天夜の獣

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天夜の獣


 荒野の果ての小さな集落、そのまた外れの断崖の上に建つ教会には、神よりも古い何かが住んでいる。

 村人たちはその場所を忌み地と呼び、太陽の光射す昼間ですら近づこうとはしない。ましてや雨が心身に鞭打つ嵐の夜になど。

 人々が恐れるのは雷鳴と共に現れるという巨大な怪物――ブラックドッグ。

 その影に見つかれば冷徹な死が訪れる。赤い瞳は地獄に通じ、魂ごと引きずり込まれてしまうのだ。


 けれどわたしにとってその不吉な教会はただ一つの安息の場所だ。

 物心ついた時には名前を呼んでくれる親もなく、道行く誰からも石を投げられる貧しい孤児みなしご。行く場所も変える場所も失った嵐の夜に逃げ込んだのが、廃墟と化した聖堂だった。

 ステンドグラスは砕け散り、聖像は半身を失っていた。それでも雨風を凌げる程度の屋根と身を隠せる古い説教壇の影はわたしにとっての「家」だった。

 そして何より、その暗闇には彼がいた。


 初めて彼と出会ったのはわたしが教会に住み着いて三日目の夜だった。

 激しい雷雨が石壁を叩く。崩れかけた扉の向こうから鎖を引きずるような重たい音が響いて、生臭い獣の匂いが聖堂内に満ちた。

 闇の中に浮かび上がる、二つの赤い光。

 それは巨大な狼よりもなお大きく、かつて遠くから眺めた牧場の雄牛ほどある漆黒の獣だった。

 濡れた毛並みは闇そのもののように光を吸い込み、吐き出す息は硫黄の臭いがした。


 悲鳴をあげることすら忘れていた。恐怖よりも先に彼の異質さに圧倒され、魅入られてしまったのだ。

 死を告げる魔女の使い、地獄の番犬。

 わたしを見下ろす彼の眼差しは、侮蔑と暴力ばかりの人間たちの視線よりも、ずっと静謐で厳かだった。


「……あなたは、わたしを連れていくの?」

 震える声で問いかけると獣は喉を鳴らした。外の雷鳴を掻き消すような唸り声が、わたしの耳には奇妙なほど甘く響いた。

 獣はわたしを食い殺すことはなかった。ただ冷え切ったわたしの足元に巨大な体を横たえて、扉のほうを向いて丸くなったのだ。

 まるで教会の外にある悪意からわたしを護るかのように。


 嵐の夜、わたしは濡れた黒い毛皮に顔を埋めて眠った。死の匂いがするはずのその体は、冷え切ったわたしには温かかった。


 奇妙な共同生活が始まった。

 昼間、彼はどこかの墓の下か、枯れた木の影の中に潜んで姿を見せてくれない。しかし夜がくれば必ず教会の身廊に現れた。

 言葉ロゴスは交わせない。だからこそ感情パトスが通じ合った。


 わたしが墓守の真似事をして、荒れ果てた墓石の苔を落としていると、彼は満足げに尾を揺らした。

 愚かな盗掘者か迷い人を地獄へ送ったのだろう、彼が傷だらけで帰ってきた夜、わたしは聖水盤に溜まった雨水で彼の体を拭ってやった。

 彼がわたしの指先をざらりとした舌で舐める。その感触に、背筋が粟立つような悦びを感じた。それは信仰に近しい愛だった。

 村の人間たちはわたしを嘲笑し、虐げる。けれどこの恐ろしい怪物は、わたしが冥府の女王であるかのように傅いて守ってくれる。


 ある満月の夜、彼は男の姿を模ってわたしの前に現れた。

 完全な人間ではない。影が凝縮した漆黒の肌に鋼のような毛が覆い、捻じれた二本足で立ち、でも瞳だけはあの赤い宝石のまま。

『我が妻よ』

 声は、崩れた墓石が擦れ合うかのごとき低い重奏。

『お前の魂は既に半分、こちらのものだ。もはや人の世には戻れまい』

 彼は冷たい手でわたしの頬を撫でた。湿った土と没薬の香りがした。

「望むところです」

 わたしは鼓動のない胸に身を寄せた。

「あなたが死そのものだとしても、わたしはあなたのそばがいい」


 彼は笑った。裂けた口から覗く鋭い牙が、差し込む月光に濡れて光った。

 それがわたしたちの結婚式だった。

 誓いの言葉の代わりに彼はわたしの首筋に牙を立て、わたしはその痛みを快楽として受け入れた。


 破局は唐突に訪れた。

 村で流行り病が起き、己の悲嘆に明快な「敵」を求めた村人たちが、松明と鍬を持って教会に押し寄せてきたのだ。

「魔女に裁きを!」

「呪われた犬と共に焼き殺せ!」

 怒号と共に礼拝堂の扉が打ち壊される。彼らはわたしを引きずり出し、祭壇の前で髪を掴んだ。

 わたしがどれだけ無実を叫ぼうとも、かつてと変わらず彼らの目は恐怖と狂気に濁っていた。

「火をつけろ! 神に捧げる生贄だ!」

 燃え盛る松明がわたしに近づけられた、その時だった。


 大気が震えるほどの咆哮が辺りに轟いた。

 ステンドグラスの破片さえも吹き飛び、闇の中から彼が躍り出る。今夜の彼はいつにも増して巨大で、禍々しかった。

 全身から黒い霧が溢れ出す。彼の赤眼は激怒のために松明よりも強く燃え盛っていた。

 村人たちの悲鳴が重なる。

「で、出た……!」

「ブラックドッグだ!」

 先ほどまでの威勢はどこへやら、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。しかし彼らが壊した教会の出口はいつの間にか、無数の黒い手によって塞がれていた。


 断末魔、骨が砕け、肉が潰れ、それを啜る音。そして静寂。

 粛然たる聖堂が瞬く間に血の海と化した。

 生きているのは祭壇の前でへたり込むわたし、ただ一人。


 彼は村人の血に濡れた口元を舌で舐め、ゆっくりとわたしに近づいてきた。

 もはや人を模ることもなく、巨大な黒犬のまま、彼がわたしに顔を寄せる。

 怖かったか、と、そう尋ねられた気がした。わたしは首を横に振る。血塗れの彼を抱きしめ、濡れた鼻先に口づけを落とした。

「この世の何よりもすてきだったわ、あなた」

 彼は笑うように喉を鳴らし、わたしを鼻先で促して背中に乗せた。


『行こう。ここは騒がしすぎる。冥府の門の向こうに、おまえのための静かな庭がある』

 わたしは彼の漆黒の毛並みを強く握りしめた。硬く、冷たくて、涙が出るほどやさしい。

 彼は、わたしの心を慰めるただ一つの祝福わざわいだった。


 教会の外に出ると、そこはもう見知った荒野ではなかった。空に紫色の月がかかり、地面から湧き出でる青白い霊魂が花のように揺らめいている。


 わたしは人間としての生を捨てた。

 これからはわたしも死の前触れとして畏れられ、永遠の夜を駆けるのだ。

 誰よりも優しく恐ろしい、愛する夫と共に。

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