予定表
なんば
第1話
「予定表」
部屋の壁に掛けてある予定表は、去年のままだ。
使っていないのに捨てられず、めくることもないまま、月だけが進んでいた。
ある日の昼、何もすることがないので壁を眺めていると、ふと気づいた。
今日の日付の欄に、細い字で「外出」と書かれている。
自分の字ではなかった。
それでも、誰の字かを考えるより先に、私は上着を探していた。
今年は例年よりも暑い夏で、外へ出ればすぐに汗だくになってしまう。
なので、服選びには慎重になっていた。
結局、平凡な白い半袖の服に決めると、外出することにした。
青い空から降ってくる光は、肌をチクチクと刺してむず痒いので日影を通って歩くことにした。
日差しを避けてもジメジメとした湿気が追いかけてくる。
これだから、夏という季節が嫌いだった。
店の数が減り、閉じたままのシャッターが目につくようになっていた。
気づけば、街並みは来た時よりも痩せて見えた。
普段はここまで来たことがなかったので、不安と冒険心を胸に進んでいた。
すると、右側の森林の方に細い道が見えた。
しばらく足を止め、それだけを見つめていた。
それも束の間、私は道の上を歩いていた。
少年時代に知らない場所を探検していたことを思い出し、その懐かしさに勝てなかったからだった。
道端には青草が茂り、木々の上からは小鳥たちのさえずりが聴こえる。
見たことのない変な色のキノコや、石の上で日向ぼっこをしているトカゲ、どれもが新鮮だった。
長らく外へ出ていなかった私は、溜め込むように空気を吸い込んでいた。
森林特有の匂いが染み込んだ澄んだ空気は、私にとっては、それだけで十分すぎるものだった。
どれだけ歩いただろうか、道は何処までも続くばかりで、一向に景色も変わらない。
それどころか、何度も全く同じ景色が繰り返されているような気がした。
小鳥のさえずりも、よく聴けば規則的なものであった。
周りを見るのをやめ、澄んだ空気だけを頼りに、地面を見ながら歩いていた。
その身体には汗が滲んでいて、光を反射して輝いている。
脚はもう自分のものではなく、蛸のように地面へ絡みついていた。
それでも進むと、道の先にエメラルドグリーンに似た青が見えた。
一瞬、胸の底で何かが込み上げてくるのを感じたが、その青さはどこか見覚えがあった。
予定表の「外出」の文字と同じ色だった。
疲れ切った目にはそんなことは些細な事で、青を目掛けて走り出した。
走っても、走っても、青は一定の距離を保ったまま動かなかった。
ついには私は進むのをやめていた。
朽ちた木に腰を下ろし、あの青を眺めていた。
家に戻ると予定表の文字は消えており、私はそれを横目に浴室へ向かった。
シャワーを浴び、寝室で仰向けになると、あの青を思い浮かべていた。
走っても走っても辿り着けないその感覚は、何かと似ていたからだった。
思い出そうと思考を巡らせていると、脳が眠るように命令したので、それに従った。
朝の匂いに誘われて、脳のエンジンが働き始めると、真っ先に壁に掛かっている予定表を見た。
そこには「家で過ごす」と書かれている。
あいにく私は外へ出たい気分であった。
昨日は辿り着けなかった、あの青を今日こそは直視しようと決めていたからだ。
私の予想ではあれは湖なのだと思う。そして、そうであって欲しかった。
あれだけ濃い色をしているのだから、何かを洗い流す場所であってもおかしくない。
そう考えると、少しだけ呼吸が楽になった。
着替えて外へ出ると、今日は曇りだった。
あの痛いほどの日差しが嫌いだった私にとっては、好都合だった。
相変わらずジメジメとしているが、それは大した問題ではなかった。
身体に縋りついてくる感覚、何処へ行っても追いかけてくるその姿は可愛いとさえ思えた。
昨日の道の上まで来ると、また歩き出した。
同じ道なだけあって、景色は一つも変わっていない。
青草、キノコ、トカゲ、どれも見飽きた光景だ。
変わらず小鳥も規則的に鳴いている。
昨日と違う点といえば、曇って先が見えにくいことだった。
一刻も早くあの青を見たい私にとって、それはあまりにも都合が悪く、憎かった。
だがそんなことでは立ち止まらず、引き返すこともしなかった。
道の先が霞んでいることなど、よくあることだったからだ。
私はひたすら歩いた。
間違いなく、昨日よりは歩いていた。
その証拠に、昨日は見かけなかった花や木が生い茂っている。
あの光景は一向に見える兆しがなく、私は苦笑していた。
じっとその場に座り込み、引き返すことにした。
そして、充分に用意をしてまた来ようと決心していた。
やっとの思いで街へ戻って来ると、路傍の人からは奇異な目で見られていた。
疲れ果て、這うように足を引きずりながら歩いていたからだ。
慣れているつもりだったが、今日だけは無性にその視線が胸を抉った。
確かに小汚く、ハアハアと息を吐いている私は、皆からすれば気持ち悪いだろうが、目的があったのだ。
それに向かって歩く私は愚かなのだろうか。
次の日、予定表には「家で過ごす」と書かれていた。
ベッドから出ようとすると、脚が言う事を聞かず、身体が鉛のように感じられた。
仕方がなく、家で過ごすことにした。
私は絵を描くことが好きで、不意に思いついたのが、あの日見た景色を描いてしまおうという事だった。
早速色鉛筆を取り出して、机上へ白紙を広げた。
周りの景色を描いて、ついにあの青を描く。
だが色を思い出せずに、青が描けなかった。
赤色で塗ったり、緑色で塗ったり、青色で塗ったりしても、どれもピンとこない。
寧ろ、何も塗らなかった真っ白こそが、一番近いような気がしていた。
ついには手を動かす事すら億劫になり、ベッドへ突っ伏した。
心の一部に靄がかかったようで、何もせず一日が終わった。
今日の予定表には「外出」と太い字で書かれている。
私は朝食をいつもより沢山食べ、英気を養った。
水、食料を鞄へ詰めると、満を持して街へ出た。
今日は雨だった。それもざあざあ降りで、前が見えない。
街へ出ると、予定表を確認している人が頻繁に目に入った。
予定表を見てから、それぞれ目的の場所へ移動している。
朝だから、皆一日の過ごし方を確認しているのだろう。
それを横目に、いつも通り道の前まで来た。
歩き出すと、雨粒が身体の温もりを食べてしまって、夏の暑さが恋しかった。
見慣れた光景を通り過ぎ、先の見えない道を進む。
傘を持ってきていなかった、いや、持っていなかった私は、見かけた小屋で雨宿りをすることにした。
先が見えないので、目線を下ろすと、そこには足跡のようなものが見える。
他にも人が通ったのか、それとも獣の足跡なのか、しばらく凝視していた。
依然として雨がやまないので、また歩き出した。
いつもと同じように、いつまで経っても青には辿り着けずにいた。
空がどんどん暗くなってゆくのを見た私は、これから夜になるのだと感じた。
夜は静かでいて、どこか煩かった。
外の静かさと、内の煩さ、その差が足へ鞭を打った。
足音だけが響くその世界は、私の不安を嘲笑っているようだった。
一切の光も見えず、月も木々に隠れてしまっている。
すると小屋が見えるので、そこで寝ることにした。
鞄を枕代わりにし、身体を横にすると、間もなく眠ってしまった。
小鳥のさえずりで目が覚めると、小屋の外には足跡が何個も散らばっていた。
それぞれ見比べてみても、どれも同じ大きさ、同じ形だった。
ついに耐えられなくなった私は急いで引き返した。
あれだけ歩いたというのに、家まではあっという間で、私は家に入り立ち竦んでいた。
思い出したように予定表を見ると、何も書かれていなかった。
見たことのない変な色のキノコや、石の上で日向ぼっこをしているトカゲ、規則的に鳴く小鳥を思い浮かべていると、私は、また道の上に立っていた。
予定表 なんば @tesu451
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