嘘と蜜の温度

不思議乃九

嘘と蜜の温度

第一章 標的の隣で、毒を食らう


十二月の東京は、まるで巨大な冷凍庫だ。吐き出す息は白く、街行く人々の表情は寒さに強張っている。


けれど、西麻布の奥深くに佇むホテルバー『ルナ・シエル』に一歩足を踏み入れれば、そこには都会の喧騒を嘲笑うかのような、重厚で静謐な時間が流れていた。


神崎怜(かんざき れい)は、「藤宮凛」という偽りの名前を身に纏い、その夜もカウンターの端に座った。


琥珀色の照明が、グラスの中で踊る氷を宝石のように輝かせている。怜は、自分の指先が微かに震えているのを隠すように、カクテル・ナチュールのグラスを指でなぞった。


(落ち着け。相手は、あの男の弟だ。ただの駒、それだけのこと)


自分に言い聞かせる声は、心の奥底にある復讐の炎で熱を帯びている。


五年前、父・神崎誠一郎が無実の罪を背負わされ、冷たい拘置所のベッドで帰らぬ人となったあの日から、怜の時計は止まったままだ。父を陥れ、家族の誇りを踏みにじり、今もなお豪奢な生活を謳歌している東條隼人。


彼に近づくための最短ルートが、今、三つ隣の席で静かにグラスを傾けている男――東條朔(とうじょう さく)だった。 


「隣、いいですか」


怜は、鏡の前で何度も練習した、無防備でいてどこか寂しげな微笑みを浮かべて声をかけた。


朔がゆっくりと顔を上げる。彫りの深い、整いすぎた顔立ち。だが、その瞳には、二十八歳という若さには不釣り合いな、深い「諦念」が澱のように沈んでいた。


「……どうぞ。ここは一人で飲むには、少し広すぎるから」


低く、心地よいバリトン。彼が言葉を発した瞬間、鼻先を掠めたのは、冬の夜気と混ざり合ったシダーウッドの香りだった。


会話は、冬の寒さや酒の銘柄といった、毒にも薬にもならない世間話から始まった。怜は「藤宮凛」という架空の女を演じきり、適度な隙を見せながら、彼の警戒心を解いていく。


一時間ほど経った頃、朔の視線が、怜の左手首にある古いオメガに止まった。


「……いい時計だね。レディースにしては少し無骨だが、君の細い手首によく似合っている」

怜の心臓が、跳ねる。


「祖父の形見なんです。……これをつけていると、守られているような気がして」


嘘は、吐息に混じって滑らかに溢れ出した。父が愛用していた二本の時計のうちの一本。もう一本は、隼人の腕に「戦利品」として奪われたままだ。


朔は、その時計を愛おしむような、あるいは酷く憐れむような目で見つめたあと、ふっと自嘲気味に笑った。


「形見、か。俺には、そんな風に守ってくれる記憶なんて一つもないよ。……ただ、壊れていくのを眺めることしかできなかった」


その瞬間、怜はゾクリとした。彼が誰のことを言っているのか、本能で理解したからだ。


東條朔という男は、兄・隼人の「毒」を最も近くで吸い込みながら、一人で窒息しそうになっている。その危うい色気に、怜の復讐心は一瞬だけ、奇妙な共鳴を見せた。


第二章 傷跡の共振と、石鹸の匂い


それから三週間。

怜は、週に三度の頻度で『ルナ・シエル』に通い、朔との「偶然」を重ねた。

彼はいつも同じ席に座っていた。まるで、誰かに見つけてもらうのを待っている子供のように。


ある夜、怜はわざと少しだけ飲みすぎた振りをし、バーを出た瞬間にふらりと体勢を崩した。

「おっと……大丈夫か、凛さん」


朔の長い腕が、怜の腰を抱き寄せる。

厚手のチェスターコート越しに伝わる、彼の体温。至近距離で見つめ合う瞳の中に、自分の偽りの微笑みが映っている。


「すみません、少し……風に当たりたくて」

「無理をさせるつもりはなかったんだが。……俺の車で送るよ」

「いえ、タクシーで……」

「……このまま一人で帰すほど、俺は冷徹になれない」


そう言って、朔は自分のコートを脱ぐと、怜の肩にそっとかけた。

彼の体温が残るコートに包まれた瞬間、鼻を突いたのは、酒の匂いでも香水の匂いでもない、驚くほど清潔な「石鹸」の香りだった。


(どうして……こんなに、綺麗な匂いがするの?)


東條隼人の弟なら、もっと醜悪な、金と欲望の匂いがするはずだった。なのに、朔の腕の中は、まるで聖域のように静かで、温かい。


怜は、父の時計を握りしめた。この温かさに絆されてはいけない。この男は、父を殺した家系の血を引いているのだ。


「藤宮さんは、時々、すごく遠くを見ているね。……まるでもう、この世界には存在しない誰かを探しているみたいだ」


タクシーの窓越しに、朔が言った。

その言葉は、怜の心の最も柔らかい部分を正確に射抜いた。


「……そんなこと、ありません」

「そうだといい。……俺の横にいる時くらい、俺だけを見てほしいから」


彼の手が、ガラス越しに怜の頬に触れる。

冷たいガラスの向こう側にある、彼の熱。

怜は、その夜初めて、復讐以外の理由で涙が出そうになった。


第三章 硝子の仮面が割れる夜


十二月二十四日。

クリスマスの喧騒に浮かれる街を背に、怜は朔の建築事務所へと向かった。


「事務所を見せてほしい」という怜の誘いに、朔は二つ返事で応じた。それが、自分の首を絞めることになるとも知らずに。


朔がコーヒーを淹れるためにキッチンへ立った隙に、怜は彼のデスクへと忍び寄った。

ターゲットは、隼人の不正取引の証拠。朔は兄を嫌悪しながらも、その「罪」の記録を自分の手元に保管しているという情報を掴んでいた。


(……あった。このフォルダだ)


パスワードを解読し、中身を確認する。

画面に並ぶ、悍ましい数字の羅列。架空請求、マネーロンダリング、そして――五年前の「神崎誠一郎」に関する捏造報告書のコピー。


これだ。これさえあれば、父の無念は晴らせる。隼人を奈落の底に突き落とせる。

マウスを握る怜の手が、歓喜と怒りで震える。

だが、その背後に、影が落ちた。


「……見つかったかな。君が探していたものは」


心臓が止まるかと思った。

振り返ると、そこには湯気の立つ二つのマグカップを持った朔が立っていた。


その表情には、驚きも、怒りも、失望もなかった。

ただ、すべてを悟りきったような、深い「愛しさと絶望」が混ざり合った微笑みがあった。


「……朔、さん」

「最初から知っていたよ、怜さん。君が神崎さんの娘だってこと」


怜の頭から血の気が引く。


「知っていて……どうして……!」

「君がこの事務所に来るのを、ずっと待っていたんだ。俺の持っている『兄の罪』を、君に託すために」


朔はマグカップをデスクに置くと、怜の前に膝をついた。まるで、祈りを捧げる信者のように。


「俺は……あの時、君の父親が捕まるのを止められなかった。兄に逆らう勇気がなかった。その罪の意識だけで、この五年間を生きてきた。君が俺に近づいてきたとき、神様がやっと俺に死に場所を与えてくれたんだと思った」

「嘘よ……そんなの、信じられない!」

「嘘じゃない。……君の隣で飲む酒は、毒の味がしたけれど、それでも人生で一番甘かったよ」


朔は、自分の指から一本の鍵を外し、怜の手に握らせた。


「そのUSBにすべて入っている。兄の、そして東條家のすべての終わりだ。……君の手で、終わらせてくれ。俺も、一緒に連れていってくれ」


怜は、彼を突き飛ばすことができなかった。

利用していたはずの男に、魂ごと見透かされ、抱きしめられている。

復讐のために磨き上げた刃が、皮肉にも、自分自身を深く傷つけていた。


第四章 嘘と蜜の温度、その先へ


十二月二十五日。

冷たい雪が、すべてを白く塗りつぶしていくクリスマスの夜。


怜は、いつものバーの、いつもの席にいた。

手元には、ジャーナリストへの送信予約を済ませたスマートフォン。

明日になれば、東條隼人は逮捕され、東條グループは崩壊する。

父の汚名は雪がれ、世界は正義を取り戻す。


(……なのに、どうしてこんなに寒いの)


怜は、三つ隣の席を見つめた。

そこには、約束通り、朔が座っていた。


彼はもう、何も言わなかった。ただ、怜が送信ボタンを押すのを、死刑宣告を待つ囚人のような静かさで待っている。

怜は立ち上がり、ゆっくりと彼の隣へ移動した。


三週間の間、あんなに遠く感じた「三つ隣」の距離が、今は永遠のように長い。


「……朔さん」


隣に座った瞬間、伝わってきたのは、あの石鹸の香りと、消え入りそうな体温。

怜は、送信画面を見つめたまま、声を震わせた。


「これを押せば、あなたはすべてを失う。家も、名誉も、仕事も」

「……君が得られるはずだった五年間を思えば、安いものだ」


朔が、怜の左手首を優しく包み込む。父の時計の金属が、二人の体温で熱を帯びていく。


「怜。……俺を、許さないでくれ。ただ、俺を君の共犯者にしてくれ」


怜は、顔を上げた。

そこには、標的の弟ではない。復讐の駒でもない。

ただ、自分と同じように、愛に飢え、過去に縛られ、今この瞬間の「生」に怯えている、一人の男がいた。

怜の指が、送信ボタンに触れる。


「……さよなら、藤宮凛」


彼女は呟き、ボタンを押し込んだ。

刹那、世界が反転するような感覚。

復讐を成し遂げたという達成感よりも先に、胸を締め付けたのは、強烈な「空虚」だった。


その空虚を埋めるように、怜は朔の胸に顔を埋めた。

朔の長い腕が、怜を壊れ物を扱うように抱きしめる。


「……終わったよ。朔さん。全部、終わった」

「ああ。……これから、始めよう。君と俺の、本当の地獄を」


朔の唇が、怜の額に触れる。

それは蜜のように甘く、毒のように熱い、約束の刻印だった。


窓の外では、雪が激しさを増していく。


明日、太陽が昇れば、二人は世間から「復讐者」と「犯罪者の弟」として追われることになるだろう。

安らかな未来なんて、どこにもない。

けれど、重なり合う拍動の中で、怜は確かに感じていた。


父の時計が刻む秒針の音が、今はもう、憎しみのためではなく、隣にいるこの男と共に生きるためのリズムに変わっていることを。


嘘で始まった物語は、今、雪に溶けて消えた。

残ったのは、名前のつかない、ただひたすらに熱い「体温」だけだった。


  (了)

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