第2章 王立士官学校④
「これより『図上演習』を行う。状況開始」
ヘルマンの厳かな宣言が、“人の死なない開戦”を告げた。志塾生たちは巨大な卓上に広げられた地図を囲み、二手に分かれて向かい合っている。一方はヴィルヘルム、シャルロッテ、ヨハンを中心とした赤軍。もう一方はジークハルト、エリック、カールを中心とした白軍であった。
図上には、3500名相当の戦力を示す赤駒と、2000名相当の白駒がそれぞれ両端に配置され、保有戦力が視覚化されていた。志塾生たちは軍団指揮官としてこれらの駒を運用し、卓上で戦闘を展開していく。これが図上演習であり、士官学校のみならず実戦の場でも、情報整理・作戦立案・軍議の際に用いられる手法兼訓練である。しかし、シュトラウセン志塾ではそこに独自のアレンジが加えられていた。
「「偵察隊を出せ」」
両軍はほぼ同時に情報収集の開始を命じた。卓上に地図は広げられているが、相手側の駒は見えない。実戦同様、敵の戦力・兵科・配置を完全には把握できない状況を再現しているのだ。情報の収集・整理・分析を経なければ戦力を効果的に配置できず、有効な作戦も立てられない。通常の図上演習では彼我の配置が一目で分かるが、それでは現実に即していないとヘルマンは断じ、あえて不便な状況を課していた。
偵察・情報収集が一段落すると、両軍は作戦会議へと移行する。
「赤軍の戦力は3000から3500。歩兵中心だが精鋭練度の砲兵隊が配備されている。おそらくシャルロッテの部隊だな。こちらの1.5倍以上とは、厄介だ」
ジークハルトは持ち寄られた情報を分析し、即座に戦況の不利を把握した。
「なら、攻勢に出るべきだろ。包囲される前に敵戦力を削って数的不利を覆すんだ」
カールは即座に攻勢を主張する。功名心に駆られる猪武者気質ではあるが、状況判断としては間違っていない。白軍の戦力は歩兵1500、騎兵500と機動性に優れている一方で、火力となる砲兵隊が不足している。そのため守勢に回るのは得策ではないと踏んだのだ。荒々しいが馬鹿ではないのである。
「いや、当初は防勢に回るべきだ」
「正気か⁉砲兵隊相手に防御など愚策だ!」
ジークハルトは攻勢論を退けた。しかしそれは臆病ゆえではない。
「我々がいるのは小高い山岳地域だ。先に高所を確保すれば防御で有利が取れる。懸念の砲兵隊も機動力は低い。進軍速度は必然的に遅れるし、歩兵と砲兵を分けて進ませるような戦力分散をヴィルヘルムがするとは思えん。赤軍は大部隊でまとまって進軍するはずだ。なら、こちらは十分に時間を稼げる」
「だが、守りに徹していては戦果が出せん」
「その通りだ。それゆえ“守勢”ではなく“防勢”だ」
ジークハルトがにやりと笑うと、カールも意図を読み取りほくそ笑んだ。
「なるほど。俺の活躍の場を作ってくれるわけだな」
「まあ、そんなところだ。――エリック、方針はこれでどうだ?」
白軍司令官のエリックは二人の意見を聞き、深く頷いた。
「よし、その方針で行こう。防衛陣地を築ける地点を選び、そこで敵を迎え撃とう。ジークハルトとカールは、作戦行動に移れるよう準備を」
エリックの的確な指示に、白軍の幕僚たちは素直に従う。彼の人望があってこその統率だった。大軍の指揮を不得手とするジークハルトやカールには務まらない役目であり、彼が司令官として仰がれている理由でもある。
一方、テーブルの対岸でも作戦会議が進んでいた。
「白軍の戦力は2000ほどか。こちらより少ないが、ジークハルトのことだ。偵察に察知される前に戦力を分散させ、誤情報を掴ませている可能性もある」
赤軍司令官はヴィルヘルム。奇襲や強襲戦法を得意とするジークハルトを警戒していた。そこへ副官ヨハンが控えめに口を開く。
「どうでしょう。演習開始直後に戦力を分散させるでしょうか。白軍もこちらの戦力を知ったばかりです。作戦が固まるまでは軽挙は避けるのでは」
ヨハンは特段深い分析をしたわけではない。凡才を自認する彼は、自分が思いつく程度のことなら、天才であるヴィルヘルムは当然考えていると理解している。だが、天才は思考を巡らせすぎて常識から逸れる場合もある。だからこそ彼は“誰もが見落としがちな常識”を提示することを己の役目としていた。
ヴィルヘルムもその言葉に我に返ったのか、わずかに苦笑した。
「まったく、ひねくれ者と一緒にいると思考まで毒されるな」
ジークハルトへの軽口に、赤軍の幕僚たちが笑い声をあげる。
「では、こちらは王道で行こう。大軍に策なし、だ。砲兵隊に進軍速度を合わせ、全軍前進」
先に駒を動かし始めたのは赤軍であった。果断と勇気こそ、ヴィルヘルムが指揮官として持つ最も優れた資質である。
「さながら、私たちは“騎士王軍”ってところね」
砲兵隊を率いるシャルロッテは、稀代の軍事的天才シャルル騎士王の戦法を参考にしていた。シャルル騎士王は陸戦でほぼ無敗を誇り、炎が燃え広がるような迅速かつ強烈な攻略によって、大陸の35%を支配下に置いた。その秘訣は単純な進軍速度ではなく、当時黎明期であった大砲を大胆に動員し、歩兵と共に展開させた『歩砲協同戦術』にあった。これはローゼンベルク王国軍の用兵の基本となり、シャルロッテの生家アイゼンドルフ家のお家芸でもあった。
「今度こそジークを、けちょんけちょんにしてやるわよ」
ジークハルトは火力を象徴する砲兵隊を最優先で強襲することが多い。必然、それを預かるシャルロッテと戦場で競り合うことも多く、二人は戦場のライバルであった。しかしその攻防は、軍隊を用いた兄妹喧嘩のようでもあり、志塾ではすっかりお馴染みの光景となっていた。
かくして両軍は、地図上の戦場で接敵した。白軍は小高い山に防衛陣地を築き、防御態勢を整えている。対する赤軍は、数と火力の優位を生かし、その陣地を半ば包囲するように布陣した。
「防御陣か。数的不利では、さすがの“突撃のカール”も守勢に回らざるを得なかったか」
「ジークの得意なやり方よ。私たちを陣地にくぎ付けにしておいて、背後から襲うつもりなんでしょうね」
「では砲兵隊の護衛に歩兵を割きましょう。幸い、我々の主火力は砲兵隊です。歩兵の投入は陣地攻略の最終段階で構いません」
赤軍は、らしくない白軍の防御的な態勢に違和感を覚えていた。だが、警戒心ばかりを優先し時間を浪費すれば勝機は遠のく。ヴィルヘルムは砲兵隊による火力投射を命じた。
「赤軍砲兵隊、発砲。砲兵位置露出。砲撃判定を開始する」
統制官ヘルマンが複数のサイコロを振り、出目を確認する。
「赤軍の砲撃命中。白軍陣地に軽度の損害」
攻撃の成否は、距離・兵器性能・兵数・練度などの要素を加味したうえで、最終的にはサイコロ――すなわち運で決まる。通常の図上演習では攻撃があると必ず命中し大ダメージが発生するが、ヘルマンはそれを現実的でないと断じていた。確実に当たる砲などなく、一撃で壊滅する部隊も存在しない。努力や計算で確率を動かせても、「当たる時は当たり、当たらぬ時は当たらぬ」。それが彼の持論だった。
「相当な陣地ね。時間と手間をかけて作ったってわかるわ」
シャルロッテはなかなか好ましいサイコロの出目が出ないことに歯がゆさを覚えつつ、砲撃を続けた。戦況が動かぬ中、ヴィルヘルムと副官ヨハンは状況分析を進める。
「ジークハルトはまだ動かないか」
「司令官。もしかすると白軍は全戦力を陣地に集結させているのでは?」
「ほう……根拠は?」
「白軍は防御陣地に籠ってこちらの砲弾を浪費させ、火力が尽きたところで有利な陣地からの歩兵戦に持ち込み、我々に出血を強いるつもりではないかと」
ヨハンの分析には現実性があった。赤軍の強みは砲兵火力だが、強固な防御陣地によって効果は落ち、白軍は想定より損害を受けていない。砲弾が尽きれば、赤軍は歩兵同士の戦いへ移らざるを得ない。歩兵戦で攻撃側が防御側を破るには3倍、突撃なら9倍の戦力が必要となる。それは防御側の理にかなった戦法だった。
「ではリッテンベルクの意見を採用し、砲撃支援のあるうちに歩兵突撃をかけるか」
ヴィルヘルムはなおジークハルトを警戒していたが、策はある。
「アイゼンドルフ、砲撃継続。これより砲撃支援下で歩兵突撃を敢行する」
赤軍は突撃準備に入った――その時である。
「白軍別動隊、出現。赤軍砲兵隊を強襲。判定……成功。野戦砲二門破壊」
側面からの奇襲。歩兵を護衛から外した隙を突かれ、砲兵隊に損害発生。ヘルマンの無慈悲な判定が赤軍の鼓膜を打つ。
「やはりジークハルトの強襲部隊か。相変わらず鼻が利く」
舌打ちしたヴィルヘルムは、胸中の秘策を明かした。
「砲兵隊は全砲を破棄、撤退。歩兵は牽制射撃を行いながら後退。準備ができ次第、反転して戦場を離脱する」
脱兎のごとき退却命令。だが幕僚たちはジークハルトの強襲の恐ろしさを理解しており、即座に従った。だが、その瞬間――
「白軍陣地より騎兵部隊出現。赤軍後方に突撃。判定……一部成功。赤軍歩兵1個中隊壊滅。白軍騎兵に1割損害」
「ハハハ! 反転攻勢だ! 蹂躙してやる!」
「なるほど、防勢で優位を得て、機を見て攻勢に転ずる。勝利の鉄則だな」
カール率いる騎兵隊が白軍陣地から飛び出し、赤軍後背を強襲。背後にカール、側面にジークハルト。赤軍の敗北は決したかに見えた。
次々と損害を受ける赤軍。だが、ヴィルヘルムは冷静だった。
「今は逃げることに集中しろ。戦局は必ず転回する」
その言葉が現実となるまで、そう時間はかからなかった。
「ん? カール、突撃を止めろ。戦局が変わる」
「何を言うか! まだまだ敵を討ち取らないとなぁ!!」
ジークハルトは追撃を停止したが、カールは耳を貸さず突撃を続けた。だが――
「赤軍歩兵隊、一斉射撃。判定……白軍騎兵隊に甚大な被害。指揮官ミュラー死亡」
突然の反撃。カールは状況を理解する暇もなく“戦死”判定を受けた。実際には死んでいないが、以降の演習参加は不能となる。閉ざされた口の奥で歯を噛みしめ、ようやく自身の敗因を理解した。
白軍は側面・背後から同時攻撃を仕掛けたが、赤軍が後退を続けたことで、ルートが収束。別方向からの攻撃を行っていたジークハルトとカールの部隊が“合流した形”となり、赤軍は半包囲を脱出。そこに待ち受けていたのは、未だ数で勝る赤軍歩兵の一斉射撃だった。
カール騎兵隊の壊滅と同時に白軍が直面したのは、陣地の外、平地での歩兵戦。正面から赤軍を打ち破るには、もはや戦力が足りなかった。戦局が転回した瞬間である。
状況の変化を読み取ったジークハルトは、これ以上の追撃をせず撤収した。
果断とはまさにこのことだ。
受け入れ難い状況を直視しつつ、決して機を逃さぬ嗅覚と信念で即断するヴィルヘルム。
好機を掴めば大胆に行動し、しかし惰性に流されず、状況の変化を敏感に察知して退くジークハルト。
それが天性か後天的な研鑽によるものかは判断が難しい。だが確かなのは、それらを統合したものが“能力”であり、それを現実に活かすことが“実力”であるということだ。二人は間違いなく実力者の気質を備えていた。
「状況終了。戦果確認を行う」
統制官ヘルマンの宣言に、志塾生たちはそれぞれ胸中で何かを噛みしめていた。
シュトラウセン志塾では、このような図上演習を頻繁に実施し、思考訓練と状況判断力の涵養、そして疑似体験による“経験値”の蓄積を目指していた。
士官学校での在籍期間を通じ、この図上演習で一度も“戦死判定”を受けなかった者は一人もいない。程度の差こそあれ、誰もが等しく“死”を経験している。しかしヘルマンは、そのことを決して悲観しなかった。なぜなら、ここではいくら死んでも生き返ることができるからである。実戦では一度きりで終わってしまう経験を、なぜ死んだのか、なぜ敗北したのかと冷静に分析し、次へ活かすことができる――それがこの演習の最大の価値であった。
そして、幸運にも――いや、志塾に集った者たちだからこそ――誰一人として「死んでも生き返るから大丈夫」と安易に納得する者はいなかった。
ある者は自らの戦死を血が滲むほど悔しがり、
ある者は自身の弱点が戦況に与えた影響を痛感し、
ある者は無知や未熟を嘆いて、知識と判断力の強化のため睡眠時間を削り、
またある者は成功の裏にあった危うさを省みて猛省した。
彼らは紙の上とはいえ、多くの日々を“戦場”で過ごした。その経験は、紛れもなく戦友と呼べる絆を生み出した。こここそが彼らの絆を育んだ、真の教導の場だったのではないか――ヴィルヘルムは、そのような場をこそ求めていたのである。
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