永遠のハロウィン

陽炎

第1話

10月31日、ハロウィンの夜だった。

私、加賀谷 美穂は会社の同僚たちと一緒に、都内の高級ホテルで開催される仮装パーティーに参加していた。三十歳になった今年、こうしたイベントに参加するのは久しぶりだ。最近は仕事が忙しく、プライベートな時間を楽しむ余裕もなかなか持てずにいたからだ。


会場は豪華絢爛に装飾されていた。巨大なカボチャのランタン、蜘蛛の巣、コウモリのシルエット。オレンジと黒を基調とした色彩が、非日常的な雰囲気を演出している。天井から吊り下げられた骸骨の装飾が、シャンデリアの明かりに揺れて踊っているようだった。

私は今夜のために、赤いドレスを着た吸血鬼の衣装を選んだ。深紅のベルベットドレスに黒いマント、そして付け牙。鏡で見た自分の姿は、普段のオフィスワーカーとは全く違って見えた。仮装の力で、いつもの自分から解放されているような感覚があった。

同僚の堀口さんはフランケンシュタイン、前田さんは魔女、佐藤さんはゾンビナースの格好をしていた。みんなそれぞれに工夫を凝らした仮装で、見ているだけでも楽しい。普段は真面目なスーツ姿しか見ない同僚たちが、こんなにも弾けた表情を見せるのは新鮮だった。


「美穂ちゃん、似合ってるじゃない!」


前田さんが嬉しそうに声をかけてくれた。彼女の魔女衣装も、とても本格的で素敵だ。とんがり帽子に黒いローブ、手には魔法の杖まで持っている。


「前田さんこそ、本物の魔女みたい」


私たちは笑いながら、パーティー会場の中央に向かった。DJ が流す音楽に合わせて、多くの人々が踊っている。ドラキュラ、ミイラ男、天使、悪魔。様々な仮装をした人々が入り交じって、まるで異世界のお祭りのようだ。

ワインを片手に会場を歩いていると、知らない人との会話も自然と弾んだ。普段なら人見知りをする私も、仮装という仮面をつけることで、積極的になれるような気がした。これがハロウィンの魔法なのかもしれない。


しかし、楽しい時間は長くは続かなかった。

パーティーが始まってから一時間ほど経った頃、私は一人の男性に声をかけられた。


「美穂さん、ですよね?」


振り返ると、そこには黒いスーツを着た男性が立っていた。顔の上半分を覆うベネチアンマスクをつけているため、表情はよく見えない。


「はい、そうですが...どちらさまでしょうか?」


私は警戒心を抱きながら答えた。このパーティーには招待制で参加しているため、基本的には知り合いか、その関係者のはずだ。しかし、この男性には全く心当たりがない。


「私の名前は…まぁ、いいじゃないですか。それよりも、あなたとお話がしたくて」


男性の声は低く、落ち着いていた。しかし、その言葉の選び方に何か不自然な印象を受けた。まるで事前に準備していたセリフを読み上げているような、機械的な響き。取引先の誰かだろうか?


「お話? 何について?」


「あなたの過去についてです」


その言葉に、私の心臓が一瞬止まったような感覚があった。過去という言葉に、嫌な予感がした。誰にでも触れられたくない過去はある。私にも、できれば忘れてしまいたい出来事があった。


「過去って…何のことでしょうか。私はあなたを知りませんし、お話しすることはないと思いますが」


私は冷静を装って答えたが、声が少し震えているのが自分でも分かった。男性の視線が、マスクの奥から私を見つめているのを感じる。その視線は鋭く、まるで私の心の奥を覗き込んでいるようだった。


「5年前の9月23日の夜のことです」


男性がその日付を口にした瞬間、私の血の気が引いた。その日のことは、私の人生で最も忘れたい記憶だった。誰にも話したことがない、心の奥底に封印していた秘密。それを、なぜこの男性が知っているのか。


「…何の話ですか。私には分かりません」


私は必死に平静を装い否定したが、自分の声が上ずっているのが分かった。手に持ったワイングラスが、かすかに震えている。


「雨の夜でした。あなたは車を運転していた。そして、一人の男性を轢いた」


男性の言葉が、私の記憶を強制的に呼び覚ました。

そう。5年前のあの夜。激しい雨が降っていて、視界が悪かった。私は残業続きで疲れていて、集中力が散漫になっていた。そして、気づいた時にはもう遅かった。


「なんのことですか?!ち、違います。私は何もしていません」


私は激しく首を振った。しかし、男性の次の言葉が私の否定を完全に打ち砕いた。


「畠山広志。四十二歳。奥さんと二人の子供がいました」


その名前を聞いた瞬間、私は崩れ落ちそうになった。畠山広志。たしかに私が轢いてしまった男性の名前。あの夜、雨に濡れた道路で倒れていた彼の姿が、鮮明に蘇ってきた。

私はパニック状態になり、救急車を呼ぶこともせずに、その場から逃げ出してしまった。翌日のニュースで、畠山さんが亡くなったことを知った。轢き逃げ事件として報道され、犯人は見つかっていない。轢いた車体も目撃者も何も見つからなかった。

それ以来、私は罪悪感に苛まれ続けてきた。警察に自首しようと何度も考えたが、勇気が出なかった。時間が経つにつれて、自分の人生を壊したくないという気持ちが強くなり、結局は秘密を抱え続けることになった。


「あなたは誰ですか。なぜ…そのことを…」


私の声は震えていた。周囲の騒音が遠くに聞こえ、この男性の声だけが耳に入ってくる。


「私は畠山広志の兄です」


男性がマスクを外した瞬間、私は息を呑んだ。四十代後半と思われる男性の顔は、深い悲しみと憤りに満ちていた。目の奥に燃える怒りの炎が見える。


「弟は家族を愛する優しい男でした。毎晩、家族のために遅くまで働いていた。あの夜も、残業を終えて家に帰る途中でした」


男性の声は静かだったが、その中に込められた感情の重さが私の胸を圧迫した。


「そして、あなたが弟を殺した」


「違います。私は...私は...」


言い訳をしようとしたが、言葉が出てこない。事実は事実だ。私が畠山さんを轢いて、逃げたのは真実なのだから。


「五年間、私はあなたを探し続けました。警察の捜査は行き詰まり、事件は未解決のまま。しかし、私は諦めませんでした」


男性の執念深さが、私にたどりついたのだ。五年間も私を探し続けていたのか。その間、私は普通の生活を送り、時には笑い、時には楽しい時間を過ごしていた。一方で、この男性は弟の死の真相を求めて苦しみ続けていたのだ。


「今夜、真実を明かす時が来ました」


男性がそう言うと、周囲の雑踏が急に遠くなったような感覚があった。パーティーの音楽も、人々の笑い声も、まるで別の世界の出来事のように聞こえる。

私は逃げようとした。踵を返して、同僚たちがいる方向に向かおうとした。不審者だと訴えればこの男性はつまみだされるかもしれない。しかし、数歩歩いたところで、また同じ男性が目の前に現れた。


「あの夜のように、逃げることはできませんよ」


どうして? さっき後ろにいたはずなのに、なぜ前にいるのか。私は混乱した。

再び別の方向に向かおうとすると、またしても同じ男性が立っている。今度は違う場所から、同じ顔が私を見つめていた。

恐怖に駆られて振り返ると、さっきまでそこにいた男性の姿はなかった。しかし、前を向くと、また同じ男性が立っている。


「な、何が起こっているの?!」


私の声は震え声になっていた。周囲を見回すと、パーティーの参加者たちの顔が、全て同じに見えてきた。ドラキュラの仮装をした男性も、ピエロの格好をした人も、みんな同じ顔をしている。畠山広志の兄の顔を。


「これは夢? 幻覚?」


私は自分の頬を叩いてみたが、痛みはしっかりと感じた。現実なのか、それとも罪悪感が生み出した幻覚なのか、判断がつかない。


「美穂? どうしたの? 顔色が悪いよ」


前田さんの声が聞こえた。振り返ると、彼女が心配そうな表情で私を見つめている。


「前田さん! あの男性、見えますか?」


私は指差したが、そこには誰もいなかった。さっきまで立っていた男性の姿は、跡形もなく消えていた。


「男性? 誰のこと?」


前田さんは首をかしげている。彼女には何も見えていないようだった。


「私、少し疲れているみたい。外の空気を吸ってきます」


私はふらつく足取りで、会場の外に向かった。廊下に出ると、少し冷たい空気が頬に触れて、少し気分が楽になった。

しかし、廊下の向こうから、またあの男性が歩いてくるのが見えた。今度は仮装ではなく、黒いスーツ姿だった。


「逃げることはできないと言ったでしょう」


男性の声が廊下に響く。私は反対方向に走り出した。

エレベーターホールに到着し、ボタンを連打する。早く、早く来て。しかし、エレベーターの扉が開くと、中にも同じ男性が立っていた。


「お乗りになりませんか?」


男性が冷たく微笑む。


「きゃーーーー!!」


私は悲鳴を上げて、階段に向かった。

階段を駆け下りながら、私は自分の状況を理解しようとした。これは現実なのか。それとも、長年抱え続けてきた罪悪感が、ついに私の精神を蝕み始めたのか。

一階のロビーに到着すると、そこにはホテルのスタッフが数人いた。彼らに助けを求めようと近づくと、全員が振り返った。そして、全員が同じ顔をしていた。


「いらっしゃいませ、美穂さん」


全員が同じ声で、同じタイミングで話した。その光景は、悪夢そのものだった。

私はホテルの外に飛び出した。街の灯りが目に入り、少しだけ安心した。しかし、通りを歩く人々を見ると、またしても恐怖に襲われた。

通行人の全員が、同じ顔をしていたのだ。男性も女性も、子供も大人も、みんな畠山広志の兄の顔をしている。


「これは現実じゃない!絶対に現実じゃない!」


私は自分に言い聞かせながら、必死に歩き続けた。しかし、どこに行っても、同じ顔の人々が私を見つめている。

コンビニに入ると、店員も客も同じ顔。タクシーを止めると、運転手も同じ顔。


「お疲れ様でした、美穂さん」


タクシーの運転手が振り返って言った。私は扉を開けて飛び出した。

自分のアパートに辿り着き、部屋に駆け込んだ。鍵をかけて、チェーンもかけた。これでもう安全だ。


しかし、鏡を見ると、そこに映っていたのは私の顔ではなく、畠山広志の兄の顔だった。


「ついに真実と向き合う時が来ましたね」


鏡の中の男性が話しかけてきた。

私は鏡から目を逸らし、ベッドに倒れ込んだ。これは精神的な病気だ。長年の罪悪感とストレスが、ついに私の心を壊してしまったのだ。


翌朝、目を覚ますと、私は病院のベッドの上にいた。白い天井、白い壁、消毒薬の匂い。ここは精神科病棟だった。


「美穂さん、目が覚めましたね」


医師が優しく声をかけてきた。しかし、その顔もまた、畠山広志の兄の顔だった。


「いえ、違います。私は...私は...」


「大丈夫です。ここは安全な場所です。ゆっくり休んでください」


看護師も同じ顔で微笑んでいた。

私は自分の状況を理解した。あのハロウィンパーティーも、街で見た光景も、全て幻覚だったのだ。私は既に精神的な病気を患い、現実と妄想の区別がつかなくなっていた。


「5年前の事件のことを、お話しになりませんか?」


医師が優しく提案した。しかし、私には医師の顔が畠山広志の兄に見え続けている。

この病院にいる限り、私は永遠に畠山広志の兄に囲まれて過ごすことになるのだろう。それが、私が犯した罪に対する罰なのかもしれない。


「畠山さん、ごめんなさい」


私は小さく呟いた。しかし、その言葉は空虚に響くだけだった。

窓の外を見ると、病院の庭でも、同じ顔をした人々が私を見上げて立っていた。

私の世界は、もう元に戻ることはないのだろう。罪悪感が作り出したこの地獄から、抜け出すことはできない。


ハロウィンの仮装パーティーで始まった悪夢は、永遠に続いていくのだ。

そして、私の心の奥で、畠山広志の兄の声が響き続けている。


「真実と向き合いなさい、美穂さん」


私は頷くしかなかった。これが、私の受けるべき罰なのだから。


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