魔法使いのアトリエ
ちゃがま
序章 芸術伯の館
第1話 始まりの日
いいか、と。
深い霧に包まれた道の端で、確認するかのような口調で覆い隠された
「お前は不出来だが、不出来は不出来なりに上手くやれ。決して粗相などするなよ」
院の名前に傷がつく、と。今日までアルマの保護者をやってきた顎ひげだけは立派な男が、念には念をと何度も同じ言葉を繰り返す。その度に、心が重たくなっていく。
まるで心臓の奥底に、鉛が溜まっていくかのような感覚だった。
朝からしつこく言い含められた言葉にウンザリもできず、アルマは死んだ目でただ頷く。
「伯爵家にこんな高待遇で雇われるなど、滅多にない」
「決して逆らわず、決して驕らず、誠心誠意お仕えしろ」
「都度、院への感謝の気持ちを口にしろ。伯爵様に気に入られる努力を怠るな。こちらの印象が良くなれば、寄付金が増えるかもしれない」
何度も何度も。壊れたかと思うほどに、一字一句違うことなく降り注ぐ言葉の雨に頷いていると、ため息を一つ吐くくらいは許されるのではないかという考えが浮かんでくるが、すぐにやめる。
さすがに殴られることはないだろうが、言葉の棘が増えて、面倒になるのは目に見えていた。
大人しく自身の言葉を聞くアルマに、気を良くしたのか、男は鼻を鳴らして少しだけ柔らかな声になる。
「お前は見た目はいいからな。従順にしていれば、伯爵様に気に入られるのもそう遠くないはずだ」
下卑た考えを隠しもせず、アルマを見下ろす男へわかりましたと、か細く答えようとしたとき。
馬の蹄の音と、ガラガラという車輪の音が聞こえた。
男にとっては待望の、アルマにとっては大きな不安と、わずかな期待を載せた迎えの音。
ついに来たのだと、おそるおそる顔を上げれば、金色の模様で飾られた黒い馬車が見えた。
まるで豪奢な棺のようにも思えたが、恐ろしい気配はまったくしない。
むしろ、静謐と呼ぶのが正しい雰囲気を醸し出すそれに、緊張から思わず拳を握ってしまった。
「芸術伯様の、ベネット伯爵家の馬車……! ああ、なんという栄誉……!」
男の歓声と同時に、馬車が二人の前で止まる。
馬車の扉が開き、降りてきたのは執事のような燕尾服を着こなしたサラサラと流れるような茶髪の少年だった。
歳はアルマより数歳上。だいたい十八くらいと言ったところか。彼は翡翠の瞳でアルマと男を一瞥しつつ、扉の横に立って頭を下げる。
同時に出てきた人影に、アルマは息を呑んだ。
馬車から音もなく優雅に降り立ったのは、陶器を思わせるように艶やかな白い肌に、琥珀色の瞳を持った黒髪の青年。
貴族特有の細やかな刺繍のレースがあしらわれた白いシャツの上から、葬儀屋のような黒い上着を着て、翡翠の美しい石が嵌め込まれたリボンタイを身につけている。
彼がベネット伯爵なのだろう。
美を体現したかのような、それこそ高名な芸術家による作品を思わせる青年の姿に、アルマは思わずぽつりと呟いた。
「きれい……」
音になったかもわからないほどに小さな声に、青年は反応した。
柔らかな視線がアルマへと注がれ、その足が一歩を踏み出す。
「ベネット伯爵様! こ、この度は! ……え?」
青年は男のおべっかに耳を傾けることもなく、高価であろう服が汚れることも気にせず、あろうことか膝をついてアルマと視線を合わせてくる。
まさかの出来事に慌てた男が何事か喚いているが、アルマは間近で見る暴力的なまでの美と、貴族が自分に膝をついてくるという信じられない現実に、目眩を感じてそれどころではなかった。
そんな二人の様子など気にも留めず、青年はアルマに手を差し出す。
「はじめまして。私はシャロル――シャロル・フォン・ベネットだ」
「シャロル、さま……?」
「そう。キミの名前は?」
「ア、アルマ、です」
戸惑いつつも、アルマが答えればシャロルと名乗った青年は、満足げに瞳を細める。
その琥珀色が、宝石のようにわずかにきらめいた気がして、アルマの胸が何故か高鳴った。
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