第4話:返却できない時計

一夜目:成功の虚無


高層ビルの最上階。冷たい夜景が広がる部屋でグラスに飲み物を注ぐ音が響く。

九条智久(45)は、自分を掲載した雑誌の傍ら、ワインがわずかに入ったグラスを見つめていた。

映っているのは実業家として成功した者の表情ではなかった。


「手に入れたものほど、空っぽだ」


智久はグラス越しに自宅を眺める。

広大なリビングと、開放感を担っている高い天井と照明。この部屋の中に配置されている、気品に満ちた楕円形の真っ黒な家具たち。

一つ数百万円はくだらない。


リビングの窓を沿ったさき、寝室があり、無駄に光るシルクのベッドを中心に、向かいには壁一面にスクリーンが取り付けられている。まるでモデルルームのような、きれいに整えられている空間。

その中で、違和感を放つのは、ベット横の机にある古い懐中時計。


「真理子……」


それは、過去の恋人、真理子の時計だった。


ビルの自然光を背景に時計を手に取る。

時計の針は、17時で止まっている。


時間を見る手段なんか懐中時計以外にあるのに、真理子は肌身離さず持っていた。この時計だと、どんな瞬間も特別に感じられるの。そう彼女は言っていた。


真理子が病に倒れて亡くなったのは、それからわずか2か月後の17時だった。


高層ビルの切り放された静けさのなか、突如、懐中時計の針が動いた。風が部屋に流れ込み、窓の外に異様な光が現れる。目を凝らし光の中を見る。四次元ストアの文字が揺れている。


「なにが、どうなっている、、、」


地上約120メートルの世界で、窓の外、空に、コンビニの外観をした物体がある。


現実とは思えない光景に、一瞬、時間が止まる。困惑したのも束の間、気がつけば智久は、スーツ姿のまま、店の扉を開けていた。

なかには、店主であろう、仕事ができるビジネスマンの男が静かに迎える。


「お探しの時間はなんでしょうか?」


店主は智久の手元にある懐中時計を見た。

「止まったままの時間を、動かしましょうか?」


店主の言葉にうなずいたとき、智久の凍った心臓は熱を帯びた。



二夜目:返却できない時計


智久は、この店が繁盛しているのが分かった。


お客様を迎えるために扉前に敷かれたマットは、ノルウェーのHeymat-Hagl。カウンターや床には、一面に庵治石(あじいし)が使われている。


他にも、ローズウッドにアカンサス模様の装飾が施されたキャッシュトレイ。


内観のこだわりもさることながら、一番目を引くのは、店内中央に位置する、この区切りが見えないほどどこまでも続く棚。棚には無数の時計が並び、全て違う時刻を示していた。

その中央には「返却できない時計」の札がかけられている。


店主の声が響く。

「巻き戻せば、戻れます。ただし、二度と前には進めません」


智久は微笑した。

「そんなことですか。」


僕の時間は、真理子の死からとっくに止まっている。いまさら、一人だけ前に進める気はない。


「取引の代価は、あなたのこれからです。店を出ると、止まった過去に戻ります。」


トレードの代価を記したレシートを受け取ると、智久は足早に店を出た。


どこからともなく現れた光に包まれる。懐中時計が、真理子が持っていた時の姿に戻り、周囲は一瞬で90年代の街並みに変化した。



三夜目:見慣れた景色


先ほどまでいた場所にビルはなく、木でできた喫茶店が立っていた。

この店から、温かみが感じられるのは、全体を漆で塗られたオークでつくられているからだろうか。

外観や内装、机やいす、カトラリー類に至る何もかもまで、使用されている。


「って、理由は真理子と通い詰めて、マスターと仲良くなったからだけどな。」


手になじむドアノブを押し、店内に入る。鋳鉄のベルを頭上に、炒ったコーヒー豆と焼けたトーストの匂いが胸を温める。

彼女の顔が見えた。


隣接する住宅との間の、わずかな路地側に位置する窓際の席。相も変わらず、彼女はそこにいた。


真理子は驚いた顔で「智久?出張じゃなかったの?」


と尋ねる。智久は首を振り、いつものコーヒーを頼む。時間が、ゆっくりと、流れる。


夕暮れの公園。二人の伸びた影が並ぶ。智久のポケットの懐中時計は、針が動いていない。


真理子が空を見上げる。

「ねぇ、これが最後の夕陽かもね」


17時の時報が町に流れる。記憶だとこの直後、彼女は病に倒れる。



四夜目:永遠の囚人


次の瞬間、違和感が走った。

周囲の人が止まっている。智久だけが動ける。

真理子は、空を見上げる笑顔のまま、静止していた。


「……え?」


ポケットの時計が逆回転を始め、風が吹く。

時計の「チ、チ、チ……」という擬音が、耳鳴りのように響く。


暗闇に浮かぶ店主の声が、回想のように蘇った。


「進まない時間とは、永遠に繰り返す時間です」


再び、カフェの中。

真理子は同じセリフを口にした。

「智久?出張じゃなかったの?」

時間が、ゆっくりと、流れる。

夕暮れの公園。真理子が空を見上げる。

「ねぇ、これが最後の夕陽かもね」

17時の時報が町に流れる。記憶だとこの直後、彼女は病に倒れる。

再びカフェの中。同じ夕陽、同じ公園。


智久は気づき始める。

「俺は……この時間に閉じ込められている」


彼は力いっぱい時計を叩く。

「動け、頼む!」

時計が砕け、破片が飛び散る。


カバー部分のガラスが、夕日に照らされ、

じょじょに、

動きが、

おそく、

やがて、

止まった。


全てが静止。音のない世界。空も風も消え、目の前の真理子は永遠に微笑む。


「何が、失敗だったんだ……」



五夜目:消失


四次元ストアの棚。新たな時計が静かに置かれる。店主は呟く。


「止まった時間を求めた者は、永遠となる」


智久は、光の粒となって、過去の街から薄れていく。テーブルには懐中時計だけが残り、智久だった、光の粒は、過去の二人が写った懐中時計の中に吸い込まれていった。


店の棚の上には、「返却できない時計」の札。店主が静かに時刻を合わせる。


「今日も、ひとつの永遠が完成した」


扉の外、17時の時報が流れる。次のお客様の時間が刻まれる。

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