四次元ストア
金城燈
第1話:未送信メール
一通目:欠落の日常
小さなオフィスの片隅。デスクの上のPCモニターの冷たい光が、朝倉リオの細かく震える瞼を照らしていた。時計の針は23時17分を差している。
「……送らなきゃ、って、ずっと思っていたのに」
つぶやいた言葉のさき、スマホに映し出されているのは、半年以上前に作成されたままの未送信メールの画面。件名はない。
本文にはただ一言、「ごめんね」の言葉が無機質に浮かんでいる。
「結局、一通も出せなかった」
あのとき、ほんの数秒、震える指を動かせばよかった。たったそれだけのことが、できなかった。このメールを送らなかった「あの日」から、リオの人生は、ただ円を描き、空回りしているPC画面のように止まっていた。
デスクに広がる後悔の雰囲気は、彼女の背中から漂っている。
「ダメだ、ダメだ。仕事しないと。こんなところで立ち止まってる場合じゃない」
明日が締切の大手の取引先への資料を思い出し、
急いで立ち上がろうとした拍子、デスクの端に置いていたコーヒーカップが傾いた。
「あ、しまった。こぼれちゃっっっ、、、、!!!!」
リオは目をつぶって、熱いコーヒーがこぼれるのを待った。しかし、いつまで経っても、熱い感触は来ない。
恐る恐る目を開くと、信じられない光景が目の前にあった。コーヒーの中身が、カップからこぼれ出た瞬間の形で、空中に停止している。液体のしぶきの一つ一つが、完璧に静止していた。
切り取られた窓のなか、リオは震える声でつぶやく。
「もしかして、、、、、時間が止まっている?」
時計の針は、23時17分を差している。
二通目:四次元ストアとの邂逅
自分の足音がいつもより近くに聞こえる。車のライトの光の筋が空中で止まり、帰り道が同じだけの仲間をマネキンみたく映している。
ベルトコンベアのように人を流す街も、この時ばかりは、様子を変えていた。
―――停止。
認識できるすべての情報が、その瞬間のまま停止している。まるで誰かが再生ボタンを押すのを待っているかのように。
「あ、あの店、なくなっている。それに、、、あの公園も、だ。」
新人の頃、よく同期と寄っていた居酒屋が、駐車場に代わっていた。商談が失敗したとき、いつも泣いた公園も、いまは個人経営のラーメン店になっていた。
「気づかなかった、、、。」
正直、この店にたいした思い入れはない。だけど、変化に気づかなかった自分へのわずかな絶望と、心の隅を少しかじられた微痛が、私をこの場所に立ち止まらせる。
「ううん、そうだよ。みんな変わって、前に進むんだ。」
言い聞かせるように、自身の中に言葉を落とし、機能を停止した街を再び歩く。
「……え?」
歩き出して数歩、リオの目の前、突如霧が立ち込めた。予期しない侵入者に驚きと安堵を隠せないでいると、深くなった霧の中、ぽつんと小さなコンビニが浮かび上がった。古びた木製の看板には、パソコンで打たれたような四角い文字でこう書かれている。
四次元ストア
リオはまるで夢遊病者のように店へ近づき、その重い扉を開けた。
三通目:選択と覚悟
(カラン、カラン)
中もまた、時の流れから切り離されたような場所だった。
真っ白。めまいがするほど、視界のすべてが白だった。
自分の足が浮いて見え、思わず平衡感覚を失ってしまう。
自身がまるで、白の画用紙に切り貼りされた絵のような錯覚に陥ってしまう。
狭いようで広いこの世界に慣れたころ、すぐ目の前に、奇妙な商品が並んだ棚があることに気づいた。
「1時間券」「失くした言葉」「やり直し体験パック」――奇妙なラベルが貼られた瓶や箱が埃を被っている。
カウンターの奥から、男が、静かに現れた。
男は、全身黒のスーツにサングラスをかけ、髪型は上に掻き揚げている。見た目から年齢は推測できない。目の前の男のいで立ちが、この世界にあまりに似つかわしくなく、つい世にも奇妙な物語に迷い込んだと勘違いしてしまう。
「ようこそ。お探しの時間は、どんな種類でしょうか?」
店主だった男の声は、霧のように静かで、深く響く。
リオは戸惑いながら尋ねた。
「……時間が、買えるんですか?」
店主は微笑とも取れる静かな表情で答えた。
「四次元ストアは、あなたの願いをかなえる。誰もが一度は、戻りたい瞬間を持っています。それを、お手伝いするのがこの店です。」
リオは店内をゆっくりと見渡し、ある棚の片隅に置かれた、ガラスの瓶を見つけた。それは、メールのアイコンのような形をしていた。
「これ、何ですか?」
店主に問うと、彼は静かに、そしてゆっくりと説明した。
「それは、送られなかったメールを再送できる商品です。あなたが過去、ためらって送信できなかったメッセージを、選び直すことができます。」
リオの胸が激しく高鳴った。しかし、店主の次の言葉で、それはすぐに収まった。
「ただし―、今のあなたも消えます。」
リオの現在、後悔を抱えながら生きているこの人生、そのものが、過去の選択によって上書きされ、消滅してしまう。
一瞬の沈黙。リオは、過去の恋人、佐伯ユウの顔を思い出した。あのメールを送っていれば、すれ違うことはなかったかもしれない。
リオは強く、そして切実な決意を込めて言った。
「……構いません。」
リオが瓶を開けると、中から光が溢れ出し、彼女の体を包み込んだ。街の音が、逆再生のように遠くから聞こえ始め、静止していた世界が、急速に動きを取り戻し始めた。
リオが光に包まれる前、店主の口が動いていた。リオには店主がなにを言っていたか、もう確認することはできなかった。
四通目:再送と代償
光が収まると、リオは見慣れた、しかしどこか懐かしい部屋の中に立っていた。半年前、ユウと住んでいたアパートの一室。手元のスマホには、あの「ごめんね」の未送信メール。
「これを送れば……彼に、会える」
過去の自分の代わりに、震える手で指を動かし、「送信」ボタンを押した。
画面がまばゆい光に包まれた瞬間、窓の外から、ユウのスマホの通知音が聞こえた。
「…ユウ!!」
その音を合図に、リオは驚いた顔で、外に飛び出していく自身の後ろ姿を見た。
先ほどまで、重なっていた過去と現在が分かれ、望んでいた未来へと走り出した。
「リオ!!!」
「ユウ!!!」
リオは、部屋の窓ガラス越しに抱き合う二人を見ていた。足元の畳のシミが、ひとつふたつと増えていく。
リオの身体が、淡い光の粒子になり始める。
その時、聞こえなかったはずの店主の言葉が再生された。
「今のあなたは、もう存在しない。選択は、書き換えられました。」
外では、ユウと過去のリオが、抱き合い、笑い合っている。過去のリオは泣きながら、ユウの腕の中にいる。
現在のリオは、その幸福な光景を見つめながら、涙を浮かべた。
「……よかった。これで……」
リオの身体は完全に光の粒子となり、静かに消えていった。
五通目:望んだ未来
四次元ストアの店内。
カウンター裏の棚に、新しいガラスの瓶が置かれていた。ラベルには「望んだ未来」の文字と抱き合う二人の男女の写真が印刷されている。
店主は、厳かに言った。
「今日もひとつ、後悔の針がすすんだ。」
(カラン、カラン……)
扉の外、時間は止まっていない、現実の街。ドアベルの音と共に、また別の誰かが、迷い込んできた。
「ようこそ。お探しの時間は、どんな種類でしょうか?」
店主の声は、霧のように静かで、深く響いた。
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