たるをしる
@tk19931201
一話
第一話 剣を置いた手は、まだ震えている
初夏の朝だった。第三区居住ブロックの空は薄く曇り、物干し竿の影が床に淡く伸びている。洗濯物が風に引かれて揺れるたび、布が擦れる音が、小さな波みたいに部屋へ入ってきた。
彼女は子どもの靴ひもを結びながら、自分の指先がまだ強ばっていることに気づいた。結び目が必要以上に固くなる。子どもは「痛い」とも言わず、ただ少しだけ眉を寄せている。彼女は「ごめん」と口に出し、ほどいて結び直そうとして、また同じように力を入れてしまう。
力を抜いた瞬間に、人は死ぬ。
それは昔の話ではない。今も、どこかで。街の掲示板に貼られる欠員通知は、いつも新しい紙の匂いがした。
「今日は学校、早いんだよね」
子どもが言う。彼女は頷いて、靴の先をそっと撫でた。撫でるだけなら、うまくできる。握るのは、まだ難しい。
戦いが終わって、三年になる。彼女が剣を置いてから三年。納屋の奥にしまった柄は、たぶんもう手に馴染まない。馴染んでほしくもない。なのに指の痕だけが残っている。包丁の柄を握るときにも、ペンを持つときにも、その痕が先に力の入れ方を思い出してしまう。
子どもが玄関を出たあと、彼女は台所に戻り、湯を沸かした。沸騰の音が出るまでの、ほんのわずかな沈黙が好きだった。何も起こらない。起こらないことを、確かめる時間。
窓の外で、隣の部屋の男が煙草を吸っている。彼は前線には行かなかった。行かないと決めたのだと噂で聞いた。彼女はそれを臆病だとも勇敢だとも思わない。人はそれぞれの限界で生きる。限界を越えれば、死ぬ。限界を知っていれば、生きる。
湯が沸いて、カップに注ぐ。湯気が上がる。そこに、ふと、彼女の記憶の隅から一つの場面が浮かんだ。
瓦礫の縁。血の匂い。湿った土。彼女の横で誰かが叫んでいる。視界の端に、男がいた。すぐに消えた。名前も、声も、覚えていない。なのに、動きだけが残っている。躊躇のない手。余計な言葉のない背中。
あのとき、彼がいなければ、自分は死んでいた。
そう思うことはある。
ただ、それを「救われた」とは呼ばない。救いは、あまりに綺麗すぎる。自分はただ、生き残った。そして、生きることを選んだ。毎朝起きて、靴ひもを結んで、食事を作る。逃げない。それが自分の選択だ。
カップの縁に唇を当てて、熱さで一瞬だけ目を閉じた。
震えは、まだある。
それでも、手放さない。
それでいい。足りている。
第二話 退かなかった日、退いた男
冬の南部前線は、音が少ない。雪が降ると、銃声すら吸い込まれてしまう。白い空と白い地面の間に、濃い影だけが残る。人の影、瓦礫の影、煙の影。
彼は無線機を握り、地図を見ていた。手袋越しでも紙の冷たさが分かる。押せば勝てる。誰もがそう言った。敵の密度は高いが、動きは単調。ここで詰めれば、防衛線を一段押し上げられる。成功すれば、上の評価も上がる。部下の士気も上がる。
だが、勝利にはいつも、欠員が付いてくる。
目の前の雪原の向こうで、小隊の影が動いた。若い兵は前へ出る。前へ出ることが、正しいと信じている目だった。かつての自分もそうだった。
彼は息を吸い、無線に口を寄せた。
「退け」
自分の声が思ったより低い。言った瞬間、胸の奥が硬くなる。反発が来ると思った。来ない。全員が動く。後ろへ。整然と。渋りながらも。
退くというのは、訓練では簡単だ。実戦では、難しい。退く途中で死ぬからだ。背中を見せる瞬間がある。視線が外れる瞬間がある。そこを狙われる。退却とは、臆病ではなく技術だった。
戻ってきたあと、彼は上から叱責を受けた。成果不足。慎重すぎる。戦意を削ぐな。
彼は頭を下げ、何も言い返さなかった。
夕方、食堂に部下が揃っていた。足の引きずり方、包帯の位置、誰かの手の震え。細部に傷はある。だが全員、そこにいる。誰かが冗談を言って笑いが起きる。笑いは短く、すぐ途切れる。それでも、起きた。
彼はその光景を見て、ふと、昔見た背中を思い出す。
最後まで立っている男。前に出ない。だが一番最後に退く。誰かの背中を守るように、ただ立っている。戦う姿ではなく、生き残る姿が強かった。
あの男は、英雄ではなかった。拍手もなかった。記録にも残らない。
ただ、あの背中を見た者だけが、退くことの価値を知る。
夜、彼は一人で酒を飲み、グラスを置いた。
今日も全員が戻った。
それだけで、十分だった。
第三話 生きることを選ばされた人
秋の旧市街区は、瓦礫の匂いが抜けない。雨が降ると、土がそれを思い出すように匂いを強める。濡れたコンクリートと鉄の錆が混じった匂い。どこかにまだ燃え残りがあるみたいな苦さ。
彼は本来、あそこで死ぬはずだった。
瓦礫が崩れた。音がして、次の瞬間には暗くなった。息が詰まって、口の中に埃が入る。胸が圧迫されて、声が出ない。死ぬ、という言葉が頭に浮かんだときには、もう考える力もなかった。
次に目を開けたとき、空があった。眩しくて、涙が勝手に出た。痛みで泣いたのではない。空がそこにあることが信じられなくて泣いた。
「生きてるぞ」
誰かが言った気がする。声は遠い。顔は見えない。視界の端で、影が動いた。影はすぐに消えた。自分の腕を引っ張る力だけが残っていた。乱暴で、迷いがなくて、必要最低限。
後で聞いた話では、「単独で動く奴がいる」らしい。名前も所属も知らない。知ろうとする者も少ない。そんな世界だ。人は死ぬ。人は消える。人は記録から抜け落ちる。
彼は救われたのではない。
ただ、生きてしまった。
それが重かった。
退院してしばらく、彼は毎朝、起きるたびに「なぜ」と思った。なぜ自分が。なぜここに。なぜ誰かではなく自分が。答えはない。答えは、たぶん、いらない。
それでも「なぜ」が消えない。
前線に戻る気はなかった。戻る資格があるのかも分からない。彼は小さな店を開いた。瓦礫の下で死にかけた日から、壊れたものを見ると、妙に落ち着くようになった。壊れたものは、壊れている。そこには嘘がない。直せるものは直す。直せないものは、受け入れる。世界も、人間も、同じだと思った。
夜、店の灯りが道に薄く落ちる。通りすがりの誰かがその灯りに気づく。灯りがあるだけで、人は少しだけ安心する。彼はそれを、誰にも言わずに誇りにした。
自分は、生きることを引き受けてしまった。
そう思う。
引き受けた以上、使い切るしかない。
それが、あの日、影の男が残したものだとしたら。
それは救いではない。
責任だ。
静かな、逃げられない責任。
第四話 名簿の空白に名前はない
中央管理局の記録課は、春でも寒い。冷房が効いているのではない。建物が冷たいのだ。コンクリートが季節を忘れている。端末の光だけが時間を進めているように見える。
彼は淡々と入力を続ける。名前、年齢、所属、状態。死亡。欠員。補充。
画面の文字は規則正しく並ぶ。規則は安心をくれる。規則があれば、世界は崩れない気がする。
ある日、すべてが空白の行に出会った。
名前なし。年齢なし。所属なし。
備考欄に短い一文だけ。
「単独行動。記録なし」
彼は一瞬、手を止めた。なぜ止めたのか自分でも分からない。
規則から外れたものは珍しくない。前線では、記録が飛ぶ。焦げる。濡れる。消える。そんなことはいくらでもある。
それでも、その空白は不自然だった。空白が、意図的に見えた。
思い出せない。だが、知らないとも言い切れない。
自分が処理した幾つかの生存報告の、前提にこの空白があるような気がした。
「単独行動」という言葉に、ざらついた感覚がつく。単独。孤独。誰にも見られない。誰にも評価されない。
誰にも覚えられない。
彼は何も書き足さず、次の行に進んだ。書き足す権限はある。推測で埋めることもできる。だが、埋めることが正しいとも思えなかった。空白は空白として、存在しなければならないものもある。
端末の画面に、次の名前が現れる。
別の誰かの死。別の誰かの欠員。
世界は続く。入力は続く。
春の寒さは変わらない。
彼はその日、帰り道で桜を見上げた。満開だった。
桜は毎年咲く。人は毎日死ぬ。
それでも、同じではない。
何が違うのか分からないまま、彼は歩いた。
第五話 死んでしまった人
その死に、日付は残っていない。場所も、理由も、詳しくは語られない。
語る者がいないのではなく、語る必要がないのだと、誰もが思っている。
ただ、帰ってこなかった。
それだけが残った。
残された側は、どうしても意味を探す。意味がなければ耐えられない。だが意味を付けるほど、死んだ者を自分の都合に合わせてしまうことも知っている。だから多くは黙る。黙って、日常に戻る。
葬式は簡素だった。前線では式がないことも多い。遺体が戻らないことも多い。戻らないときは、紙の名前に花を置く。紙は軽い。軽すぎる。
その軽さが、かえって重い。
誰かが言った。
「無駄死にだ」
言った本人も、言葉に救われていない。無駄という言葉は痛みを整理してくれるようで、整理できないものをそのまま残す。
別の誰かが言った。
「意味があったはずだ」
それもまた、痛みを遠ざける。意味があれば、死は耐えられる気がする。だが、耐えられるだけで、癒えはしない。
本当のところ、誰も分からない。
死んだ者は、もう何も言わない。
ただ、幾つかの生存報告がある。
あの戦闘で戻った人数。
撤退が間に合った記録。
瓦礫から救出された者の名。
その裏側に、誰かの欠員がある。
世界は足し算と引き算で続いていく。
引き算の痛みだけが、いつまでも残る。
第六話 断つ前に、満ちていた(主人公)
時間の感覚は、すでに失われていた。ここには昼も夜もない。音も匂いも薄い。あるのは、自分の呼吸と、目の前の存在だけだ。
何でもできるが、何者でもない。
それが「相手」だった。
自分は、切ることを選んだ。切断に特化させた。物を切り、空間を切り、因果を切り、能力を切り、関係を切った。
成長とは獲得ではない。捨てることだと、何度も思い知らされた。
最初に捨てたのは、安定だった。
次に捨てたのは、言い訳だった。
その次に、名前だった。
恐怖も、期待も、希望も、いずれ切った。
最後に残ったのは、「生きたい」という欲望だった。
それはしぶとかった。
それがある限り、自分は世界と繋がっている。世界の中で評価され、役割を与えられ、意味を求められる。
それが相手の餌になる。
だから、切った。
切ってしまえば、軽くなる。
軽いというのは、自由だ。
自由というのは、孤独だ。
孤独というのは、澄んでいる。
空間を切断した。二人のいる場所だけを、世界から切り離した。誰も来ない。誰も見ない。誰も意味を与えない。
そうして初めて、相手は弱くなった。多数の視線がないと、相手は立ち上がれない。役割がないと、形を取れない。
何でもできるが、何者でもないものは、一対一では空白になる。
戦いは短かった。
刃を振る理由が、そこにはもうなかったからだ。
切ったのは、存在ではない。
相手と世界を繋いでいた「意味」だった。
敵、脅威、終末、全人類の敵対者――そう呼ばれることで相手は強くなる。呼ばれないなら、相手はただの空白だ。
終わったあと、問いが浮かんだ。
――正しかったか。
問いの形はいつも同じだ。だがこの場所では、問いは膨らまない。言葉が増えない。言葉が増えないから、答えは濁らない。
正しい、ではない。
だが、同じ選択をする。
それだけは確かだった。
世界が何度繰り返されても、同じ退屈に戻っても、同じ欠落に気づくだろう。欠けているものを探し、見つけられず、やがて知る。欠けているのは「意味」ではなく、「覚悟」だ。
足りないままで生きる。
それを引き受ける。
それ以上を望まない。
満ちていたのだ。切る前から。
ただ、それを知るために、切る必要があった。
最終話 誰も覚えていない男
今も、どこかで人は生きている。
彼のことを知らずに。彼の選択の上で。
第三区居住ブロックでは、子どもが靴ひもを結び直している。結び目は少し緩い。緩さを許すようになった指がある。
南部前線では、退却命令が出る。怒鳴り声はない。隊は生きて戻る。
旧市街区では、小さな店の灯りが夜道を照らす。灯りがあるだけで、人は少しだけ呼吸が楽になる。
中央管理局の記録課では、空白の行が一つ残り続ける。誰も埋めない。誰も削らない。
死んだ人もいる。
彼の選択の先で死んだ人がいる。
それを無かったことにはできない。
それを美談にもできない。
それでも、彼は確かに存在した。
記録に残らない形で、確かに。
間違いなく、誰かの意味になっていた。
意味は、声高に語られる必要がない。
ときに意味は、静かな生活の中にだけ残る。
欠けているものを数えず、足りているものを誇らず、ただ一日を使い切る人たちの、その背中に。
では――
それで足りないのだろうか。
足りているのだろうか。
もしあなたが、彼の立場だったら。
すべてを切り捨ててでも、世界から意味を奪う選択をしただろうか。
それとも、誰かと繋がり続け、強い敵を強いまま受け入れる道を選んだだろうか。
今、あなたが手放せないものは何だろう。
それは本当に、必要だろうか。
そして――あなたは、
「足る」を知っているだろうか。
たるをしる @tk19931201
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