もう一人の自分と対話してみた結果
まさやん@趣味垢
乳酸菌飲料は10度以下で保存
「ふぅ〜……」
ため息混じりにタバコの煙を吐き出すと、煙は螺旋状に渦を描いて、やがて夕闇の中へと消えていく。
この紫煙のように、自分の悩みも、もやとなって消えていけばいいのに。
「ったくやってらんないよ」
課せられたノルマ、終わらない仕事への重圧、上司の厳しい叱責。あらゆるものに拒否反応が起きている。というか上司一択、全ての元凶は上司にあり上司に完結する。
元々ストレスに耐える自信はあったが、そんなものは入社1週間で粉々に打ち砕かれていった。
子供のように癇癪を起こす大人がこうもややこしいものであると認識できたのは、僕の人生において最も必要のない雑学であった。
「仕事辞めるかーー」
夕暮れ時の空の下、僕はコンビニの灰皿の前でタバコを吸いながらそう呟いた。
横にいた頭頂部の寂しいおじさんは怪訝そうに僕を見つめるが、聞こえていたのなら僕を助けてくれ。
おじさんは何度か僕をジロリと見つめ、灰皿にタバコを押しつけ、慌てた様子で店内へと消えていく。疲れ切ったリーマンがそんなに珍しいのだろうか。
やれやれと思いつつ、タバコを咥え火をつけながら、なんとなく店内に目を向ける。
先ほどのおじさんを含め店内にはちらほらと人がいる。コンビニの照明はやけに明るいのだが、店内にいる人はみなどこか暗い表情をしている。
「みんなしんどいよなぁ」
僕だけじゃない。みんな疲弊しているのだ。何と戦っているのか分からないのだが、とにかくみんな戦っている。そりゃみんな表情は暗いはずだ。
そう考えるとだんだん腹が立ってきた。みんな疲弊している世の中がおかしいのである。これはもうミステリーだ。日本全国疲弊時代、疲弊してなんぼの世界なのだ。何度も言う、これはおかしい。ミステリーだ。
人は生まれながらにして幸福になる権利があるはずだ。それなのに、なぜ。なぜみんなこんな顔なのだ。僕もそうだ。おかしい。おかしすぎて頭がフットーしそうだよぉ!
「…………」
そう考えると、僕の悩みなんてちっぽけなものである。日本全国のうちの何千万分の一のちっぽけな悩みであるのだから。
僕は元々野球部でベンチ入りメンバーだったが、剛腕ピッチャーである。好物はゆで卵。報復死球なんてお手のものである。
さっきからけたたましく鳴り続ける携帯も、コンクリートと熱い口づけを交わしたいに違いない。繰り返しになるが僕はピッチャーである。好物はゆで卵。
「そぉおおおおおおおおおおおおおい!」
大きく振りかぶって——憧れのピッチャーは五十嵐亮太だ——第一球を投げた。
その刹那である。
パキッと音が——携帯の音ではない、何か無機質であり、酷く寂しい音が——僕の頭の中に響いた。
「え……?」
手に持っていたはずの携帯は何処かへと消えている。握りしめていた左手は空を握っていた。
「やあ、もう一人のオレ」
と、声が後ろから聞こえた。
「——ッ!!」
僕はその声に反応はできるが、何故か振り向くことができない、そう理解した瞬間身体は石のように固まり、声も出すことができなくなってしまった。
そもそもこれはなんだ。タバコは? 携帯は? なんなら夕闇の空は深く呑まれそうな闇にあたりは包まれていた。此処はどこだ?
僕は今息はしているのだろうか。ただ、息をしてようがしてまいが関係ないことである、それだけは何故か理解したまま——五十嵐亮太の投球フォームで立ち尽くしているはず——。
声の主は喉を鳴らしたような声で笑いながら続ける。
「なんでオレは今五十嵐亮太のフォームで立っているんだ、そう思っているだろう?」
本能的に理解した自分の身体の状態、やはりそれは五十嵐亮太であった。
「ここはオレの闇の部屋。いわばアンタの心の中ってところさ」
声の主は鼻から抜けるような声で続けた。
「アンタはこの世の中への怒り、悲しみ、憎しみ、そんなものを抱きながらタバコを吸っていた。そうだろう?」
僕は五十嵐亮太のまま心の中で深く頷いた。
「まぁ気持ちはわかるさ。アンタはオレだ。アンタの感情はそのままオレの感情へとなるんだから、アンタのことは誰よりも理解できるよ」
じゃあ早くこの体勢を変えてくれ。
「それはできない相談だ、何故ならアンタがコンクリートに打ち込もうとしたその携帯は、アンタの人生を大きく左右する”トリガー”なんだから」
僕は喋りもしないが、大きく頭の中にはてなを思い浮かべた。
どうやら声の主と僕は頭の中で会話ができるようだ。目一杯はてなを送り続けた。
「おっと、眩暈がするようなはてなはやめてくれ、それはオレに効く……。アンタの疑問は尤もだ。じゃあなぜこれが”トリガー”なのか。——携帯のディスプレイを見てみなよ」
と、投球フォームをしたままの僕の目の前に、手に持っていたはずの携帯が現れる。黒く傷だらけの黒い電話——何度逆パカしてやろうかと思った——社用のガラケーである。それは紛れもなく僕の社用携帯だった。
そしてそこに映る文字を見て、僕は思わず息を呑んだ。
「わかるだろう? なぜ”トリガー”であるのか」
僕にはそれが”トリガー”であることが瞬時に理解できた。
卵から還った雛が、一番初めに見たものを親であると認識するかのように、瞬時に理解できるのだ。
「そう、この電話は、アンタが忌み嫌っていた上司ではない、”事務員の綾瀬さん”からの着信だ」
事務員の綾瀬さん。
年齢は五十六歳、趣味は編み物、好きな食べ物はしば漬け、そして究極の——
「幸福おばさんだ、アンタはそれを知っている」
そう、彼女は弊社の唯一の良心だ。我々は尊敬の意を込めてマザーアヤセと呼んでいるのだが、普段彼女からは連絡はこない。だが、彼女からの着信があったものには、必ず”幸福”がやってくると言われている。
あるものは部署異動、あるものは昇給、あるものはリウマチが治った——と数々の逸話があるのだが、それは幻であると思っていた。何故なら僕は入社して十五年、一度も彼女の寵愛(電話)を受けたことがないのだから。
だが、全てを投げ出そうとした僕に、なぜ、いま、このタイミングで?
「マザーはなんでもお見通しなのさ。ほら、見てみなよ、アンタの周りを」
パチンと指を鳴らす声の主。すると真っ暗闇だったあたりは、瞬時に暖かな優しい色を映し出した。
「そう、今日はなんの日かわかるかい?」
そうだった。今日は——
「メリー……クリスマス……!」
「そして、マザーアヤセの五十七歳のバースディ!」
「う、うわぁああああああああ!!」
頭の中に滝のように情報が流れ込む、堰き止めらていた川の激流が耐えきれず溢れ出すかのように、僕の頭の中にとめどなく流れ込む——!
思い出しだ、マザーと僕は愛し合っていた。だが疲弊した僕に、マザーの寵愛はあまりにも眩しく、重く、切なく悲しいものだったのだ。
何故忘れてしまったのだろうか。何故思い出さないようにしていたのだろうか。
「マザー!! マザー!!」
五十嵐亮太から解放された僕は走り出した、マザーアヤセ、マザーアヤセ、マザーの元へ還りたい、その一心で走り出す。
「はははははは! 走れ走れ、大地を駆け抜けるメロスのようにな!」
声の主——もう一人の僕——は心底愉快そうに笑っていた。だが僕はもう振り返らない。マザーのもとへ、マザーのもとへ、マザーのもとへ——。
「———ぃ、っ——んだ——」
突然世界が揺れ始める。
マザーは、マザーはどこへ。
「——おい、大丈夫か! しっかりするんだ!」
ハッとした僕の目の前には、先ほどのおじさんがいた。
店内に消えていったはずなの。なぜ?
「あんた大丈夫かよ。急に五十嵐亮太の真似し始めたかと思ったら、そのままずっと動かないままだったんだぞ」
「え、え?」
「まぁ目ぇ覚めてくれたんならいいけどよ……ほい、アンタこれ好きなんだろ?」
と、おじさんは乳酸菌飲料を僕に手渡す。
なぜわかったんだ?
「五十嵐亮太の真似するくらいだから、そりゃこれは好きだわな。まぁあんまり無理しちゃいけねぇよ、さっきもタバコ吸いながらぶつぶつ呟いてたしな」
そう言っておじさんは、夕暮れの人の雑踏の中に消えていった。
どうやら僕は少しだけ夢を見ていたようだ。それも酷く辛い夢だ。
マザーアヤセなんて、そんなものは存在しない。僕が作り出した虚像に過ぎない。何を隠そう僕は熟女好きであるのだから、心の防衛のために理想となるマザーを創り出したのだろう。
「……やっぱり仕事やめよう」
奇行に妄想、遠のいた意識、そしてもう一人の僕。
心のSOSである。見るからに危ない状態だったのだと推測もできる。
おじさんはそんな僕の様子を見たからこそ、逃げるように店内に消えたのだろう。
でも、助けてくれたのもおじさんだ。一度怪しい人間だと思い逃げたのにも関わらずだ。
「——おじさん」
もらった乳酸菌飲料は、ほんのり暖かく感じた——春の訪れを感じるような暖かさだ——。
もう一人の自分と対話してみた結果 まさやん@趣味垢 @masamariodayo
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