『覗く夫』

香森康人

覗く夫

「おたくさん、誰だい? そこでなにしてるん?」

 ドアをノックする音。

 私は浅い眠りからふっと引き戻された。僅かな月明かりが窓からさしている。深夜で間違いない。

「なにをしてるんだい?」

 また声が聞こえた。夫だ。玄関で誰かと話しているようである。痛む腰に手を添えながらなんとかベッドから離れた。

 こんな時間に誰だろう。

 寝室の扉を開けて玄関を見た。電気も灯さず薄暗い中、夫が覗き穴に顔を寄せている。

「わしに何か用かい?」

 夫はそう訊ねると、右手でドアをノックした。

「お父さん、誰かおるの?」

「女の人がな、おるんじゃよ」

 背筋がすっと冷えた。思い当たる女なんていない。

 私も覗き穴に目を寄せる。誰もいない。茶色いタイル張りの床と門扉、咲き始めた梅の花が見えるだけだった。

「おらんよ」

 夫が私に代わって外を覗き、また右手でドアをノックした。痩せて骨張った手だった。

「おるよ。今も」

 改めて私も覗いたが、誰もいない。思い切って鍵を開け、ドアを外に開いたが、人などいるはずもない。冷えた空気が玄関にすっと入り込んできた。

 夫は困った顔をして首をかしげている。

 ああ、ついに認知が進んだか。

 悲しい。

 最近、物忘れが多くなり、老眼鏡をいつも探していて、二度も三度も風呂に入ろうとする。お医者様からも認知は少しずつ進んでいくからと言われていた。

 そもそも自分でドアをノックしているのだから普通じゃない。何でお父さんがノックしてたのと聞いても困った顔をするだけである。

「もう寝ましょう。遅いし」

 私は夫の手を引いて寝室に戻った。一歩歩くたびに腰が痛い。痛み止めを飲み忘れたかもしれない。ここのところ症状が酷くて生活全部が腰痛に支配されていると言ってもいいくらいだった。

 ベッドに入ると夫は直ぐに寝息を立て始めた。羨ましいくらい早い。私は一度目が覚めると中々寝付けない。

 もんもんと昔のことを思い出していた。

 腰の痛みなどなく、夫と二人で日本中を旅して回った。特に温泉旅館が好きで、部屋の装いは今でもよく覚えている。美術館やハイキングに行ったあと、旅館に帰って露天風呂に入り、脱衣所に用意されたアイスコーヒーを飲む。それから部屋に戻って懐石料理を食べ、お酒を飲んで楽しくその日のことを語り、夜に体を重ねる。何度となくしてきた。そんな楽しかった日々を思い出していると、それが自分の人生の全てであったように思う。私は夫と旅をするために生きてきた。今思い返せばそれ以外は些末なことであった。

 あの頃に戻りたい。また二人で旅をしたい。

 私の腰痛と、夫の認知。不可能だった。


 それからも夫は、夜になるとたまに玄関に立ってノックをし、覗き穴を見て話しかけていた。まあ危ないことをしているわけではないからと、無理に辞めさせはしなかった。徘徊しないよう、念の為チェーンをつけるようにした。マンションと違って戸建ての家は玄関を出たらすぐに道路だからフラフラと外に出てしまうと危ない。 

 夫はドアに呼びかけながらノブを捻りはするのだけど、鍵を開けたりチェーンを外そうとはしない。外にいる誰かと話したいのなら鍵を開ければいいのに、そんなことも考えられなくなってしまったのだろうか。もしくは実際にドアを開けて現実を見るのが怖いのか。

 いつも同じ場所をノックするものだから、そこだけ黒く染みが出来た。

 

 精神的に追い詰められていたんだと思う。いつものように眠れない夜、私は夫がするように玄関のドアの前に立った。そして黒い染みがついた場所をノックした。夫がどんな気持ちなのか、味わってみたかった。家の中から戸を叩く。無駄な行為である。気持ちなんて分かるはずもない。溜息をつきながら覗き穴に目を寄せた。

 男がいた。

 息が詰まりそうだった。

 そこは見慣れた玄関ではなかった。

 どこかの部屋。踏込があり脇には梅の花があしらわれた行燈が立っている。襖は開かれて先には畳の座敷があり、細長いちゃぶ台が置かれ、その上には真っ赤な鯛の舟盛りや、ごぼう、青ねぎ、蛤、筍、鰆などが盛り付けれた八寸、焼き物、蒸し物、お椀が並び、汗をかいた瓶ビールと泡立った二つのグラスが光っている。窓の外は暗くてよく見えないが遠くに灯台の光らしきものが揺らめいており、寄せては返す波の音が耳まで届く。座椅子がちゃぶ台を挟んで手前と奥に二つ置かれ、向こう側に蓬色の浴衣を着た若い男が座って、微笑みながら手招きしていた。早くこちらにいらっしゃい。御馳走だから一緒に食べましょう。そう言っている気がする。

 見覚えがある、そんなレベルではない。間違いなく夫である。若い頃の夫がそこに座って私を呼んでいる。そしてこの部屋にも見覚えがあった。新婚旅行で行った伊豆の旅館だった。私達が初めて一緒に行った旅。戻りたくてたまらなかった世界がそこにあった。

 懐かしい。

 鍵を外した。

 ノブを回し隙間が空くと、白い手がすっと伸びてきて私の手首を掴んだ。はっとしたとき、チェーンが引っかかった。黒い着物の袖口を纏い雪のように冷え切った手はしっかりと握り込んでいる。

 青白い女の顔がチェーンの間にぬっとあらわれた。髪一本も生えてない尼のような頭をしていて、私を見つめたままチェーンを噛んでいる。

 恐ろしくて声が出なかった。ヘタリとしゃがみこんでしまったけれど、その手は離してくれない。引っ張り込もうとする。

 後ろで「道絵!」という声がした。道絵とは私の名だ。振り返ると孫の手を握りしめた夫がこちらに駆けてくる。

 ぺちんぺちん。 

 夫は孫の手で一生懸命に白い手を叩いてくれた。

「離せ、こいつ!」

 ぺちんぺちん。

 なぜ孫の手? 包丁でも持ってきてくれればいいのに。夫なりに考えてくれたんだろう。こんな状況なのに改めて愛おしく思った。

 ぺちんぺちん。

 白い手がすっと引っ込んだ。急いでドアを閉め鍵をかける。

 私は泣きながら夫に抱きついた。

「ごめんね、疑ってた。お父さんもあれを見てたのね」

「何の話じゃ?」夫はとぼけた顔で聞き返す。

「何のって、旅館の部屋が見えてたんじゃないの?」

「わしはわからん」

 そう言うと、孫の手で背中を掻きながら寝室に引っ込んでいった。白いパンツにジジシャツの後ろ姿がやけに勇ましい。

 いつもの彼だった。笑いが込み上げてくる。でも私が本当に困ったときには正気に戻って助けてくれる。道絵なんて呼ばれるのも何年ぶりだろう。まだその名前を覚えてくれてたなんて。彼は今でもこんな老いた私の王子様なのだ。胸が温かくなった。

 念の為、もう一度覗き穴から外を見た。いつもの景色が見える。ドアを開けて外も見たが変な人影は見あたらない。

 その日は久しぶりに熟睡できた。昔の夢に深く沈み込んで、一度も目が覚めることがなかった。


 朝になると夫がいなくなっていた。痛い腰を擦っていくら探し回っても見つからない。途方に暮れながら、気付いてしまった。

 あの時、私が鍵をかけ忘れたから。

 

 彼は覗き穴の向こうにいた。あの旅館の部屋に座って、美味しそうにビールを飲んでいた。そして目尻に沢山の皺を作って微笑みながら私に手招きをしていた。心地よい波の音がする。


 最近はもうチェーンをかけないようにしている。

 毎日のようにノックをして覗き穴から彼を見ていた。

 染みはどんどん濃くなっていく。

 そろそろ自信がなくなってきた。


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『覗く夫』 香森康人 @komugishi

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