手紙
坂本懶惰/サカモトランダ
手紙
俺は、全ての人の幸福を願っているよ。
嘘だ。あなただけだ。あなたが幸福であるのならば、他のやつらを地獄へ引き摺って行ってもいい。親友や家族とて例外ではない。その時はきっと、俺は笑っているだろう。
この手紙に書いたことは、すべて嘘です。
嘘であるということによって、俺は、理解不能な存在として、やっと実在できるので、嘘を書く他ありませんでした。いくつかの論理と真実を巻き添えに、なにかよくない存在へと供物として捧げました。この手紙は焚かれるべきものであり、灰すらも残すべきではありません。
俺は弱い人間です。人間であるのかさえ、あやしい。ただ、人間に憧れた、そういう妖怪なのでしょう。悪魔というほど狡賢くはありません。精霊というほど気高くもありません。やはり妖怪というのが近いでしょう。この身体に血が通っているとは思えません。温かさを持たずに生まれてきてしまったからには、誰に寄り添えどその熱を奪うだけです。
だから、大事なものにほど距離を置くのです。触れてはいけない。手を伸ばして、やっぱり引っ込めます。訝しまれれば、へへ、頑張ったけど届きませんでした、と取り繕うのです。
そうだよ、へらへらしていればすべては上手くいくんだ。
吃音だって無口を演じればいいし、仕事だって無能を装えば、いずれ咎められることすらなくなります。そのことに疑問を持ってはいけません。疑えば、忽ちのうちに狂ってしまうでしょうから。中途半端に持たざる者であるからには、さらに持たざる者、を演じる他なく、それはとても耐え切れる罪悪感ではありませんでした。
人は、変わることなどできません。生来備えた多面的な表情のどれかを出すのみで、持ち合わせていないものは、どれだけ努力しても習得できないのです。サイコロは一から六までの整数以外を出せません。
俺には、憤怒が欠けていました。
どうでもいいのです、すべてのことは。
憤怒は、変化を促進させます。五行説で言うところの火であり、上へと昇り、金属を赤熱させ、草原森林を焼き尽くし、食物を加工し、灰や電気を生み出す力です。要するに、憤怒は、火は変化です。
けれど、俺には、火がありません。思い通りになることなんてひとつだってありやしないし、変えられることなんて尚更ないというように感じられるのです。憤怒が占めるべき部分に、代わりに諦観の栞が挟まっているのです。いつもそこから読み直します。悟った、だなんて言うつもりもありません。俺がいようがいまいが世界は進んでいきますし、そもそも俺はこの冷たく悴んだ手で誰に触れるつもりもないのです。触れないならば、変えることはございません。
それでも、憧れという砂が、心臓の代わりの歯車の間に挟まっています。それが、この有機的な機械群としての生命を脅かしています。憧れ、なれないものに対する憧れ。もしも自由に喋れたなら。もしも努力を、変化を、積み重ねを信じることができたなら。そう思います、常々そう思います。何かが胸の奥で燻りますが、やはりどうにも酸素が足りないようで、不完全燃焼になってヘモグロビンを奪っていきます。やはり、燃え盛ることはありません。今日も灰だけが残りました。
その灰で、これを書いています。無人島での救難信号のようなもので、しかし、もう、助かるつもりはございません。
生きようとしていたんです、というふりをします。この期に及んで、まだ、生きねばならない、という社会的な正当性に囚われております。
いいじゃないか、生きようが死のうが俺の勝手だろう。
くだらない。
と思って息を止めるたびに、苦しくなって、冬の深夜の空気を吸い込んで噎せるのです。今日も眠れない。日が昇るまで、まだ何時間もある、と絶望して、俯せになって、仰向けになって、天井が低いのに遠く思えて、疲れ果てて眠ります。睡眠は、自傷行為なのです。エミュレートされた死です。夢は天国の体験版であるか、あるいは、地獄のそれでありましょう。地獄は脳の中にあるのだ、と誰かが言っていました。それも一理あると思います。俺はもう、随分と長い間、夢を見ていません。
この時代に人間として暮らすからには、どこまで行っても正当性という呪いが付き纏います。言い訳、と言い換えてもいいでしょう。
やりませんでした、は許されなません。頑張ったけどできませんでした、と言い換えましょう。
あなたとご飯に行くのは嫌です、とは言ってはいけません。その日は先約がございまして、と口篭って眉根を下げるのが正解でございましょう。
社会的な正当性を持ち続けなければ、この大河を渡ることは叶いません。つまみ食いがばれれば、咄嗟に言い訳をします。無理にでも正当性を探します。
スケールの大きいところで言えば、戦争さえも正当性のもとに実行されます。大義という言葉はあまりにも便利で、美しいものであるかのように振る舞います。そりゃ、正義はいつも食い違う訳です。互いの正当性が矛盾した時に、初めて人は持論を正義と呼ぶのです。正義という言葉は、正当性を強化するためのものとして使われることがほとんどです。そういう、正当性というひとつの摂理のもとで渦巻くのが社会ですから、その中で、その律に逆らうのは得策ではありません。
少し戻りましょう。
いいじゃないか、生きようが死のうが俺の勝手だろう。
もしもそんなことを口に出したならば、そんなこと言うなよ、親が悲しむぞ、と世間の人は、俺の家族さえも人質に取って、正当性の威を借りて囃し立てます。彼らは正当性を持っています。そうです、正しいのはいつも彼らの方です。
自分のことを大事にしなさい、と誰かが俺に言います。それもまた、社会を後ろ楯にした、正しい発言です。けれど、それは、豪雨でほとんど沈んだ中洲に、かろうじてしがみつく俺にとどめを刺す一言であって、その誰かはそのことに気づくことはありません。
あはは、そうですね、大事にします。
と俺は言います。
その誰かは、叩きつける六月の台風を、除湿機の効いた快適な部屋で、ニュースとして見ています。天気図はなんだか大きな低気圧の到来を告げていて、画面が切り替われば冠水した地下鉄の映像が流れます。
大変そうだなぁ。
その頃、俺の中洲は水底へと攫われていきます。俺は下流へ下流へと流されていき、土砂の混じった茶色い濁流の中で、今更もがく気にもなれず、浮き沈みを繰り返し、流されていきます。
そうして生きてきたじゃないか、ずっと。
と、薄っぺらい半生を省みて、妙な浮遊感に襲われるのです。
盲亀は浮木に出会うことなく、また潜っていきました。俺は盲亀にも、浮木にも出会いませんでした。たとえ救いの糸が垂らされようとも、俺は投げ込まれたそれに気づかないでしょう。出会わなかった、だから始まらなかった、それだけの話です。
そうして溺れながら、俺が魚だったら苦しまなかったのに、と考えるのは、愚かなことです。魚として生まれたら、今度は飛べないことを恥じて鳥に憧れて、鳥に生まれたならば、その華奢であることを欠陥だと捉えて、挙句、毒を持つ靱やかな蛇に憧れるのでしょう。
魚には魚の、鳥には鳥の、蛇には蛇の苦痛があり、それはどれも俺の苦痛とは異なります。異なりますので、理解することは叶いません。
けれど、苦痛というものは、ほぼ完全に、正当性を持ちません。その軛から逃れた、俺が見つけたただひとつの概念です。他者の苦痛を理解できる、理解すべき、という正当性にだけは、何故でしょうか、俺は真っ向から中指を立てられるのです。
しかし、それでも、俺の苦痛を、理解せぬまま認めてください。そういうのもあったな、と、苦しんだひとつの生命体が在った、と、認めてください。そして忘れてください。それからは、もう思い出す必要はありません。
あなたにはあなたの苦痛があり、俺はそれを理解できません。俺は、あなたではありませんから。
俺には俺の苦痛があり、あなたはそれを理解できません。あなたは、俺ではありませんから。
感情移入を崇高なことだと祭り上げるのは、人間の根源的な悪徳のうちのひとつで、理解できないものを理解したつもりになるというのは、とても、邪悪なことです。
すると、断絶が残ります。人間間には、触れることも踏み込むことも、そして読み取ることも理解することも叶わぬ領域がある、と俺は主張します。
では、この断絶の、碧い深山幽谷をどうすればいいのでしょうか、と俺は途方に暮れています。
俺は、人間が好きです。みなが思い思いの苦痛を抱えて、それでも生きていく姿に、時に涙を流します。だから、その苦痛を、理解せずとも認めたいと思うのです。そのためには、この断崖に対する回答を用意せねばなりません。
峠に立ち、これまで来た道を振り返り、これから往く道を探します。やはりここは、分けいる真似もできそうもない、樹海にして絶壁でした。
そこには、何もありませんでした。少なくとも、俺は何も見つけられませんでした。断崖は断崖のまま、何者をも寄せ付けませんでした。
けれど、ほんの少しだけ、陽が差しました。
あなたです。
雲間を押し分けるようにして、温度がこの世界へと流れ込んで、その時、遠くに細く拙い吊り橋が見えました。俺はそこまで走っていって、それは俺の目の前で朽ちて千切れました。ですが、そのお陰で、かつて無数にあった吊り橋の残骸が、断崖から垂れていることに気付きました。数え切れぬ程の見えざる失敗が、苦痛が、絶望が、世界にはありました。
理解できぬままにも、認めることはできます。無知の知、と先人が言ったように、知ることのできない苦痛が、意識の数、そして無意識の数以上に存在しているということを認識することで、人間は少しだけ、ましになります。少しだけ優しくなります。
別に、苦しかったね、と言って欲しいわけではありません。それはむしろ、正反対です。言及することなく、視野に捉えることなく、想像することなく、理解することなくて、ただモナドな静的なひとつの思考する生命体として、俺を一瞬だけ認知して、すぐに忘れてください。それだけで、だいぶ、救われます。無数の見えざる苦痛を意識して、そのどれにも囚われることなく、その思惟を終了させてください。それを絶え間なく行うことで、世界は、もっとましになります。
俺は、それを愛と呼ぶことにしました。
俺は俺のことを誰よりも理解しているつもりになっています。それは、愛とは異なる現象です。本当は俺ですら俺の苦痛を理解できないというのに、そのことを忘れて久しく、もう思い出すこともできません。俺は俺を理解したつもりになって、それは傲慢なことです。愛の対義語は、傲慢です。しかし、愛の類義語も、また傲慢です。
だから、俺は自分のことを今も愛せていません。
同様に、誰かの幸福を祈るということは、それこそ、その人を理解したつもりになっているので、やはり愛とは対極にあるのです。何が苦痛であるのか、転じて何が幸福となっているのか、知ることはできず、無闇に言葉を投げつけるくらいなら、黙っていた方が幾分か、ましです。
また、他者の幸福を願うこと、それは、それ自体が自己愛です。人の幸福をなんとなく祈るという、そんな自分への不理解と、それをそのまま放っておくという不誠実さが、自らへの愛となって向き直るのです。愛とは、不誠実でなければ没頭できるものではなく、下手に誠実であろうとするからには、それはいつまで経っても愛にはなりません。
くだくだと述べましたが、つまるところ、はっきり言って、今はすべてが煩わしいのです。正当性を放棄してみて、そうしたら社会では生きていけないということがわかりました。異邦人は異邦人として、そうして生きることを社会に許されません。
けれど、俺はやっと、愛という、正当性や無関心に替わるひとつの律を見つけたような気がして、書き殴っているのです。
俺は、未だ自分を愛せていません。
それでも、自分を愛さぬままにでも、人を愛することはできるのです。俺がそうする、前例になってやろう、と俺は俺に約束をしました。
その試みは、成功したのでしょうか。あなたの苦痛を、俺は理解したつもりになってしまったのか、それとも、触れずにそっと、その苦痛が在ることを認めることができたのか、今となってはもうわかりません。それがあなたに伝わったかどうかなど、尚更知る由もありません。あなたのことをもっと知りたいと思う気持ちを何度も何度も刺して殺して、素知らぬ顔であなたと会話しました。それは功を奏したのでしょうか。考えれば考えるほどにわからなくなり、しかしそのわからなさこそが愛の証左でもあるのです。
そして、この文章を読んで、あなたはこれを理解したでしょうか。理解できたなら、それがいちばんよろしいのです。理解できなかったなら、そのままでいてください。あなたは俺を愛したことになります。
けれど、本当は、こんなものを読まずにいられたなら、それがいちばんいいのです。こんなことを考えずに生きていけたなら、きっと、その方が幸せなんではないでしょうか、と、やはりあなたの人生に対してわかったような口を利きそうになります。
結局、俺はあなたを愛することなどできなかったのです。
などとつらつら宣いましたが、全部嘘です。嘘。
俺は、あなたが誰からも愛される人だと知っていました。
だから、俺にしかできない何かを、あなたにあげたかった。
それは、徹底した不理解のほかに、何もありませんでした。きっとあなたは、俺のことを忘れて、どこかで幸せになっているでしょう。そうであれ、と、願っています。
けれど、この言葉さえも、きっと嘘です。自分でも、何を書いているのか、よくわかりません。それでも、ひと握りくらいは、本心と、真理と、そういうものが交ざっていたかもしれません。本当のことを書こうとするとぜんぶ嘘になってしまうのですから、その逆も、少しはあるかと思います。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
そろそろ、列車が来る頃です。多くの人を乗せて、昼も夜もなく走る列車です。
俺は、また、社会へと揺られていきます。
手紙 坂本懶惰/サカモトランダ @SakamotoRanda
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