アームズ・グラフィティ─僕と彼女のバトルログ

K

第1話 色彩の亡霊


​ 世界は、これ以上ないほど親切で、清潔で、そして徹底的に「嘘」だった。


​ 如月比呂(キサラギ・ヒロ)が朝、目蓋を開けた瞬間に起動する「都市OS:Urban-OS」。

網膜に投影されたAR(拡張現実)のレイヤーが、寝起きの視界を鮮やかに彩る。


 四畳半の殺風景な自室の壁は、たちまち南仏の古城を思わせる温かみのある石造りのテクスチャに書き換えられた。窓の外には、OSが生成した「今日の推奨風景」である、抜けるような青空とゆっくり流れる巻雲が広がっている。

​ 実際には、その向こうにはどんよりとした曇天と、排気ガスにまみれた灰色のビル群があるはずだが、それをわざわざ確認しようとする者は、今の東京には一人もいない。


​「……おはよう、世界」


​ ヒロはぼんやりと呟き、ベッドから起き上がった。


 のんびり屋、と言えば聞こえはいい。実のところ、彼はこの過剰にデコレーションされた世界に対して、どこか「他人事」のような感覚を抱いていた。


 すべては光の投影だ。朝食の横には、ARで投影された「本日の栄養統計」が、湯気を立てるコーヒーのグラフィックと共に踊っている。口にするのは味気ない完全栄養食のパンだが、視界がそれを「贅沢な厚切りトースト」に見せかけてくれる。


​(全部、嘘なんだけどな)


​ そう思いながらも、ヒロはその嘘を否定するほどの熱量を持てない。


 家を出れば、情報の濁流はさらに加速する。歩道には色鮮やかなナビゲーション・ラインが走り、道行く人々の頭上にはムードを示すステータス・アイコンが浮かぶ。ビル壁面には実体のない巨大なクジラが悠々と泳ぎ、広告ドローンはヒロの視線を検知して「君にぴったりのスニーカー」を目の前でスピンさせてみせる。


​ 道路標識も、信号も、街の看板も、すべては物理的な実体を持たない光の集合体。

ミリ単位で空間を把握するセンサー網「蜘蛛の目(スパイダー・アイ)」が、ヒロの歩幅に合わせて、踏み出す一歩先に「水面に広がる波紋」のエフェクトを添えてくれる。


 情報過多で、清潔で、あまりに親切な監獄。

この情報の濁流の中で、ヒロはいつも、水底に沈んだ石のように静かに呼吸をしていた。

───


​「如月君、また心ここにあらずって感じだね」


​ 午後の授業中、隣の席の女子がクスクスと笑いながら話しかけてきた。

 教壇では教師がホログラムの数式を宙に浮かせて解説しているが、生徒の大半はARグラスの内側で、自分の好きなデスクトップ画面を広げている。


​「……ああ、ごめん。ちょっと、雲のレンダリングの境界線が気になって」


「何それ、マニアック。でも、そういう穏やかなところ、如月君らしいっていうか。女子の間じゃ、そののんびりした感じと、たまに見せる鋭い視線のギャップが『暴力的な競技の噂』と結びついて、変な人気になってるの、知ってる?」


​「……心外だなぁ。僕は平和主義者だよ」


​ ヒロは困ったように眉を下げ、視線を窓の外に戻した。


 実際、肉体を動かすスポーツは苦手だ。肺が焼け、筋肉が悲鳴を上げる感覚は、この清潔な都市には似合わない。

 だが、「もう一つの肉体」を通して、都市を蹂躙し、重力を裏切る瞬間にだけは、自分が生きている実感が持てた。


​ 放課後のチャイムが鳴る。


 ヒロは群れるクラスメイトたちを背に、一人、喧騒の渋谷へと向かった。

───


​「遅ーい! ヒロ、3分と15秒の遅刻! 罰として今日はコンビニの『プレミアム肉まん』を奢ること!」


​ 待ち合わせ場所の雑居ビル屋上。


 そこには、現実世界の薄汚れたコンクリートの上で、無数のホログラムモニターを乱舞させている少女——フウカがいた。


 彼女は名門私立の制服にダボッとしたパーカーを羽織り、小さな体を躍動させている。彼女だけは、この過剰な世界の中で、ヒロにとって唯一「手触り」のある存在だった。


​「……フウカ。それ、昨日も食べたよね?お嬢様の家なら、もっといいものがあるだろうに」


「分かってないなー。あの、袋を開けた瞬間に広がる『安っぽい電子レンジの香り』と、妙に弾力のある皮! あれこそが文明の利器なの! さあ、早く準備して!」


​ フウカはヒロの腕を強引に引き、カプセル状のコクピット——「ポッド」へと促す。


 彼女は名家の令嬢でありながら、偶然見かけたヒロの『とあること』に魅せられ、今では勝手に相棒(パートナー)を名乗っている。


​「今日の相手は大手のストリートチーム。準備はいい?」


「……ああ。今日も描こう」


​ ヒロはポッドに身を沈め、HMDを装着した。


 視界が暗転し、背筋に冷たい電子の感覚が走る。


 のんびりとした少年の内面が、システムと同期し、冷徹な「操縦者」へと変貌していく。


─────


​ 二人が都市OSの深層レイヤーへアクセスした瞬間、静寂は爆音へと塗り替えられた。


​『——さあ! 全世界のストリート・ジャンキー諸君、お待たせいたしました!』


​ 渋谷スクランブル交差点の上空、巨大なホログラムの「口」が出現し、爆音の実況が鳴り響く。やかましさで定評の、名物実況アナ、『JJ』の声だ。

『今宵のステージは聖地・渋谷! 挑むは大手ストリートグループ「アトラス」チーム! そして対するは……神出鬼没、光の亡霊、お手製ハンドメイドマシンの奇跡! シュライクとティンカー・ベルだぁ!てめえらいい加減チーム名つけろよなぁ!』


​ 周囲のビルが、システム上の「破壊許可(デストラクション・モード)」に切り替わる。


 通行人たちのARグラスには「戦闘観戦モード」の警告が走り、一斉に視界が切り替わった。現実には誰もいない交差点に、巨大な鋼鉄の巨躯が「実体化」していく。


​『解説の田中氏よ、今回の見どころは?』


『はい。やはり「都市OS負荷限界(リミット・オーバー)」の攻防ですね。アトラスのメカ「タイタン・改」は5メートル級にこれでもかと武装を積載した超重装甲。通常、これほどの描画負荷をかけるとOS側でリミッターがかかりますが、彼らは企業特権でその枠を広げている。インチキすれすれですね。』


『一方のシュライクとティンカー・ベルチームは……見てください、あの細いフレームを!』

 黄金に輝く3機のタイタンに対し、ヒロの愛機『シュライク(鵙)』は、骨格が剥き出しの異様な姿をしていた。


​『シュライクは装甲を捨てることで、描画リソースをすべて「速度」に振っている。文字通り、都市の処理速度の限界を突く機動を狙っているのでしょう』


​─────


​「行くよ、シュライク」


​ ヒロが呟くと同時に、シュライクが猛加速し、重力という名の法を犯し始めた。

───同時に激しい炸裂音。


​ 相対するタイタンが放つ「重力弾(グラビティ・ショット)」が空間を歪める。視覚的には周辺のビル群が飴細工のようにひしゃげ、路面が激しく陥没して瓦礫の山を築く。


​『おおっと! ビルが粉砕されていく! もちろんAR演出ですが、ハプティクス(触覚)フィードバックは最大設定!観客の皆さん漏らすなよ!?』


 ​アトラス側のパイロットたちは勝利を確信していた。だが、彼らのセンサーが捉えたのは、爆風と瓦礫のレンダリングを突き抜けて、ビルの壁面中腹を真横に駆ける「影」だった。


​「遅い」


​ ヒロの意識は加速する。シュライクの脚部からワイヤーが射出され、折れ曲がった街灯を支点に鋭角なターンを描く。重力演算を欺くその動きに、観客から地鳴りのような歓声が上がる。


​『見てください、あの機動! ビルの外壁を足場に、さらに加速! ティンカー・ベルが放つ「エア・ステップ」との完璧な連携だ!』


​アトラスのリーダー機が焦燥に駆られた声を上げる。


「何だあの動きは! アイツよりも先に支援機を叩け!」


 タイタンのガトリングが上空の『ティンカー・ベル』を狙う。しかし、フウカは不敵に微笑んだ。


​「残念、妖精さんは捕まえられないわよ!」


​『田中氏、あのアトラスが翻弄されているようですが』


『驚くべき精密制御です。ティンカー・ベルは、シュライクの移動経路上にミリ秒単位で「エア・ステップ」を展開している。小型ARドローンを散布し、システム的に「そこには硬い床がある」という擬似的な判定を割り込ませているんです』


『これは飛行ではなく、浮遊する微細な床を彼女がリアルタイムで書き換え続けている状態です』


​「ヒロ、3番目の路地を塞いだわ。 そこに追い込んで。私が相手の足を止めるから」


「 ──フラッシュ・バン展開!」


​ ティンカー・ベルの腕部から高出力光源が放たれ、敵機のセンサーを飽和させる。その隙に、シュライクが二挺の複合兵装『ステラ・ペンシル』を抜いた。


 『出たぁぁぁ! シュライクのメインウェポン『ステラ・ペンシル』だぁ!』


『解説の田中氏、この兵装の特性は?』


『はい!通常、ARメカの武装は「破壊」を目的としますが、このステラ・ペンシルは特殊です。銃形態では都市OSのレイヤーを撃ち抜く「ビーム」を放ち、剣形態では高出力レーザー刃で敵を斬り裂く。しかし、真の機能は……』


​──描くよ。


​ ヒロは静かに呟き、銃形態をタイタンの一機に向けた。


 放たれたビームは都市OSの描画レイヤーを正確に穿ち、タイタンの装甲を貫通する。着弾した箇所から、鮮やかなネオンブルーの「線」が、まるでインクが滲むようにビルの壁面に広がり始めた。


​『な、何だ!? 今の一撃はダメージと共に、ビルに模様が……』


『これこそがステラ・ペンシルの真髄! 破壊と共に空間に「グラフィティ」を刻み込むための兵装です!』


​ ヒロの視界にデジタル・ノイズが混じり始める。脳が焼けるような熱。


 限界機動の代償「オーバーロード」。鼻から生温かい液体が流れるが、ヒロはそれを無視した。この痛みが、あの少女と繋がっている唯一の確信だったからだ。


 ​シュライクが閃光の中に姿を現す。


 タイタンの懐へ潜り込み、ステラ・ペンシルを剣形態に変形させる。高出力レーザー刃が黄金の装甲を十文字に切り裂く。斬られた箇所から火花が散るのではない。斬跡から、鮮烈なバイオレットと蛍光ピンクの「ペンキ」が溢れ出すようなARエフェクトが空間を染め上げた。


​『信じられない! 敵を破壊しながら空間に巨大なタグ(署名)を残していく! なんという冒涜的な美しさだ!』


『観客からも驚愕の声が上がっています! ARMSは破壊の競技だと思われていましたが、彼は、彼は「芸術」を創造している!』


​街頭ビジョンのコメント欄が爆速で流れていく。


「マジかよ、絵描きながらバトルとか意味分かんねえ!」


「あの青い線、さっきのビルの奴と繋がってるぞ!」


「ヤベエ、美しすぎる!」


アトラスの巨躯が極彩色に塗り潰され、物理演算の矛盾に耐えきれず強制シャットダウン(ダウン)していく。


​「馬鹿な、我々の最新OSが、個人製作の機体に!」


 最後の一機を、ヒロは逃がさない。シュライクを最高高度まで跳ね上げさせ、全ドローンの噴射圧を足場に固定した。


​「この空に、届くように」


 ​空中で旋回しながら二本の光刃を交差させ、渋谷の空を丸ごと切り裂いた。


 数キロメートル四方の巨大な「青い鳥」が、激しい光を放って夜空に結実した。それは、偽物の街が、一瞬だけ「真実の色」を得た瞬間だった。


─────


​『チェックメイト! アトラス、全機機能停止! 勝者、シュライク&ティンカー・ベル!』


​ DJ『JJ』の絶叫と共に、システム・オフのタイマーがゼロを刻んだ。


 ​一瞬だった。


 炎上していたビルも。砕け散ったアスファルトも。空に刻まれた暴力的な光の鳥も。

すべてがプツンと、テレビの電源を切るように消えた。


​ 残されたのは、無機質で清潔な、いつもの渋谷。


 傷一つないビル。規則正しく点滅する信号機。


 何事もなかったかのように、人々は再びナビゲーション・ラインに従って無言で歩き始める。破壊の跡も、勝利の証も、システムが「無かったこと」にした。


​「はぁ、はぁ……」


​ ポッドから這い出したヒロは、冷たいコンクリートの上に座り込んだ。鼻からは一筋の血が垂れている。のんびりとした日常の顔に戻ったヒロの瞳には、まだ先ほど見た「光の残像」が焼き付いていた。


​「また、消えちゃったね」


​ 隣のポッドから出てきたフウカが、寂しそうに笑って言った。彼女は当然のようにヒロの隣に座り、自分のハンカチで彼の鼻血を拭う。


​「ああ。でも、皆見ててくれたよな」


「うん。絶対見てたよ。ヒロの描く線は、世界で一番自由なんだから」


​ フウカの指先が、ヒロの頬に触れる。その温もりだけが、システムによって消去されない、唯一の「本物」の手触りだった。


​「腹、減ったな。フウカ、プレミアム肉まん、二個奢るよ」


「えっ、二個!? やったぁ、ヒロ大好き! やっぱり相棒はこうでなくっちゃね!」


​ 二人は並んで、夜の街へ歩き出す。


「蜘蛛の目」と「都市OS」が見守る、拡張現実による完璧で、無機質で、ひどく退屈な街。


 だが、その水面下では、消せない「色」を求める魂たちが、静かに脈打っていた。


​ 二人の笑い声が、デジタルな夜の静寂に溶けて消えた。

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