俺を射抜く。


「来なくなったよね、芹沢」


 多分、バレてる。俺が今、何に悩んでいるのか。


「文化祭の前は毎日のように来てたのに。破局説、もしかしてガチ?」

「……ちげーし」


 付き合ってもいないのに、別れるも何もない。ただ、今まで通り少し距離のある幼馴染に戻っただけだ。


「別れたわけじゃないんでしょ?やっぱ喧嘩?」

「喧嘩っていうか……、俺が勝手に八つ当たりしただけ」


 これは本当だ。


「珍しく素直だ。自分が悪いと思ってるなら、ちゃんと謝りなよ〜」

「分かってるよ」


 分かってるけど、それがいちばん難しいんだよ。


 だって、謝るってことは、自分の気持ちを認めるってことで、それを玲央に伝えるってことだ。


 そんなの、怖すぎる。伝えてしまったら、幼馴染にすら戻れないかもしれない。


「あんま長引かせるのも良くないよ」

 

 黙り込んだ俺を一瞥すると、「じゃあ私ら帰るからね」と由良と揃って生徒会室を出ていく速水。


 一人になった生徒会室は、どこか寂しい。部屋ではパソコンのタイピング音だけが響いて、遠くから吹奏楽部の楽器の音がする。


「はあ……」


 もう一度大きく溜め息をついて、ホワイトボードを見る。やっぱり、また目に入るのは『雑用係(特例):芹沢』の文字。


 嘘をついて突然玲央を巻き込んだのは、俺だ。


 あの日、告白を断るのが苦手な俺は、保身のために嘘をついた。


『俺、付き合ってる人いるから』

『……芹沢』


 勝手に恋人役に玲央を指名して、あいつは全部察して合わせてくれて。"怪しまれないように"っていつも隣にいてくれた。あいつなりに、誠実に"嘘"を守ってくれていた。


 それなのに。

 俺は、自分の感情に怖くなった瞬間に突き放した。


『他の奴誘えば?』


 文化祭前。中庭でクラスメイトと笑っていた玲央を見て、胸が苦しくなって。生徒会室まで差し入れを持ってきてくれたあいつに、俺が言った言葉。


「最低だ、俺」


 勝手に被害者みたいな気持ちになっていたけど、傷付いたのは玲央で。


 嘘を始めたのも、頼ったのも、壊したのも、全部俺だ。玲央はいつも笑って許してくれたけど、俺は玲央を傷付けた側だ。


  窓の外に目をやると、グラウンドの端の空に薄く灰色の雲が溜まり始めている。台風の季節だ。天気予報で、夕方から天気が崩れるって言っていたのを思い出す。


 雷が鳴るかもしれない。

 

 そう思った瞬間、頭に浮かぶのは、やっぱりミルクティー色の髪のことばかりだった。

 

 それでも仕事は待ってくれない。文化祭のアンケート資料を手に取って、目を通す。改善点はメモに残しておく。一通り目を通すと、資料をまとめてファイルに綴じた。


 外では雨が降り始めていた。どんどん雨足は強まって、気付けば窓ガラスに打ち付けるほど降っている。


「ああ、生徒総会の案内」


 さっき由良が言ってたやつ。年度を今年に直して、もう一度刷り直さなくてはいけない。


 パソコンを開いてフォルダを開く。年度を今年の数字に変えて、プリンターに登録する。生徒会室のコピー機で試し刷りをして、それを印刷室に持っていく。


 それだけの仕事なのに、玲央のことが心に引っかかって、体が重かった。


 印刷に行こうと廊下に出た瞬間、一瞬辺りが光に包まれた。数秒後、


 ドーン、ゴロゴロ。


 バリバリ、と言った方が良いかもしれない。とにかく大きな音で、雷が落ちた。


「雷……」


 その4文字を口で転がす。自然とあの日が思い浮かんだ。


 生徒会室で咄嗟に俺の袖を掴んだ玲央。ひとりじゃ怖いって俺の家に駆け込んできた玲央。「ちぃくん」なんて呼んで俺の手を握っていた玲央。


 ――まだ、雷苦手なんだろ。


 結局、玲央のことを考えている自分に嫌気が差した。


 首を振って、思考を振り落とす。印刷室に向かおうと歩き出した瞬間、またゴロゴロと音が響く。


「……っ、」


 息が詰まった。


 昔から雷が怖いなんて思ったことなかった。家が停電した時も、隣で震える玲央の頭を撫でてやるのは俺の役目。小さい頃は同じ布団で眠ったりして。


 それなのに、今は心がざわついた。雷の音が怖いんじゃない。その音に震えてるあいつのことばかり考えてしまうから。


 印刷室まで歩いて、扉を開ける。その間も何度か雷が轟いていた。体の奥に響くような低い雷鳴。


 プリンターを動かす間も、意識は玲央のことばかりだ。

 今、どこにいるだろう。まだ学校?それとも駅?家でひとり震えていないだろうか。


 文化祭前までは、放課後になれば勝手に生徒会室のソファに転がり込んできたのに。ここ一週間、放課後の居場所が分からない。クラスで準備してる時はまだ良かった。今はもう文化祭も終わって、特に集まりもなくなってしまった。


 ゴロゴロ。


 また外に稲光が光る。窓の外では、雨粒が中庭を濡らしていくのが見えた。


 その中に、見つけてしまった。きっと俺は、どこにいてもあいつを見つけられる。


 体育館から続く外廊下。屋根はあるけど、雷の音がよく聞こえそうなその場所に、ミルクティー色の髪色が一人ぽつんと立っている。


「玲央……?」


 ブレザーの下にグレーのパーカーを着て、片手をポケットに突っ込んだ玲央。もう片方の手で持っているスマホからは玲央がいつも使っている有線のイヤホンが伸びている。


 ドーン、ゴロゴロ。


 印刷室から玲央を見つめていると、また響く雷。その瞬間、玲央の肩がびくっと震えたのが見えた。イヤホンでごまかしても、雷の音は消せない。そういえば、あいつ前に言っていた。「耳塞いでも、腹に響く感じが嫌い」だって。


 ――なんで、一人でいるんだよ。


 気付いたら、印刷途中のプリンターもそのままで廊下に飛び出していた。階段を駆け下りて、廊下を走る。校則違反だけど、そんなことを気にしていられなかった。


 校舎から外廊下に続くガラス戸を押し開ける。途端に雨音が大きく聞こえた。廊下の奥に玲央の背中が見えて、心臓がどくりと音を立てる。


 気配に気が付いたのか、玲央がこちらを振り向いた。


「……ちか、――会長?」


 片耳のイヤホンを外して、不思議そうな顔をする玲央。


 言いたいことはたくさんあった。

 "千景って呼べよ"とか、"なんでこんな所に?"とか、"八つ当たりしてごめん"とか、――"好きだ"とか。


 それなのに、俺の口から出てきた言葉は単純で簡単だった。


「……雷、まだ苦手なんだろ。なんで一人でいるんだよ」


 相変わらず、素直じゃない。自分でも笑えてくるくらい。

 玲央は少しだけ黙っていたけど、すぐにいつもの顔で笑った。


「んー、別に。雨見てただけ」


 そのくせ、また遠くで雷が聞こえると肩を震わせる。やっぱり怖いくせに。


「教室にでもいればいいだろ。……誰かと一緒にいればいいのに」


 そう言ってから後悔した。"誰か"なんて。そんなの、俺以外、嫌だ。


「一緒にいてほしい人、誘えなくなっちゃったから」


 玲央がぽつりと呟く。


「それって、」

「"他の奴誘え"って言ったの、会長だろ」


 いつもの軽口みたいな声なのに、冗談に聞こえなかった。また、こいつは俺を期待させる。これも"彼氏のフリ"なのか?

 

 でも、なんて言えばいいか分からなかった。本当のことを言ったら、今の俺の気持ちを全て伝えてしまいそうで、怖かった。


「……悪かった」


 絞り出した一言は、それだけだった。


「あれは、完全に俺の八つ当たりだから」


 なんとか言葉を続けるけど、玲央の顔を見れない。少しでも隙を見せたら、幼馴染って関係すら壊れてしまいそうで。


 玲央は少しだけ笑う。


「まあ、さすがに効いたけどね」


 笑っているのに、どこか空っぽに見えた。


「"そういうの他の奴誘えば"って言われたときさ、俺ってその程度なんだって思った」

「……その程度って」


 言い返そうとして、言葉が出てこなかった。

 その程度じゃない、と即答してやりたかったのに、喉が固まったみたいに動かない。


 本当は、一番にしてほしかったくせに。

 認めるのが怖くて、拗らせて、玲央を傷付けたのは紛れもない俺だ。


「だってさ。俺、会長──いや、千景の“フリ彼氏”でもあるけどさ」


 "会長"と呼びかけかけて言い直した"千景"が、心の奥に染みていくようだった。


「それ以前に、千景の“一番”のつもりだったから」

「……一番?」


 聞き返す声が、情けなく震える。


「うん」


 玲央は、視線を俺に向ける。ミルクティー色の癖っ毛が風に揺れた。


「幼馴染としてでも、彼氏のフリでも何でもいいから、とりあえず千景の一番近くにいるのは俺だって思ってた」


 淡々と言うけど、その言葉は軽いものじゃないって分かる。


「花火大会の時とかさ。コンビニ誘ったり、ゲーセンのクマも。……全部、そういうつもりでやってたんだけどな」


 そんなこと言われたら、期待してしまう。もしかしたら、玲央も同じ気持ちなんじゃないかって。


「なのに、“他の奴誘えば”って言われたらさ」


 玲央は、口元だけで笑った。


「“あ、俺ってやっぱその程度なんだ”って、ちゃんと分かった」


 胸の奥が絞られてるみたいに苦しい。痛いとかそんな簡単な言葉では表せないくらい、情けない感情が襲ってくる。


「……ごめん」


 たった一言、掠れた声で呟いた。

 なんで俺が泣きそうになってるんだ。拒絶されて傷付いたのは玲央なのに。


「謝ってほしい訳じゃないよ」


 それでも、玲央は怒らない。優しいけど、どこか線を引いた声で続ける。


「他の奴、誘おうかと思ったけど。俺、やっぱり千景と一緒がいい」


 雷鳴が再び響く。今度はさっきより近い。玲央の肩がまた小さく震えた。その瞬間、胸の中に溜まっていたものが、ぷつんと音を立てて切れた気がした。


「……他の奴なんか、誘ってほしくないに決まってんだろ」


 さっきまで諦めたような顔をしていた玲央が、驚いた表情を浮かべる。

 

「俺以外とゲーセン行くのも、花火大会行くのも、他の誰かと笑ってんのも、見たくない」


 ずっと堪えていた気持ちは、一度口から溢れたら止まらなかった。


「クラスの真ん中で楽しそうにしてんのも、女子と一緒に写真撮ってるとこ見んのも、正直しんどい」


 玲央の顔を見れないまま続ける。


「中庭で、誰かの頭撫でてるの見たときも、ふざけんなって思った」

「……千景、それって」

「そういうの、全部嫌なんだよ」


 言い切った瞬間、足元がぐらついた。雷の音も雨の強さも関係ない。自分の言葉の重さに膝が震える。


 何を言ってるんだ、俺。

 こんなの、幼馴染とか彼氏のフリなんかじゃない。醜くて言い訳のできない、ただの嫉妬だ。


 玲央は、しばらく何も言わずに俺を見ていた。その数秒が永遠にも思えるくらい長くて、自分の鼓動が身体中に響くのが分かった。


「それ、ずるくない?」


 ふっと息を吐く音と共に、玲央の声が降ってくる。


「俺だけ本気になるの、怖かったのに」


 いつもの軽口じゃない、真っ直ぐな声だった。


「千景は言い訳できるじゃん。俺と付き合ってるフリするのは、告白断るためだからって。でも、俺はそういうのないし」


 玲央が苦しそうに笑う。


「だから、俺まで"フリ"って割り切ったら、自分の気持ちに嘘つくみたいで嫌だった」


 玲央が誰よりも真っ直ぐで、嘘をつけない奴だって知ってたはずなのに。

 

「だから、“他の奴誘えば”って言われたとき、本気出した俺がいちばんバカみたいじゃん、って思った」


 喉の奥に、言葉にならないものがせり上がる。反論なんてできない。玲央の言っていることは、全部その通りだから。


 ずるいのは、俺だ。


 嘘を口実に、隣にいてもらって。

 嘘のくせに、他の誰かにその場所を譲るのが嫌で。

 嘘なのに、本気で傷ついてる相手のことなんて、ろくに考えていなかった。


 雷の音が少しだけ遠ざかっても、胸の奥のざわめきは静まらない。


 ここから先は、もう「フリ」の言葉じゃ誤魔化せない。ちゃんと言わないと、また離される。今度こそ、二度と取り返せないところまで。


 逃げるか、向き合うか。外廊下の薄暗い灯りの下で、俺はようやく、その二択を突きつけられていることを自覚した。

 俺は何も言えないまま、握りしめた拳に力を込めた。爪が手のひらに食い込んで、痛みを感じる。でも、視線は逸らさない。


 逃げるなら、今のうちだ。

 何も知らないフリをして、笑って、生徒会室に戻ればいい。でもそうしたら、雷の夜も、クマのぬいぐるみも、花火大会も、全部嘘になってしまう。


 もう、誤魔化せない。誤魔化したくない。


 自分に言い聞かせるように、深く息を吸う。


「……最初は、ただ、告白断るのが苦手なだけで」


 自分でも分かるくらい情けなく震えた声。


「巻き込んだ自覚もあるし、“フリ彼氏”って言えば、全部ごまかせると思ってた」

 

 玲央は何も言わずに俺を見つめている。


「でも……雷の日に一緒に寝てたときも、夏祭りで手引かれたときも、クマのぬいぐるみ必死で取ってくれたときも、文化祭の準備の玲央見て嫉妬したのも、名前呼ばれるたびに心臓おかしくなるのも」


 もう一度、大きく息を吸った。雨足はいつの間にか少し弱まっている。


「全部、“幼馴染”とか“フリ”とかじゃ誤魔化しきれなくなってた」


 これを言ったら、“彼氏のフリ”だけじゃない、幼馴染って関係性まで失うかもしれない。それでも、このまま誤解されたままなのは嫌だと思ってしまったんだ。


 真正面から、玲央と目を合わせる。


「――俺、玲央が好きだ」

 

 これ恋じゃないってずっと言い聞かせてた。

 でも、今はこの言葉以外、俺の気持ちを説明できるものがない。


 また、永遠にも感じる静寂。玲央は俺から目を逸らさなかった。


 どのくらいの時間がたっただろう。もしかしたら、たった数秒だったかもしれない。

 玲央がふわっと笑った。いつものへらへらした笑い方じゃない、静かで優しい笑い方。


「俺は、最初からとっくに本気だったよ」

「……え?」


 思ってもいない言葉だった。

 玲央が、俺に、本気……?


「“会長にお願いされたら何だってやる”とか“借り返すため”とか言ってたけどさ」


 そう言って、恥ずかしそうに視線を逸らす。


「本当はただ、千景の隣にいたかっただけ」

「……なんだよ、それ」


 握りしめていた手のひらから力が抜ける。思わず後ずさりしそうになった俺の手首を、玲央が掴んで止める。


「千景、覚えてねえだろうけどさ」


 小さな声で呟く玲央。ほんの少しだけ耳の先が赤くなっている。


「昔、“ちぃくんとけっこんする”とか言ってたんだよ、俺」

「お前、それ……」


 とっくに忘れていると思っていた、12年前の約束。玲央もまだ覚えていたんだ。


「“ぜったいわすれない”って言ったもん」

「そんな幼稚園のときの約束、なんで」

「……幼稚園のときって分かるってことは、千景も覚えててくれたんだ」


 少し赤い顔のまま、いたずらっぽく玲央が笑う。


「ちゃんと覚えてる」


 そして、そのまま俺の手首を引き寄せる。気が付くと、玲央の香りに包まれていた。いきなりのことだったから、抱きしめられていると気付くまで、少しだけ時間がかかった。


「俺、好きになったら一途なんだよ」


 いつか聞いた台詞。まさか、俺にもその言葉が向くなんて思ってもいなかった。


「それ、アイスの話じゃねえの」

「チョコミントも、ブルーハワイも、千景も」


 玲央の方が少し背が高いから、俺の耳の辺りに玲央の声が響く。その声がいつもよりもずっと甘くて、心臓が跳ねるのが分かった。


「だからさ、もうフリとかいらなくない?」

「……それって」

「嘘から始まったのはそうだけど、――俺はずっと最初から本気だったから」


 玲央の胸元に手をついて、少しだけ体を離す。玲央の片腕はまだ俺の背中に回されたままだ。


「じゃあ、フリとかじゃなくて」


 一度、言葉を切る。今までみたいに冗談のフリして笑う道はいくらでもある。でも、それを選んだら一生後悔する。


 逃げるな。俺が言い出したんだろ、この関係。


「玲央。俺と、ちゃんと付き合ってください」


 少しだけ目を見開いた玲央が、口元をふっと緩める。


「俺から言うつもりだったのに」

「知らねえよ」

「俺にも言わせて」


 また真面目な顔をして、俺に向き直った。


「好きだよ、千景。俺と付き合って」


 今まで見てきた玲央の、どの表情とも違う。覚悟を決めたような真剣な顔なのに、やっぱり耳の先や頬が少しだけ赤みを帯びている。

 玲央にこんな表情をさせるのは俺だけだって思うと、無性に愛おしくなった。いてもたってもいられなくて、今度は自分から玲央の胸に顔をうずめる。


「うわっ、」

「よろしく、俺の“彼氏”」


 こんな恥ずかしいこと言うの、きっと最初で最後だ。


「よろしくね、千景」


 甘くて優しい、俺だけに向けられた玲央の声に包まれる。柄にもないけど、幸せだって思った。


 その時、遠くでまた雷の音がゴロゴロと鳴るのが聞こえた。玲央の肩がびくっと震える。


「……怖いなら、中戻るか?」

「いや」


 玲央は首を横に振る。手は、まだ繋いだまま。


「千景がいるなら、ここでいい」


 そういうの、反則だって何回言わせる気だ。

 今までは思わせぶりだって流すだけだったこんな言葉も、今日からは恋人に向けられる甘い言葉になってしまう。そんなの、心臓が持たない。


 少しだけ弱まった雨の音を背に、ふいに玲央が少しだけ近付いた。

 繋いでいない方の手が、俺の制服の袖をそっと摘まむ。雷の夜、布団の中でぎゅっと掴まれていた時と同じ場所。


「なあ、千景」


 ささやくみたいな声だった。


「しても、いい?」

「……何をだよ」


 何となく分かってるくせに、反射的に聞き返してしまう。

 玲央は少しだけ困ったように笑って、視線を俺の唇のあたりに落とした。


「決まってんじゃん。……キス」


 喉が変な音を立てた。

 さっきまで散々“付き合う”だの“好きだ”だの言っておきながら、その一言だけで頭の中が真っ白になる。


「……っ、」

「嫌なら、しない」


 そう言って、玲央は本当にそこで止まる。距離は近いのに、ちゃんと待ってくれているのが分かって、余計に心臓の鼓動がうるさい。


 嫌な訳、ない。

 むしろ、期待してる自分がいるのを認めるのが怖いだけだ。


「……彼氏、なんだろ」


 自分でも驚くくらい掠れた声だった。


「もう、“フリ”じゃないんだし」


 それから、視線を逸らしたまま、ぼそっと付け足す。


「……責任取れよ」


 一拍の静寂のあと、玲央が小さく吹き出す気配がした。


「なにそれ、告白の次はそれ?」

「うるさい。……初めてなんだよ」

「分かった。責任取る」


 そう言って、玲央がそっと顔を近付ける。


 距離が縮まるたびに、玲央の息が、体温が、全部近くなる。目を閉じるタイミングなんて分からなくて、ぎりぎりまで見てしまった。真剣に俺だけを見てる、玲央の目。


 次の瞬間、唇に柔らかい感触が触れた。


 押し付けるでもなく、ほんの少し触れるだけの、軽いキス。でも、世界が一瞬で静かになった気がした。雷の音も、雨の音も、全部遠くへ行ってしまう。


 触れて、離れる。

 それだけなのに、頭の中がじんわり痺れるように熱くなる。

 

 「……っ」


 息を吸い損ねて、変な声が出そうになるのを慌てて飲み込む。


「今のだけじゃ足りない」


 耳元で低く笑う声がして、ドキッとする。


「ちょ、お前……っ」


 言い終わる前に、今度はさっきよりも少しだけ深く唇が重なった。

 最初より長くて、でもやっぱり優しいキス。無理やりじゃなくて、お互いの存在を確かめるような甘い時間。


 ゆっくりと唇が離れた時、お互いにほんの少しだけ息が上がっていた。


「これで、ちゃんと彼氏になれた?」


 照れ隠しみたいに玲央がはにかむ。さっきまでとは違う、ちょっと不安そうな笑い方。そんな玲央すら愛おしくて、もう一度抱きついた。すると、玲央も背中に手を回して抱きしめ返してくれる。


「……前から、そのつもりだったくせに」


 玲央の胸の中でそう呟くと、ふふっと笑う声が降ってくる。


「そうかも」


 と、小さく聞こえた。


 繋いだ手はもう“彼氏のフリ”なんかじゃない。

 少し力を込めて指を絡め直すと、玲央が嬉しそうに笑ってぎゅっと握り返してくれた。




 あの日から、何日か経った。

 文化祭の後片付けも一段落して、生徒会室にはまたいつも通りの放課後が戻ってきている。


「会長、ここ印刷ミスでした」

「悪い。あとで直す」


 由良とそんなやり取りをしていると、ノックもなく生徒会室の扉が開いた。


「雑用係、本日も出勤でーす」


 聞き慣れた声。顔を上げれば、ミルクティー色の髪。

 ……本当に、何事もなかったみたいな顔して入ってくる。まあ、何事もなかったどころか、こっちは色々あったんだけど。


「破局説、嘘だったか~」


 速水がホワイトボードに明日の予定を書き込みながら、にやにや笑っている。


「また物置きにされてるし」

「お前が来ないからだろ」


 そう言うと、玲央はにやっと笑って、プリントの山をソファから床に移動させた。勝手知ったる動きだ。


「ねえ千景。今日、帰りコンビニ寄らね?」

「……いいけど。仕事終わってからな」

「やった。じゃあ、ちょっと待ってる」


 そう言って、玲央はいつものソファにどかっと座り込む。

 由良が苦笑いしながらパソコンに視線を戻した。相変わらず気を使わせているような気がする。


 ひと通り仕事を片付けて、生徒会室を出るころには夕方のチャイムが鳴っていた。


「じゃ、お疲れ、会長」

「はい、お疲れさまです」


 速水と由良に見送られて廊下に出ると、横で歩いていた玲央が、ふっと俺の顔を覗き込んだ。


「……ちぃ」

「っ、は?」


 心臓が、一拍分飛んだ気がした。


「な、何だよ急に」

「いや、呼んでみただけ。久しぶりに」


 悪びれもなく笑う玲央。

 さっきまで生徒会室で“千景”って呼んでたくせに、廊下に出た途端これだ。


「絶対人前でその呼び方すんなよ」

「人前じゃないし。今ここ、俺とちぃしかいない」

「……論点ずらすな」


 むっとして言い返すと、玲央は少しだけ歩幅を緩めて、俺の手をそっと握ってきた。


「大丈夫。ちゃんと使い分けるから」

「使い分け?」

「学校では“会長”とか“千景”」

「……まあ、それは今まで通りだろ」

「で、二人のときは“ちぃ”」


 玲央が、指を絡めるみたいに握り直す。


「ちぃって呼んでいいの、俺だけだから」


 さらっと、とんでもないことを言う。


「は?他に呼ぶ奴いねえよ」

「念のための先約ね。早い者勝ち」


 ふざけた調子で言いながらも、玲央の目は真剣だった。

 その視線に負けたみたいに、俺は小さく息を吐く。


「……勝手にしろ」

「やった」


 握られた手に、少しだけ力がこもる。

 繋いだ手は、もう“彼氏のフリ”なんかじゃない。

 指を絡め直すと、横で歩く玲央が、嬉しそうに笑った。

 

 これは恋じゃない、はずだった。

 嘘から始まった関係なんか、本物になる訳ないってずっと思ってた。

 それでも今、隣で笑う玲央の手を握り返しながら、俺ははっきりと自覚する。


 ――俺は、玲央に恋をしている。

 

fin.

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