第2話:記憶の写真館

一枚目:閉じた店



旧「さかきばら写真館」のシャッターは半分だけ下り、薄暗い店内に埃が舞っていた。トタン屋根を叩く小雨の音だけが響く夕方、店主だった榊原守(68)は、古びた鍵でドアを開けた。


「……お前の匂いが、まだ残っている。」


彼は、暗い店内に残る古い現像液や、引き伸ばし機の鉄の匂いを嗅ぎ、亡き妻の存在を感じようとした。


作業台の上には、古いアルバムが広げられていた。花嫁姿の若い女性が笑う写真に、守はそっと指をなぞる。

「絹代……」


防湿庫のガラスに映る自分の顔を見ながら、彼は心の声でつぶやいた。


「最近は、いまとむかしを行ったり来たり、ごちゃごちゃだ」


現像液が薄いように、大切な思い出がぼやけていく。トングで写真用紙をつまみ、薬品皿の中から優しい女性の笑顔が浮かび上がってくる。


しかし、目の前は空っぽの銀の器だった。あぁ、、、またむかしに行っていた。


「……薄れていく」


その時、シャッターのわずかな隙間から、青白い光が差し込んだ。真っ白な輪郭から徐々に形を帯びていく、おぼえのない「開店」の札が、小雨に濡れて揺れていた。雨の路地に、ぼんやりと小さな看板が浮かび上がる。


四次元ストア


守は不思議な店の存在に、ただただ立ち尽くした。


「……あれは、いつから?」


 埃につつまれた薄暗い店内から、導かれるように、光の方へ歩いていった。



二枚目:四次元ストアとの取引


粒子光に満たされた店内は静寂に包まれていた。

店内の中央に位置する棚は、奥へ奥へと、どこまでも続いている。


個人コンビニの、必要以上にワックスがかけられた床に、年季を感じる茶色がかった壁や、手書きのポップにどこか懐かしさを覚える。


傘についていた雨が、水たまりを作っている。突如、逆光の中に立つ人が見えた。


「ようこそ。お探しの時間は、どんな種類でしょうか?」


声の主は、全身黒の手入れが行き届いたスーツ姿に、黒ぶちの鼈甲眼鏡、髪型はオールバックの、バブル時代の営業マンのいで立ちであった。


守は、店主の姿や問いかけに少し躊躇い、足元を見てから、ゆっくり答えた。


「……記憶を、落とし物みたいに、よくするんだ」


「どうぞ、こちらへ」店主は守を古い陳列棚へと案内した。

そこには「失くした言葉」「初めての朝」といったラベルの瓶に混ざり、古い二眼レフ風のカメラが置かれていた。


「現像できますよ。記憶を」


守が二眼レフに触れようとすると、店主は静かに、しかしはっきりと告げた。


「ただし、撮った分だけ、同じ記憶は現実から薄れます」

守は目を閉じた。覚えていたいのに、忘れていくのなら……。


「代価は、今日までの涙を少し。払い方は現像室でよろしいでしょうか。」


守は紙袋を受け取り、深く頷いた。「……頼む」



三枚目:現像と代償


守は写真館の暗室のドアを開けた。赤い安全灯が、懐かしい光を灯している。二眼レフをセットし、空のネガスリーブを見つめる。


「一枚だけ……一枚で、いい」


守が二眼を覗き込むと、レンズの向こうに、若き日の絹代が立っていた。


「あなた、現像液、薄いわよ」

絹代の声。守は驚き、息を呑んだ。あたりを見回しても、彼女はいない。


ここにいるのは時間を体に刻んだ老いた体だけ。唾をのみ、もういちど二眼を覗く。


「どうかした?」何も知らない絹代は僕に問いかける。


「いやぁ、なに、、、。今日も、きれいだよ」

シャッター音が響き、光粒子が舞う。


彼はすぐに現像作業に取り掛かった。薬品皿に沈む用紙に、やがて絹代の笑顔が浮かび上がる。守は涙を拭い、呟いた。


「……絹代」


一枚の写真が現像棚にピンで干された。

守は深く一息つき、棚に戻ろうとして足を止めた。


「……なにを、取りに来た?」


空っぽの手。震える指先。記憶を保存した代償として、現実の記憶に空白が生じ始めたのだ。


しかし、守は止められなかった。別の場面、若き日の新婚旅行の記憶を覗き込み、絹代が笑ってピースする姿を再びシャッターに収める。現像写真が増えるほど、守の顔から表情の確信が抜けていった。


その時、電話が鳴った。娘からの電話だ。

「父さん、薬はちゃんと——」

「こどもじゃないんだ、わかっている、------」


守は言葉に詰まる。

「……娘の、名前が……」

彼は、大切な娘の名前を、一瞬失ってしまった。



四枚目:受容と現在


守は紙袋いっぱいの現像写真を抱え、四次元ストアに戻った。

店主は静かに目を落とす。

「写真は残す道具です。けれど、人は持っていることで生きる」


守は写真を抱えながら尋ねた。

「……返すことは?」

「返却も可能です。ただし、最後の一枚だけは、あなたが選ぶ必要があります。」


守は写真館に戻り、壁一面に吊るされた、さまざまな絹代の写真を見つめた。


「いちばん、普通の日を」


彼が選んだのは、台所で振り向く絹代の、何気ない笑顔の写真だった。


暗室で、店主から渡された返却箱に、彼は写真の束を一枚ずつ入れていく。写真が箱に触れた瞬間、ふっと消える。同時に、守の頭の靄が晴れていくのが分かった。


店主の声が頭に響き、胸にしみこんでくる。

「忘れることは、失うことではありません」


電話をかけてきた娘に、守は穏やかな声で答えた。

「……ああ、頼む」


壁は空っぽになった。夕陽が明るく店内を照らす。


「余白も、大切な思い出だ。」


守は最後に、暗室で、最後の一枚を現像した。浮かび上がったのは、絹代でも、二人でもなく、現在の守、——独りで立つ姿だった。


「……俺だ」


彼はその一枚だけを額に入れ、壁に飾った。そして、店を出る準備をする。


「今日の光を、忘れない」


窓から差し込む光のカーテンが、現在の守を、写真館を、そっと包み込む。



五枚目:思い出のフィルム


四次元ストアの棚には、丸められたフィルムが静かに置かれていた。名前には「榊原守」の文字。


なかの写真は、守が撮った自身の姿だった。


店主が額を真っ直ぐに直す。


「今日も、ひとつの愛が現像された」

店のガラス扉は、次のお客様を映した。

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