第1章 狼と出会った日①
大陸歴1266年、ルガルディア大陸中央部よりやや東に位置するローゼンベルク王国とカルノヴァ=ストリェッツ共和国との国境線に、ヴィルヘルム・フォン・ローゼンベルクは父王の名代として派遣された。成人を迎えたばかりの、若干15歳である。
「殿下、お体に触れますので、どうぞ天幕まで……」
「あれが……『ノッセル回廊』か」
まだ少年の風貌を残す王子ヴィルヘルムは、護衛の声も耳に入れず、両国の国境線と大陸公路が交差するノッセル回廊を一目の下に収めていた。
「奇妙な話だ。この谷を巡って、もう14年も戦争が続いているのだからな」
南は険しい山岳、北は湿地に覆われた小高い丘陵。その間には古代人が築いた道があり、多くの人と物資と富が行き交った。名を『ノッセル回廊』。ここを巡る戦争は、ヴィルヘルムが生まれた翌年、大陸歴1252年に父王フリードリヒ2世が開戦したことに始まる。決着のつかぬまま今日に至り、戦争の期間とほぼ変わらぬ年齢の王子がその父王の名代としてここに立つ。少年の呟きには、うんざりとした皮肉と哀愁が混じっていた。
「では、司令部に行こう。向こうでは歓迎の支度をしているだろうしな」
「殿下、よくお越しくださいました。いやはや、立派になられて」
ヴィルヘルムを迎えたのは、東部方面軍司令官エーリヒ・フォン・ブレンデル中将。肩に長いマントを翻し、光沢ある勲章と刺繍入りの軍服で身を飾っていた。金髪は固められ、整った顔立ちに不自然な笑顔を浮かべる。立ち振る舞いにはどこかぎこちなさがあり、戦場というより晩餐会に似つかわしい、典型的な貴族司令官の風情だった。
ヴィルヘルムが通された前線司令部は、戦地にあるとは思えない華やかさだった。天幕の内部には、王族の来訪に備えたであろう豪奢な調度品が並び、絨毯は泥一つつかず敷かれている。金縁の燭台が立ち並び、銀器が整然と並んだ食卓には、この日のために取り寄せた料理が所狭しと並んでいた。山岳の寒風や戦塵の匂いは、まるで遠い世界のもののように感じられた。
「…なるほど、これが前線司令部か」
ヴィルヘルムは小さく呟く。皮肉混じりの言葉だったが、声は穏やかだった。彼の目は食卓や絨毯、そして勲章で飾られた司令官の姿を冷静に観察している。
「殿下、どうぞお座りください。今宵は少しばかり、戦場の空気を忘れていただこうと」
ブレンデル中将は得意げに胸を張り、手をひらひらと振った。
「歓迎の席を用意していただき恐縮だが、できれば今は前線の戦況を聞きたい」
ヴィルヘルムの申し出に、ブレンデルは取り繕う笑顔を維持するのにわずかに苦労した。物分かりの悪い子どもに諭すように、穏やかに、しかし面倒そうに言葉を紡ぐ。
「殿下、戦況とおっしゃいましても、兄君ルートヴィヒ殿下がいらっしゃった時から変わっておりません」
「変わっていない?兄上が来られたのは3年前だろう。そこから何も変わっていないと?」
ヴィルヘルムの声色に、ブレンデルは慌てる。任務に緩慢ではないかと責められるのを恐れ、耳障りのよい言葉を並べ立てた。
「いやいや、そのようなことは……ルートヴィヒ殿下が命じられた大攻勢が共和国の雑兵どもに打撃を与え、奴らはみっともなく逃げ帰り、穴に籠っておるのです」
ヴィルヘルムは内心で苦笑した。
――あの無能で無気力の兄が大攻勢だと?笑わせる。どうせ、戦術用語を知っていただけで、内容は伴っていないのだろう。
しかし彼の関心は別にあった。
「穴?」
「そうです、殿下! 共和国軍どもは性懲りもなく、街道や山肌に穴を掘って、一日中潜んでおるのです。まったく、戦う気があるのか……ないのか」
「それは、敵が塹壕や要塞を築いているということではないか?」
ヴィルヘルムの指摘に、後ろに控える幕僚たちの眉がぴくりと上がった。半分以下の年齢の少年が、断片的な情報から専門的な軍事用語を的確に用いたことに驚いているのだ。
「何か対抗策は講じているのか?」
続く問いに、ブレンデルは即答できず、後ろの幕僚に「おい、どうなっているのだ!」と丸投げした。幕僚は慌てながらも答える。
「は、はい! 山岳猟兵を動員して、敵の行動を妨害する作戦を継続中です!」
「山岳猟兵?」
「はい、王国東部地域の猟師たちを徴兵して編成した部隊でして…」
「意味は分かっている。だが、彼らは具体的にどう妨害している? 戦果は?」
「え……そ、それについては……ただいま調査中でして……」
「では、山岳猟兵隊の所まで案内してくれ。現場で事情を聴こう」
前線司令部では答えが得られないと悟ったヴィルヘルムは、宴席に一度もつかず、王都から連れてきた護衛を引き連れてさっさと天幕を後にした。
「ふう……」
彼が去ったあと、ブレンデルはため息をついた。
「今度の王族は幾分賢いようだ」
しかしすぐに付け加える。
「やる気があるのも考えものだ」
案内を任せた司令部の幕僚も、部隊の所在を正確に把握しているわけではなかった。行き先は分からないが必死に案内する素振りを見せた末、ヴィルヘルムは彼をお払い箱にした。しかし、実際に前線基地に赴いた彼らは、それが単なる幕僚の怠慢ではないことをすぐに理解した。
「いやに多いな……」
「ここは前線基地ですから、殿下。私どもから離れないように」
直属の護衛、グスタフ・フォン・レンツは周囲に警戒心と威圧感を漂わせながら、ヴィルヘルムの盾となるような位置取りで共に歩く。
基地は先ほどの司令部とは様相が打って変わっていた。砂ぼこりが舞い、綺麗な布地など一切ない。軍服に身を包み、長銃を肩に抱えた兵士たちの顔色は総じて悪く、ヴィルヘルム一行を睨む視線は禍々しく、人間的な理性の気配は薄い。空気には鉄の匂いが混じり、“野戦病院”と掲げられた天幕の前には負傷兵の列が伸びていた。混沌とはこの光景のためにある言葉だった。
「前線に変化はないだと?もしその言葉に嘘がないのなら、この地獄を何年も続けているというのか……」
グスタフは慎重に進言した。「殿下、ここは危険です。司令部に戻りましょう」
だがヴィルヘルムは、司令部に戻ったとしても、何もできないお飾りの総大将に過ぎない未来しか思い描けなかった。素直に退くのは癪と感じたヴィルヘルムはせめて基地の欠陥を見つけて小言を言ってやろうと、目を巡らせ、一つの違和感に気づく。
「おい、そこの上等兵」
呼び止められた兵士はびくっと肩を跳ね、ぎこちない動きで振り返った。
「わ、私でしょうか……?」
「そうだ。お前が手につけている手袋、共和国の刻印がされているのはなぜだ?」
兵士は慌てて手で隠そうとしたが、その色や素材は明らかにローゼンベルク王国軍の支給品ではなく、徴兵された上等兵が用意できる代物でもない。ヴィルヘルムはすぐに、上等兵が前線で共和国軍から奪ったものだと察した。しかし、兵士の答えは予想外だった。
「これは……貰ったんです」
「貰った?敵から奪ったのではなく?」
「はい……猟兵の連中から……寒いだろって……」
部隊の名札も案内板もない雑多な空間で、“猟兵”という単語に出会った幸運をヴィルヘルムは無駄にはしなかった。
「では、その猟兵隊のところまで案内しろ」
固まった兵士を歩かせる。グスタフは怪訝そうに睨むが、司令部の天幕しか知らない幕僚よりはるかに役立つ案内役だった。
「なあ、あんたら憲兵だろ?見逃してくれないか……チクったことがバレたら……」
確かにヴィルヘルムたちの姿は、前線には不釣り合いな綺麗な軍服に身を包み、若手エリート士官のように見える。兵士たちの視線が異様なのも当然だった。
「我々は憲兵じゃない。山岳猟兵隊に用があって来ただけだ」
「俺たちに、何の用だって?」
突然の声に案内役の兵士は足を止め、その表情が目的地到着を告げた。兵士は逃げるように去り、グスタフが追おうとしたがヴィルヘルムは制止した。目的は案内役ではなく、声の主にあった。
「ヴィルヘルム・フォン・ローゼンベルクだ。お前が山岳猟兵隊の隊員か?」
声の主の風貌にヴィルヘルムは息を呑んだ。若い──いや、幼ささえ感じる少年。銀灰色の髪、引き締まった無駄のない小柄な体。だが何よりも目が野生動物のようにぎらついていた。真っすぐに見つめられるだけで本能的な恐怖を感じさせる、肉食獣の目だった。
無礼にも目を逸らさず、威圧感すら帯びた視線を向ける彼をヴィルヘルムは嫌いではなかった。
「いい目をしている。名前は何という?」
「ジークハルト・フォルラート」
彼は後にヴィルヘルムの軍事的右腕となり、生涯で最も信頼する友となる。この出会いは、味方には“帝国への偉大なる一歩”と讃えられ、敵には“野心と手段の忌まわしき結婚”と恐れられた、まさに歴史的邂逅であった。
大陸歴1266年3月8日
ローゼンベルク王国第二王子ヴィルヘルム・フォン・ローゼンベルクは、“灰色狼”と出会った。
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