雪だるま(泣ける系恋愛)
岡山みこと
第1話 雪だるま 前編
2025年12月24日 夜 【幸佑】
耳をすませば、どこからかクリスマスソングが聞こえる。
今日は一年に一度の特別な日。
大好きな人に、もういちど大好きと伝える、そんな日。
愛があふれて奇跡が起こる、たった一晩の特別。
そんな夜に俺はベンチに座っていた。
病院の裏庭、愛する人が意識不明で寝ている部屋を遠くから見上げながら。
傍にいたい。
どれだけそう願っても、目を覚まさない彼女を見ることが怖かった。
それでも離れることができず、ずるい距離でただ自分を正当化している。
雪の降らない街に降りてくる結晶。
全てを白く塗りつぶしていく。
このまま俺も清めてくれたらと、そう願う。
歌が遠くから、まだ聞こえる。
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2025年12月13日 【幸佑】
「ほら幸佑(こうすけ)!手が止まってる」
俺の向いで一人の少女が怒っている。
少し前までは幼馴染で、今はちょっと関係が変わった女の子。
その少女がどこか楽しそうに怒っていた。
俺の部屋のテーブルには広げられた教科書と筆記用具。
そしてあまり進んでないノート。
「明後日からテストだよ?わかってる?」
わかってる、もちろん。
だからと言って、やる気が出るかは別。
それに俺はそんなに点数も悪くない。
順位も真ん中より上だ。
お前が一桁とかわけわからないことするから、比較対象の俺が低く見える。
それだけだ。
「紫(ゆかり)基準で見られても困るんだが」
「幸佑はやればできるのに、なんでやらないかなー」
またぶつぶつと小声で文句をいっている。
少し童顔でたまに中学生に間違われる高校二年生。
そのあどけない目頭に皺が寄っている。
「私が皺だらけになったら幸佑のせいなんだから」
自分がどんな顔をしているのか自覚はあるらしく、黒く長い髪を揺らしながらまた怒っていた。
「その時は責任とってもらうから」
「……整形手術?」
今度は眉間に力が入っていた。
「どうしてそういうこというかな、いじわるだよ」
勉強を一緒にしよう。
テスト直前の休みにそう誘ったのは俺だし、集中できていないのも事実。
もうどこから見ても非はこっちにある。
「ごめん、頑張るからさ」
手を伸ばし、髪を撫でて謝った。
さらりとした、絹の手触り。
わずかでも嫌な思いをさせたのなら申し訳ない、そう思う。
「……よろしい」
にこっとゆるむ表情。
おもわずぼけっと見てしまう。
俺はこの顔にやられたんだったな。
「でもその前にご飯でもいこ?
いまから頑張っても中途半端だよ」
時計は11時過ぎを指していて、今日の昼はお礼をかねて俺が奢ることになっていた。
「紫は何が食べたい?」
「オムライス!ハンバーグのせ!」
「カロリーすごそ」
「いいんだよ。
私はもう少し伸びてもらわないと」
平均よりも低い身長をいつも気にしている紫。
少し高い俺と並ぶとさらに目立つのが不服らしい。
「幸佑がしゃがまなくてもキスできるくらいが目標だよ」
のろけでも、からかいでもない。
本当にそうなりたいと思ってるんだろうな。
嫌味がないというか、素直というか。
感情をいつもそのまま伝えてくれる。
気恥ずかしくて答えられていないけど、真っすぐな好きがいつも嬉しい。
「話してたら腹減ったな。
行くか」
「うん!いこ!」
俺たちは親に出てくることを伝えて、喫茶店モリへ向かうことにした。
この街に昔からある、地域に根ざした小さいお店。
紫はここの料理が好きでよくふたりでいっていた。
値段も手ごろなのが助かる。
家の扉を開けると、そこは銀世界。
雪が降らない街に訪れた歴史的低気圧。
初めて見る色に染まる、見慣れた場所。
昨日の夜から静かに積もった雪は道路で溶け、泥と混ざっている。
降ったり止んだり、しばらく続くってニュースで言っていた。
「寒いね」
もう赤くなった紫の頬。
コートから手袋をつけた左手を伸ばしてきた。
何もいわずそれを取る。
喜んで強く握り返してくれた。
住宅街をふたりで歩く。
穏やかな休日のなんでもない一瞬。
そんな当たり前の日常が紫となら特別の日になっていく。
隣りにいるだけで世界が輝きを持つ。
こんなこと、とても口には出せないけどな。
しばらく小さな歩幅で歩いていたら、ボタン信号の赤で足を止められた。
ひとつふたつ言葉を交わしながら待っていると、押しボタンの黄色い箱の上に小さな雪のかたまりがあることに気がついた。
だれかが青を待っている間に作ったバランスが悪い、雪だるま。
それに紫が目を細める。
「可愛いね」
汚れた雪で作られて少し濁った頭と、溶けかかっている体。
今にも崩れそうで見ていると不安になる。
「そうか?」
否定されても嬉しそうにまだ見ている。
「幸佑にはあれだよ、じょうちょうきょういく……じょうしょう……」
「情操教育?」
「そうそれ!それが足りてないよ」
紫は俺の手が離れないようにもう一度ぎゅっと握ると、その場に座り込んだ。
何をするかと見ていると、足元の綺麗な雪を片手で拾い上げている。
「君もお腹空くもんね」
崩れないように少しずつ丸く直してあげていた。
どこか嬉しそうに太った雪だるま。
そのかわりに紫の毛糸の手袋は水を吸って、すっかり濡れていた。
「あのなあ」
呆れながら俺は自分の片方の手袋を外して紫に渡す。
目を大きく見開いてパチクリさせた後、嬉しそうに自分のものと交換した。
「ありがとう、嬉しいよ」
代わりに紫の手袋をつけると、指先が冷たくてかじかんだ。
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2025年12月24日 夜 【幸佑】
明るくて色とりどりで鮮やかな毎日。
今までそれが俺の世界だと思っていた。
でも紫がいなくなって初めて気がついたんだ。
全部全部、あいつが与えてくれていたんだって。
嬉しいのも幸せなのも、痛いのも悲しいのも。
いまは何も感じない。
ただただ空になった俺がいる。
何を聞いても心が動かない。
何を食べても味がしない。
何を見ても色がない。
なあ、紫。
俺ってどんな顔で笑ってた?
笑い方が思い出せないんだ。
お前の笑顔はこんなに覚えているのに。
教えてくれ。
嘘でも、強がりでも、俺は笑わなきゃだめなんだ。
そうじゃなきゃ会いに行けないじゃないか。
目を覚まさないお前の枕元で、俺はどんな顔すれば良いんだ。
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2025年12月13日 【紫】
お腹いっぱいになった帰り道。
私はご機嫌でしかたがなかった。
幸佑と食べるハンバーグとオムライスは美味しくて。
たわいもない会話が楽しくて。
好きな人が手を繋いで隣を歩いてくれることが嬉しくて。
私にはもったいないくらいの日常で。
吐きだすと幸せが逃げちゃいそうで、少しだけ息を止めた。
雪が降らない私たちの街に舞い散る白い欠片。
ふたりで初めて見る白くなった世界。
隣に君がいるだけでぜんぶが大切になる。
「雪きれいだね」
私が言うと、歩幅を合わせてくれていた幸佑が顎を少しだけ上げた。
その横顔に見惚れる。
幸佑もこんなふうに私を見てくれることあるのかな。
聞いてみたいけどきっとまた意地悪なことを言ってはぐらかすんだろうな。
知ってるんだよ?
キスする時にちょっとだけ目を開けて私のこと見てるの。
愛されてるなって思えて嫌いじゃない。
私のほうが好きだけど。
「確かに雪は綺麗だな。
それにふたりで初めてはなんでも嬉しい」
恥ずかしがりではぐらかす事が多いけど、大切なことはちゃんと言ってくれる。
私だけが知ってる幸佑のいいところ。
友だちに自慢したいけど、恋バナをするときも秘密なんだ。
理由は私にもわからないけど、ちょっとした独占欲かも。
「これで帰って勉強が待ってなきゃなんだがな」
それは私も同感なんだ。
今日はちょっとくっつきが足りてなくて、本音を言うと膝の上に座らせてほしい。
それに唇が寂しくて、そわそわしてる。
「テスト終わったら私にたくさん甘えていいよ?」
お姉さんが受け止めてあげるよと、数ヶ月だけ年上の私が胸を張った。
でも幸佑の表情は。
「なんで!なんでそんなに不満げなのかな!?」
ちょっと嫌そうな顔をしていた。
こんなどうでも良いやりとりさえ楽しくて。
幸佑とだと、ついつい話しすぎてしまう。
雪が降っていた。
この街を染める数十年ぶりの白。
みんな面倒だなって口にはしているけど、それでも嬉しそう。
なれない足元に滑ってる人もよく見た。
雪の日の靴や歩き方。
ほんとうはあるんだろうけど、私たちはそれを知らないんだ。
だから準備なんてしてないし、危なさもわかってない。
さっきの交差点。
ちょっとぶりの再開をした雪だるま。
だれかが目を描いてくれていた。
思わず指先でつついちゃう。
信号待ちをしている私たち。
その近くをスピードを出したスクーターが通った。
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2025年12月13日 同時刻【幸佑】
何が起こったのかわからなかった。
眼の前で嬉しそうに、楽しそうにしていた紫。
道路を走っていたスクーター。
雪が溶けてどろどろの道なのに、速度を出しすぎているように見えた。
高校生の俺でさえそれがどれだけ危険かわかる。
後輪をとられたのか大きく揺れて歩道に乗り上げ、紫を巻き込み跳んでいった。
この街の人たちは、雪のきれいさと怖さを知らない。
少し先の道路。
倒れている白いコートの少女。
次第に赤く染まり、水たまりを作る。
紫が動かない。
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2025年12月18日 【幸佑】
紫の事故から五日。
俺は病院にいた。
あの後は誰かが呼んでくれた救急車に乗り病院へ。
電話で呼んだ紫の母親と病院で合流し、緊急手術となった。
なにも出来ない子供の俺は家で待つように帰され、今まで長い時間を過ごした。
数日振りに来た総合病院のエントランス。
そこから動けず俺は立ちすくんでいる。
この先にあいつが、紫がいるのはわかっていた。
だからこそ勇気が足りない。
真っ白な雪の中、赤く色づく紫が瞼の裏から消えないんだ。
なぜあの時俺は手を繋いでいなかったのだろう。
左手を見つめてずっとそう考えている。
もしそうだったら咄嗟に手を引けていたんじゃないか、紫は今も元気に隣にいたんじゃないか。
そう考えてしまう。
「幸佑くん」
名前を呼ばれて俯いていた顔を上げる。
俺の大好きな人によく似た女性が立っていた。
紫の母親だ。
あいつが小学生の頃に引っ越してきてからもう十年くらいお世話になっている人。
俺が一人娘と付き合うと知った時も心から祝福してくれた。
本当に本当に優しくて、こんな人の子供だから紫も。
「今日はありがとうね。
あの子も喜ぶと思う」
促されるように病院の奥へと進みエレベータに乗る。
普段はおしゃべりでいつも笑っているおばさん。
今は小さく背を丸め、何も話さない。
無言のままエレベータを降りて歩く。
三階奥の小さな個室。
引き戸を開けておばさんが中に入った。
ここに紫が。
そう思うだけで、俺の足は再び止まる。
おばさんから連絡をもらっていて現状は理解していた。
それでもこの目で見るまでは、それが現実にはならない。
子供のようにそう自分に嘘をついていた。
そんな俺に優しく手を伸ばして病室へと導いてくれる。
消毒室臭い室内。
ひとつのベッド。
小さなネームプレートがかかっていて、【幸之 紫】。
そう書かれている。
こうのゆかり。
何度口にしただろう。
世界で一番呼んだ名前だと、迷うこと無く言える。
ずっと昔、”しあわせのゆかり”って書くんだと教えてくれたことを覚えていた。
そんな紫が眠っていた。
穏やかな表情で、まるで暖かい日差しの中居眠りをしているようだった。
体から幾本ものコードや管を伸ばしながら。
「今朝ね、ようやく安定して一般病棟にこれたの」
背中から聞こえるおばさんの声は震えていた。
父親は紫が小さい頃に亡くなり、一人で育ててきた強い母親。
「事故のときに頭をぶつけて血を流しすぎたみたいで、意識が戻らなくて」
目覚めるかこのままゆっくりと終るか、これからどうなるかは本人次第で何もわからない。
そう教えてくれた。
アイボリー色の壁の室内に、心電図の音だけが断続的に響く。
「ごめんなさい」
そう言い残し病室を出ていくおばさん。
その声が涙声で、俺は振り返ることが出来なかった。
「……紫」
名前を呼んでみた。
しかし、いつもの優しい声が返ってくることはなかった。
相変わらず鳴り続ける電子音。
紫はまだ生きていると、それだけが教えてくれる。
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2015年3月15日 【幸佑】
毎日が楽しいんだ。
幼稚園を卒園して、ランドセルを買ってもらった。
おじいちゃんやおばあちゃんが、おめでとうとプレゼントをくれた。
小学校は大変ってみんな言うけど僕は楽しみ。
「幸佑ー!」
部屋でひとり遊んでいるとママから呼ばれた。
明日友だちと遊ぶときのために、カードデッキをつくるからジャマしないで。
お願いしてたのに。
ほんとうは放っときたいけど、おこられるのもヤダ。
めんどうだなって玄関へ行くと、見たことないおばさんがいた。
すごいきれいな人でさっきからママと話してる。
家族の都合で娘とふたり越してきたとか言ってた。
むずかしいことは分かんなかったけど、ママのとなりに並んで頷いてみた。
そんな僕におばさんが屈んで、手を差し出してきた。
おっきな手。
僕は両手で握ると大きく振った。
「幸佑君だよね?よろしくね」
笑いかけてくれたから、もっと大きく振った。
「おばさんの子どもが幸佑君と同い年で今度小学校なの。
仲良くしてくれるかな?」
友だちが増えるの?
嬉しくて思わずママを見ると、ママも嬉しそうに笑ってる。
この近くでこんど小学生になるのは僕ひとりで、ちょっと寂しかったんだ。
「ほら紫、あいさつは?」
おばさんが呼ぶ方を見たら、背中に隠れるみたいに抱きついた女の子がいた。
びーだまみたいに丸い目をしてる。
「人見知りだからごめんね。
仲良くしてくれる?」
おばさんが聞いてきたけど僕は返事をせず、素足のまま玄関へ飛び降りた。
「あ、幸佑!靴を履きなさい!」
怒るママもムシ。
女の子に近づくと、さっきおばさんがしてくれたように手を差し出した。
「僕、ふじさきこうすけ」
「……こうの……ゆかり」
おどおどしながら手を握り返してくれた。
「なまえちょっとだけ似てるね!」
「……うん」
少しだけ笑ってくれた。
「ママ!僕の部屋であそんでいい?」
「もちろん」
僕はしっかりと手をにぎって、ゆかりちゃんを引っ張った。
「さあさ、上がってください。
大人は大人で話しましょう」
後ろでママたちの話が聞こえた。
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2023年11月07日 【紫】
「今日ね、幸佑と付き合ってるのかって聞かれた」
私は隣を歩いている男の子を見た。
中学二年生になってから身長が急に大きくなって声も低くなった、友だち。
いつもの帰り道をいつものようにふたりで歩く。
「またか?」
面倒そうな顔をしていた。
そんな表情だとちょっと傷つくな。
「何回目だよ」
「何十回目かもわかんない」
幸佑と友だちになって何年だろう。
私の人生の半分以上は過ぎているはず。
その時間が長くなるたびに、体が男性と女性になるたびに。
周りはふたりを特別な関係と見るようになった。
一緒に話していると、一緒に帰っていると、恋人と囃し立てる。
ふたりでいるのなんて楽しいから、それだけなのに。
ううん、違う。
私はその感情だけじゃなくなっていた。
人を好きになるってことはまだよく分からないけど、この気持ちはきっと。
「理由なんて友だちだからだしな。
あと楽ってのもある」
「気心のしれた仲ってやつ?」
「腐れ縁?」
「んー。もうちょっと綺麗な言葉であらわしてほしいもん」
毎日話しても尽きることがない会話。
これだけで私には十分だと思える。
でも、本当は聞きたいことがあった。
”幸佑と付き合っているの?”
今度そう聞かれたときに私が、”うん”って。
そう答えたらどう思う?
迷惑かな?面倒かな?嫌かな?
それとも、ひょっとしたら。
嬉しいって。
そう思ってくれるのかな。
考えている間に私の家についてしまい、いつものようにさよならをした。
遠くなる背中を見送っていると、思い出したように振り返りこちらに走り帰ってくる。
「俺さ、高校は紫と同じところにすることにしたから」
「え?でも違うとこ受けるって」
恥ずかしそうに頭を掻いている幸佑。
「紫と別々になるのも寂しいしさ。
偏差値足りないけど頑張ってみる」
寂しい。
その言葉が、その一言が、幸佑の口から出てきたことが。
「なんで泣いてるんだ!?」
いつの間にか頬を伝っていた涙。
何歳になっても治らない私の悪い癖。
でもね、わかってほしい。
これはね、この涙はね。
嬉しいから、なんだよ。
「じゃあ一緒に勉強しよ?
手伝うから」
幸佑はそれからしばらく、私が泣き止むまで傍にいてくれた。
今わかった。
私は幸佑が好きなんだ。
朝も昼も夜も。
春も夏も秋も冬も。
あなたを想いたい、あなたに想われたい。
幸佑がこれから歩いていくその隣が、ずっと私であるように。
そう願うんだ。
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2025年12月24日 夜 【幸佑】
手の中には行き先を失った小さな白い箱があった。
こっそりバイトをやって頑張ったんだけどな。
渡せていたなら、喜んでくれたのだろうか。
ひょっとしたらそんな今日もあったのかもしれない。
でも現実は、雪に残されたひとりだけの靴跡が寂しそうにぽつんとあるだけだった。
並んでいるはずの小さな跡は今はもうない。
天気予報によれば長く止まっていた低気圧も今晩にかけて流されるらしい。
雪が降るのもあと少し。
あいつと最後に見た景色も消えていく。
そうすれば、街には日常が戻ってくる。
みんなが綺麗だったねと、過去のことに変えていく。
どうしようもない焦燥感に打ちひしがれていると、夜に消されかけた小さな音がした。
金属がこすれるような固くて、でも何故か優しい音。
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2025年12月24日 夜 【紫】
目が覚めたら私はそこに立っていた。
知らない部屋。
でもひと目で病院と分かる暖かで無機質な場所。
そしてベッドで眠る少女。
幸之紫、そう書かれている私。
病院に運ばれて麻酔をかけられるまで薄っすらとあった意識。
そうか、私は終わりを迎えようとしてるんだ。
なぜだろう、不思議と素直に受け入れてしまった。
死ぬことが怖くなかった。
ただ、残してしまうお母さんに、友だちに、ごめんなさい。
それだけ思ってしまう。
枕元の時計を見ると針は二十三時を指していて、クリスマスイブが終わろうとしている。
あと一時間だけ残された奇跡が許される夜。
神様がさよならを伝えてきなさいと、私にくれたクリスマスプレゼント。
誰にお礼を伝えたら良いかわからないけど、本当にありがとう。
私は窓の外を見た。
白く塗りつぶされた闇の中、ベンチに座る少年。
幸佑なら傍にいてくれる、そうわかっていたから。
どんなときでも、どんな場所でも、私を一人にしない優しい人。
私の幸佑はそういう男の子なんだ。
そう信じていた。
だから驚きはしなかったけど、胸がみたされていく。
「……会いにいってもいいかな?」
結露で滲む窓に額をつけて、一言呟く。
その時私はいつもより低い視線と、軽い体に気がついた。
鏡の前に立っても映らなかったけど、わかる。
今の私は幸佑に出会った頃の姿をしているんだ。
最後にひとめ会いたいけど彼に未練を残したくない。
私と気が付かないでという思いと、気づいてほしいという矛盾。
そんな弱くてずるい私。
こんなだからいつまで経っても、幸佑に釣り合える女性になれないんだな。
とぼとぼと病院内を歩く。
すれ違う看護師さんの目には映ってないみたいで、誰もこちらを見ることすらしない。
階段を下り、自動販売機の光を通り過ぎて、誰もいない待合室を通り過ぎた。
そうだ、嘘の名前を決めておかなきゃ。
私が好きな本のヒロインからもらおうかな。
その物語はとてもとてもハッピーエンドで幕を閉じるんだ。
今の私は、それがどうしようもなく羨ましい。
迷いながらもたどり着いた裏口。
氷のように冷たいノブを押すと、会いたくて会いたくて。
会いたかった人がいた。
ああ、私はこの人が好きなんだ、心から。
刻むことを忘れた私の胸の鼓動が跳ねる錯覚。
それに気がついてくれたのか、幸佑が私を見てくれた。
憔悴して疲れた表情。
それでも、それでも
私だけの、幸佑。
「お兄ちゃんなにしてるの?」
私に残された精一杯の勇気でそう話しかけた。
自分を偽りながら。
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2025年12月24日 23:00 【幸佑】
視線を上げた先に少女がいた。
入院患者なのか寝間着の上に分厚い半纏を着ている。
小学校の低学年くらいだろうか、俺を不思議そうに見ていた。
「お兄ちゃんなにしてるの?」
そうかけられた言葉に思わず笑ってしまう。
なにしてるんだろうな、俺も知りたいよ。
「わかんないけどこっち!」
病院のドアを開けたままの少女が手招きをしている。
引き寄せられるように側へ行くと、手を掴まれて建物に引き込まれた。
「もー、雪だらけだし濡れてるし。
風邪引くよ?」
俺の背中やら肩やらを叩いて雪を落としてくれる。
「届かないから髪は自分でやって?」
少女が赤くなっている手を擦りながら言う。
なぜか感じる懐かしさに、沈んでいた心が軽くなる。
「ここに入院してるんだろ?
歩き回っていて大丈夫なのか?」
長い髪と少女らしい大きな瞳。
困ったように、嬉しいように、転がるみたいに表情が変わっている。
「体調が悪いとはちがうし、お昼に寝すぎて眠くないし」
「そんな病気あるのか?」
「あるんだよ、うん」
こうやって話しているとすごく元気で、入院している女の子には見えない。
それでも病室に返さないと。
「……やだ」
まだ何も言っていないのに拒否された。
勘が良い。
「クリスマスなのにケーキもツリーもないし。
つまんない」
今度はふてた顔。
本当なら家族で楽しく過ごしたはずの夜が、こんな病院だとそうも思うよな。
「でもここで出来ることなんてないだろ」
その声に少女が廊下の奥、真っ暗な中ぼやっと浮かぶ場所を指さした。
たしかにここで時間過ごすならあそこくらいしかないよな。
先を歩く女の子の後ろを、ゆっくりとついていく。
ちょっと間違えたら追い越しそうな小さな歩幅。
「とうちゃくだよ!」
嬉しそうに言っているけれど、ふたりがついたのは待合室の片隅にある自動販売機コーナー。
天井の照明は切れているが機械から溢れる光でちょっとだけ明るい。
「イルミネーションみたい!」
無邪気にはしゃいでいる後ろ姿。
振り返った瞳が輝いていて、俺からしたらそっちのほうが。
「自販機だしそんなに大したものじゃ……」
「こういうのは楽しんだもの勝ちだよ?」
まあ確かに。
缶だったり紙コップだったり、いろいろな飲み物が並んでる。
その傍らにお菓子やパンが売られている軽食自販機もあった。
「お兄ちゃん!」
「どうした?」
「私おかねもってない!」
「……は?」
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2024年3月19日 【紫】
空にはどこからか届いた春の空気が流れている。
中学校の卒業式が終わって数日。
私は幸佑と制服で歩いていた。
たぶんこの服を着るのは今日が最後。
それがこんなラストになるなんて。
「ふんふーんふふーん」
思わず漏れてしまう私の鼻歌。
「ご機嫌すぎるだろ」
いつもの少し呆れた顔。
ご機嫌にもなるよ!
今日は幸佑の高校受験の合格発表日。
推薦で合格が早く決まっていた私はこの数か月、一緒にたくさん勉強をしてきた。
本当に幸佑は頑張ってた。
弱点だった科目も平均越えをとれるようになったし。
机に向かういつもとは違う真剣な表情。
私もそれがたくさん見れて役得だったよ。
「だって嬉しくてさ!」
試験の自己採点ではボーダーギリギリで、ここ数日はさすがにふたりとも気が気じゃなかった。
できることはやったつもり。
それでもこれからも一緒にいれるか、別々になるか。
とても大切なことが決まっちゃう。
「でもまあ、紫のおかげだよ」
午前中の太陽に照らされた横顔。
逆光で見えないけどきっと幸佑は、いつものあの表情。
こんなに一緒にいるんだもん。
わかっちゃう。
「ありがとう」
私が一人で納得をしてるとゆっくりと丁寧に、幸佑がそう言ってくれた。
その一言で私の胸から桜色の心があふれ出す。
ううん、私もお礼を言えてなかった。
あの日に幸佑が離れ離れになるのが寂しい。
そう伝えてくれたこと。
私は一生忘れられないんだよ。
「四月からもまた一緒の学校だな」
無事に合格した幸佑。
webでの合格発表もあるんだけどふたりで一緒にって誘ってくれて、高校に張り出されるのを見に行った。
並んでいる番号を私は怖くて見れなかった。
もしあの中に無かったらって。
だから隣から声にならない嬉しそうな驚きが聞こえたとき、伏し目がちだった視線をあげた。
本当なら彼が見つめる先を一緒に見て、その番号を確認するべきだったんだ。
でも私は隣にいることをこれからも許されたことがどうしようもなく幸せで、瞳を閉じてしまった。
「これで俺たちは十二年同じ学校だな」
「腐れ縁だっけ?」
少し前に幸佑がそういった私たちの関係。
あの時はちょっと心外だなって思ったけど、今は少し好き。
だってさ、それってさ、なんか恥ずかしいけどさ。
幸佑が私に依存してるって意味になるし。
「ごめんって。
あの時は俺が悪かった」
「うわ、幸佑が素直に謝ってくれたよ」
「紫の中で俺ってどういう扱い?」
珍しく困ってる幸佑がおかしくて、私はすこしいじめてしまう。
なら腐れ縁をさ、どう言い換えてくれるの?
そう聞いてしまった。
「……恩人は違うし、友達もなんかな。
幼馴染はありきたりだし」
首をかしげながら歩いている。
そんなことしてるとコケるよ?
「大切な人とか?」
考えもしなかった幸佑の言葉。
それは、どういった気持ちで言ってくれたの?
私が隠している心と”同じ”大切なのか。
教えてほしい、聞かせてほしい。
それでも自分からは動けない意気地なしな私。
ひとりこっそりと落ち込んでしまう。
幸佑を好きだって自覚してからずっとこうだ。
毎日、毎時間、毎秒、ちょっとずつ自分自身の嫌なところが見えてくる。
せっかく幸佑の記念日なのに、こんな心持じゃだめだよね。
話題を変えたくて口を開こうとしたとき、道路の小さな段差につま先をぶつけてしまった。
バランスを崩してつんのめってしまう。
その間抜けさでまた少し自分が嫌いになってしまう。
「紫!」
私の手を幸佑が掴んで支えてくれた。
たたらを踏んで数歩だけ私は彼に近づいた。
「大丈夫か?足痛めなかったか?」
笑顔も、意地悪さも、なにもなくて、ただただ私を心配してくれている。
少し後ろには投げ出されて道路に転がる幸佑の荷物。
私が首を横に振ると安心して、いつものように捻くれた顔。
その裏に隠された何倍もの優しさ。
握ってくれた手が、あつすぎて。
私はその熱に浮かされてしまった。
「私、幸佑が好き」
もれてしまった想い。
いつも胸の中で何回も何回も、ずっと一人で言っていた。
伝えたくても伝えられなかった。
それがあふれてしまった。
「えっと、紫、それは?」
戸惑っている幸佑の表情。
喜びや嬉しさではない、どうしたらいいかわかっていない困惑。
それだけで私には十分だった。
「ごめん、忘れて……」
手を振り払い、足早に歩き出す。
いつも歩幅を合わせてくれる人を置き去りにして。
こんな自分勝手なやつ、好きになってもらえるわけないじゃない。
長い付き合いに甘えて、ひょっとして自分ならって、勘違いして。
ばかみたい。
後ろから呼ばれるのを無視して私は歩く。
「待てって!」
肩を掴まれ、無理やり止めさせられた。
「やだ!離して!
謝るから!もう言わないから!」
私の深いところから出てくる醜さ。
こんなの私じゃない。
お願いだから、こんな私を見ないで。
幸佑だけには見られたくないの。
「話を聞けって」
「何を聞くの!」
振り返った私はどんな顔だったのだろう。
怒ってたのかな、睨んでたのかな。
好きな人が悲しそうな顔をしていたから、どうせ良くないやつのどれか。
「さっきの幸佑困ってたもん。
十年ずっといるんだよ、わかるよ」
あなたの表情は全部見てきたんだもの。
だからお願い、その手を離して。
「不安にさせて本当にごめん」
見つめてきたのは、たまにだけする真剣な瞳。
本当に怒った時、本当に喜んだ時。
私になにか伝えようと、話してくれる時の幸佑。
「困ったんじゃない。
俺も同じだから」
初めて見る彼がいた。
戸惑い、緊張し、でも嬉しそうな。
そんな色々が混ざった、知らない幸佑。
「友達としか見られていないと思ってた」
謝るように伏し目がちで、掴まれている手は震えていた。
ああ、彼は勇気を出そうとしてくれている。
だから私も一握りの恋を幸佑へ。
「私は幸佑のことが好き」
まっすぐに見つめ、そう言った。
教えてほしい。
幸佑の気持ちを。
明日からの答えを。
「俺のほうが紫が好きだ」
負けず嫌いでちょっと捻くれた男の子。
その幸佑が、また私の知らない表情をしていた。
私はなんて間抜けだったんだ。
彼の全部を知った気になっていた。
すごく傲慢ですごく自信過剰で、どうしようもない勘違い屋。
そんな私を幸佑は選んでくれた。
これからも隣で、昨日よりも一歩だけ近くに並ぶことを許してくれた。
望んでくれた。
まだ見たことのない、いろんな幸佑を見れるのかな。
傍にいるからどうか私にだけ、こそっとしてくれたら嬉しい。
あと一つだけお願い。
どうか今の私を見ないでください。
心がふわふわして表情をコントロールできなくて、どんな顔をしてるかわからないから。
でも、でも、離れないでいてください。
【後編へ続く】
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