第一章 三貴子の矛盾

 古事記において、イザナギは黄泉の国から帰還した後、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原で禊を行う。その際、左目を洗うとアマテラスが、右目を洗うとツクヨミが、鼻を洗うとスサノオが生まれた。

 イザナギは喜び、三柱の神にそれぞれの領域を与える。


  アマテラスには高天原を治めよ

  ツクヨミには夜之食国を治めよ

  スサノオには海原を治めよ


 一見、明快な役割分担に見える。太陽の女神が天上界を、月の男神が夜の国を、そして末子が海を。しかし、ここに最初の矛盾がある。


■海には神がいる

 スサノオに「海原」が与えられる以前に、海にはすでに多くの神がいた。

 まず、神産みの段階で、イザナギとイザナミは大綿津見神を生んでいる。これは海そのものを司る主神である。

 さらに、イザナギが黄泉から帰って禊をした際には、海の底・中・表を司る綿津見三神が生まれている。加えて、同じ禊から住吉三神も誕生している。彼らは航海の守護神として、後の時代まで篤く信仰された。

 つまり、スサノオが「海原を治めよ」と命じられた時点で、海にはすでに——


  大綿津見神(海の主神)

  綿津見三神(海の底・中・表)

  住吉三神(航海の神)


 ——という錚々たる神々がひしめいていたのである。

 スサノオに与えられた「海原」は、空席ではなかった。

 さらに言えば、後にアマテラスとスサノオの誓約から宗像三女神が生まれ、彼女たちも海上交通の守護神となる。海の神々はますます増えていくのに、スサノオが海を治めた形跡はどこにもない。


■泣きわめく神


 そして、スサノオはその役割を拒否する。

 古事記によれば、スサノオは海原を治めず、ただ泣きわめいた。その泣き声は青山を枯らし、河海を干上がらせるほどだったという。イザナギが理由を問うと、スサノオは答えた。


「母のいる根の国に行きたいのです」


 イザナギは激怒し、スサノオを追放する。そしてスサノオは、アマテラスに別れを告げるため高天原に上り、その後は出雲に降り、やがて根の国へと去っていく。

 スサノオは海原を一日たりとも治めていない。

 ここで注目すべきは「根の国」である。根の国とは何か。それは黄泉の国であり、死者の国であり、地下の闇の世界である。

 そして「夜之食国」もまた、夜の世界、闇の領域である。

 根の国と夜之食国は、実質的に同じ領域を指しているのではないか。

 つまり、ツクヨミに与えられた「夜之食国」を、スサノオが実際に統治している。


■二神構造の現実


 記紀神話が語る「三貴子」は、名目上は三神の並立である。しかし実際の神話を追っていくと、見えてくるのは二神構造である。

 アマテラスとスサノオは、幾度となく対峙する。誓約、天岩戸隠れ、追放——日本神話の中核をなすドラマは、すべてこの二神の相克である。

 一方、ツクヨミはどうか。

 誕生し、夜之食国を与えられ——そして消える。

 日本書紀の一書には、ツクヨミが保食神を殺す話がある。しかしこの神話は、古事記ではスサノオがオオゲツヒメを殺す話として語られている。ツクヨミの唯一の活躍は、スサノオの神話の異本なのである。

 実質的な日本神話の構造は——


  アマテラス=天・昼・生・現世

  スサノオ=地下・夜・死・根の国


 ——という対称構造である。ツクヨミの入る余地は、どこにもない。

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