淡水の毒

たんすい

第1話:淡水のミドリフグ

六月の湿った風が教室に入り込み、黒板の「生物飼育プロジェクト」の文字を揺らしていた。

2年二組のクラスはすでにざわついている。


「カエル?」「カメ?」「熱帯魚?」「ザリガニは?」

あちこちから声が飛び交う中、佐藤先生がパンと手を叩いた。


佐藤先生:「よし、決めた。今日は授業をやめて――みんなでアクアショップの下見に行こう。“百聞は一見にしかず”ってやつだ」


一瞬の静寂のあと、教室が爆発したように沸いた。


「マジで!?」「授業なし!?」「やったー!」「外出だ外出!」

椅子がガタガタと動き、何人かはもう立ち上がっている。


佐藤先生は苦笑しながら続けた。


佐藤先生:「こらこら、これは授業なんだ。騒ぐな騒ぐな。でもまあ、せっかくだし楽しんでこい。」


その一言で、クラスのテンションはさらに上がった。

こうして、生徒たちはアクアショップ『アクア・ルミナス』へ向かうことになった。


店内の照明が水槽のガラスに反射し、揺れる光が二人の表情を照らしていた。


美月:「きれいだし、普通の熱帯魚なら安心だよ。エンジェルフィッシュにしようよ」


翔太:「いや、こっちのフグ見てよ。スイカみたいで可愛いじゃん。こいつにしようよ!」


美月は眉をひそめ、翔太の袖を軽く引いた。


美月:「……でも、フグって飼育難しくない? 塩とか必要そうだし。初心者には難しいって」


翔太:「大丈夫だって! ほら、値札のところにも書いてあるよ。”淡水”って。」


美月:「“書いてあるから”って……。翔太って、いつも勢いだけで決めるよね」


その一言に、翔太の表情がわずかに固まる。


翔太:「美月だって“安心だから”って理由だけじゃん。どっちも同じだろ」


二人の声は少しだけ尖り、周囲のクラスメイトが気まずそうに視線を泳がせる。

その空気を断ち切るように、翔太が店長を呼んだ。


呼ばれてやってきたのは、愛想のいい笑みを浮かべた店長の田中だった。


田中:「ええ、このミドリフグは『淡水』で飼えますよ。最近入ってきた『純淡水タイプ』で、特別な知識がなくても大丈夫。初心者でも、塩なしで簡単に飼えますよ」


その言葉を聞いた瞬間、翔太は勝ち誇ったように美月を見る。


翔太:「だってさ、店長もそう言ってるし。絶対こっちのほうがいいって」


田中は迷いのない口調で断言した。その言葉が決定打となり、教室内には「珍しいし、可愛いから」という空気が支配していく。


美月は一拍置いてから、視線をフグからそらした。


美月:「……そう。じゃあ、いいよ。みんながそれでいいなら」


美月はそれ以上何も言わず、すっと輪から外れた。

熱狂するクラスメイトたちの背中越しに、彼女の視線だけが、水槽の隅で激しくエラを動かすフグの姿を捉えていた。



一週間後。 教室の後ろに設置された三十リットルの水槽では、上部フィルターが規則的な水の音を立てている。 中では、約束通り「淡水」で立ち上げられた環境の中、小さなミドリフグが泳いでいた。


あかり:「見て、指を近づけると寄ってくる! ぷく丸、超かわいい!」


翔太:「な? 可愛いだろ。俺の言った通りじゃん」


美月:「なにそれ? 私への当てつけのつもり」


翔太:「ちゃんと元気に泳いでるだろ?」


翔太がむっとした顔を向けるが、美月はもう視線をプリントに戻していた。


その横で、真壁(まかべ)は静かにシャッターを切った。

ファインダーの中のミドリフグは、確かに愛くるしい。だが、その背後に立つ影に気づき、真壁は振り返った。


真壁:「……うわっ、びっくりした。狐兎森(こともり)さんか」


そこにいたのは、オカルト研究部の狐兎森だった。じっと水槽を見つめている。


真壁:「良い記事になりそうだ。クラスのアイドル誕生って感じかな」


狐兎森:「……死んでしまわないか、心配」


真壁:「なんで、そんな事をいうの?」


狐兎森:「異界の住人をこちらの世界に無理やり連れてくれば、体中の細胞が悲鳴を上げて崩壊する……って言ったら、信じる?」


真壁:「なにそれ? 君の得意なオカルト?」


狐兎森は表情を変えず、淡々と、しかし鋭い声で付け加えた。


狐兎森:「……物理学的に言えば、単なる浸透圧の問題だけど」


真壁:「君がそう言うと、冗談に聞こえないんだよ」


狐兎森:「私、命が軽く扱われるのが、許せなくて」


彼女の冷徹な視線は、無邪気に泳ぐフグではなく、それを取り囲んで笑う生徒たちに向けられているようだった。


【新聞部・真壁の取材メモ】

対象魚: ミドリフグ(学名:Dichotomyctere nigroviridis)

クラスの状況: 30L水槽、淡水、上部フィルター。現在、魚の体調に目立った変化なし。


・アクアショップ田中さんの証言 「完全に淡水でOK。初心者でも問題ない」


・美月さんの”諦めたような顔”。彼女はかなりご不満のようだ。


・翔太くんの“自信”。 悪気はないのだろうが、美月さんの不安には気づいていないか、気づいていても気にしていないようだ。


・狐兎森の言った”浸透圧”という言葉。

それに”死”を予感した言葉。オカルトではなく、科学的な警告のように聞こえた。


・ぷく丸

フグの体色が、ショップにいた時よりも少し黒ずんでいる気がするけど、体色の変化かな?


これは、僕の勘なのだが、

今は、事件前の静けさなのかもしれない。

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