04 執筆がもたらす日常生活への影響
朝、目を覚ますと、まず執筆の進捗状況を思い起こす。まだ飛行には至っていない。制御できない空中浮遊能力により、日常が崩壊しかかっている状況だ。その困難を打破しようと四苦八苦している彼だが、私もどうしたものかと頭を悩ませている。
療養中と称し、外界から隔絶されたアパートのこの部屋で、インスタントコーヒーを掻き混ぜる手を動かしながら、コウキの次のシーンを思い描く。彼の勇気ある行動は、私に前向きな気持ちをもたらす。
とはいえ、まだまだ感情の浮き沈みは激しく、極度の鬱屈に悶え苦しむ瞬間は頻発していた。そんなとき、執筆により誕生した物語の世界の入口は、私の唯一の逃避先となる。激痛を和らげる、モルヒネ注射のようなものだ。多幸感が全身を包み、現実の重圧から一時的に心を解放してくれる。
存分に妄想を膨らませ、その章のプロットを練る。机に向かい、ノートパソコンのキーボードを夢中になって叩く。この創作行為こそが、いまの私にとってなくてはならない、鬱病に対する大きな戦力となっていた。
熟考を重ねて打ち込んだ文字が、画面を通して脳裏に舞い戻り、創作とは思えぬほどのリアルな映像を再現する。試練が立ちはだかっていた。
コウキが冷蔵庫の中を除いて、表情を引きつらせている。私にもその焦りが伝わってくる。食料が底を突きかけていた。アパートに引き籠もっている現状での死活問題である。
早急なる食料の補充というミッションが与えられた。しかし、体内に宿る浮力をゼロにして床に降り立っても、水中で呼吸を我慢しているように、すぐに浮力が暴走して宙に浮き上がってしまうこの姿。世には晒せない。怪しい組織が忍び寄り、拉致、監禁、そして研究材料にされるのは間違いないのだ。
では、どうするのか。便利な世の中になったとつくづく思う。打開策は、いとも簡単に見つかった。ネットスーパーを利用するのが最善である。
だが、以後もそのサービスに頼り切りになるのは、物語としていかがなものなのか。これ以上の甘やかしは、それこそ創作者としての死活問題となる。
私にもミッションが課せられた。実店舗のスーパーマーケットへの買い出しを、コウキに決行させなければならない。
腕を組み、うーん、と大きく唸る。これはまさに、試練である。
その日の夕方、ニュース番組で引き籠もりの高齢化問題が取り上げられていた。長期間に渡って社会から隔絶した状態にある人々が、高齢になっていく現象である。その多くが四十歳、五十歳、時にはそれ以上の年齢に達し、さまざまな問題が生じているありさまだった。耳が痛い内容に、思わず目を背ける。すぐにテレビリモコンを取り上げ、電源をオフにした。
彼はいま、孤立無援で困難に立ち向かっている。なのに、創造主である私は現実から逃げ続けている。この差はなんだ。このままでいいのだろうか。
蓄えがあるといっても、いつまでも無職というわけにはいかない。
決断の瞬間が訪れていた。選択肢は少ない。むしろ、一択だった。
そう、私と彼は一心同体。彼が物語の中で直面する困難や挑戦は、私自身の人生の試練とも重なり合う。
数日後、派遣会社に登録した私は、再び肉体労働の現場に身を投じたのだった。
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