変わらない位置

@mmCa

第1話 触れない理由


 閉店間際の書店は、音がない。


 レジの電子音も、足音も、

街が眠りにつく時間に吸われていく。


「これ、入ってたんだ」


 声が近い。

 俺は、棚から視線を外さずに答えた。


「昨日」


 それ以上、言うことはない。


 彼は、文庫本を一冊抜き取り、表紙を指でなぞる。

 肩が触れそうになる。

 同じ棚を覗き込む距離だった。

 俺は一歩、後ろへ下がった。


「あ……」


 彼は小さく声を漏らし、すぐに言った。


「ごめん」


 俺は否定しなかった。

 説明もしない。


 彼は何もなかったように本を戻し、

 少し間を置いてから口を開く。


「このあと、時間ある?」


「今日は、やめておこう」

 理由は添えない。


 彼は一瞬こちらを見たが、

 すぐに視線を落とした。


「……わかった」


 笑わなかった。


 閉店後、シャッターを下ろす。


 彼は振り返らずに歩き出す。

 呼び止める理由はない。

 そう判断した。


 夜の歩道に背中が沈んでいく。


 距離は、最初から決めていた。


 ――触れない。


 それでいい。

 そう思っていた。

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