『上司のマスク』

香森康人

上司のマスク

 変なところに来てしまった・・・・・・。

 マスクを交換しろと?

 私が新卒入社したのは、新進気鋭のベンチャー企業で色んなことを手広くやっていた。消臭作用もある香水のスプレーや、新しい布の開発、他にも何やら色々とあるようで、よく白衣を着た男性研究者が社内をウロウロしていた。私は香水スプレーのPRをする部署で働いていた。そこは時代に即したセンスが求められるためか若くて綺麗な女性社員ばかりだった。一人男性の上司がいて、部屋の奥にデスクを構えていつもどっしりと座っている。五十代で頭が少し薄くなりお腹も出始めたオジサンである。肌ツヤは悪くないけれども。

 しかし、その花のような職場ではとても奇妙な習慣があった。朝、全員にマスクが配られ皆つけるのだが、途中でその上司が部屋を歩き回り、女性社員の誰かとマスクを交換するのだ。彼女達も彼女達で嫌がる顔もせずに普通に交換して、その上司が使っていたマスクを自分の口にあてがう。初め見たときは目を疑った。こんなセクハラがあるものか。先輩達に、どうして拒否しないのかと聞いても皆何故か口を閉ざしてしまうのだった。

 これが社会の闇というやつか。恐ろしい。

 私は、いつ自分のところに上司がやってくるのかと怯えながらも、無限のような就職活動を乗り越えてやっと手にした職場を手放す気にはなれなかった。

 そして奴はやって来た。

 私がデパートに貼るポスターを一生懸命作っていたところ、ポンと肩を叩かれた。上司だった。そして自分のマスクを外すとそこにシュッと私達が手掛けている香水のスプレーを吹きかけると折りたたんで私に寄越してきた。私が戸惑っていると、「早く」と急かしてきた。自分達の商品に自身を持て、他人のマスクの匂いだって気にならない程の効果があることを実感するんだ、それも仕事のうちだ。そういいたいのか・・・・・・?

 仕方が無かった。私は部下で相手は上司なのだ。それに皆我慢してやっているのに私だけ拒む訳にもいかない。自分のマスクを外して上司に渡すと、彼をそれを持って自分の机まで行き、またシュッと香水をつ吹きかけて付けた。そして何やら口をムニャムニャとやった。気色悪い。

 しかし、諦めて彼のマスクをつけた時、私は目を見開いた。

 視界が開け、高原の爽やかな風がスッと吹き流れた。

 ・・・・・・気持ちいい。ああ、これだったのか先輩達が嫌がらない理由は。

 あまりの快感にしばらく目を閉じて浸っていた。ふと見ると、上司がこちらを見てぐっと親指を立て、良くやったとサインを出した。私は恥ずかしくて顔をそむけた。しばらくして、白衣を着た男性社員が入ってきて、今度は彼と上司がマスクを交換していった。私はもうそんなことはどうでも良かった。

 私は途中でトイレに立ち、個室のトイレに入ると、ソッとマスクを外した。そしてマスクの内側をじっと眺めた。

 そこには「口」があった。布に口が張り付いているのである。端正に閉じられた唇、その周りのツルリとした肌。不思議だ。それを付けるとその口は舌を出し、私の口を滅茶苦茶に弄んだ。歯茎、舌、舌下腺、上顎を隅々まで舐め回してくる。私が口を閉じると、スッと引っ込む。そしてまた口を開けると待ってましたと舌がやって来た。経験の乏しい私はこんなに激しく誰かに口の中をかき回されたことはなく、その快感が癖になってしまった。その口は男性の口であるようだった。誰のものでも無い唯の口、それは新しい自慰行為の形だった。


 香水PR部、部長のところに一人の男性社員がやって来た。そしてコソコソと耳打ちをした。

「最近入ったあの可愛い子、是非あの子の口を僕に下さい」

「今、俺が味わってるから後三十分程したらまた来なさい」部長はそう囁いた。そして、なかなかいい口をしているよ、と添えた。

「分かりました。あと裏商品の企画書出来ましたので置いていきます」そう言うと男性社員は一枚の紙を部長に渡した。そこにはこう書いてあった。

 「恋するマスク」それは恋人達のために作られた秘密のマスク。特別なマスクを付けるとそのマスクは付けた人の口を記憶します。そして付属のスプレーを吹きかけることで、記憶した口がニョキニョキと生えてきます。一人寂しいときに、たっぷりと恋人の口をご堪能下さい。


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