缶詰のパイナップルの方がいい。
ayaya
缶詰のパイナップルの方がいい。
「煮物が余ってね、ほら、私のうちでは年末に旨煮を作るんだけど、その前に試作品を作るのよ。したっけそれが余ったから、そうだ、水上さんところに持って行ってやろうかと思って。で、ここに来たわけ。
ところがインターフォンを押しても返事がないでしょ? でもいないってわけじゃないの、玄関のとこの窓に灯りが見えたし、テレビの音だってほんの少しだけど漏れてきたからね。水上さん、昔、看護婦をしていたっていうくらい、ああ、今は看護師って言うんだっけ? とにかくしっかりしている方だから点けっぱなしで外に出るなんてことはしやしないわ。私たちお金のないものはお湯を出すのにだって一定の目算と覚悟が必要なんですから。
とにかくね、家の中にいるのに出て来ないってことは、これは何かあったなって思って、心配になったから警察に連絡しようかと思ったの。
ちょうどその時にさ、隣の部屋の本条さんが部屋から出てきて、だからあんたちょっとベランダから水上さんの部屋の中見てちょうだいって頼んだわけ」
森本さんが続きを話すように本条さんを見た。本条さんは四十手前の男性で、筋骨隆々といった見た目である。彼もまた僕の信者だった。
「と言うわけで、ベランダから水上さんの部屋を覗いたわけです」
と本条さんは言った。これから中央区の建設現場へ仕事へ行く予定だったそうだが、こんなことになったので出勤を見送ってくれたのだ。
「覗いたって行っても、うちのベランダと水上さんのベランダは繋がってはいませんからね、二メートルとまではいかなくても、まあそれくらいの幅があります。だから仕事道具をちょっくら用いまして移動したんですよ。
俺としてはそこまでする必要もないんじゃないかと思ったんですけど、なにせ、森本さんがあんまり深刻そうな顔をするから」
「必然的な帰結よ。さっきも話したでしょ、明らかにおかしいもの。おかしいということは何かしらの原因があるのよ。その原因をいくつか想像した結果、とるべき行動は絞られるものよ。料理と一緒」
森本さんは修繕の涙ぐましい痕跡の目立つコートを揺すった。彼女はいついかなる時でもこのコートに内側に身体を隠していた。本条さんは肩をすくめる。非常に巨大な肩であるので、すくめた際の迫力もひとしおだった。
「いずれにしても、森本さんの判断は正しかったわけですね。水上さんの部屋を見たら、彼女、部屋の真ん中でうつ伏せに倒れているんです。声をかけてみましたが、あんまり期待していませんでした。返事が出来るようならあんな体勢でじっとなんかしていられませんものね。あいにく鍵がかかっていたから、まあ、割らせてもらって中に入ったんです。それで水上さんがすでに息をしていないことを確認したと。それから森本さんを呼びに行ったんです」
「ああ、本当にいたましいわ。良い人ほど早く死ぬっていうけど本当ね」
森本さんの目に涙が滲んだ。
「良い人ほど早く死ぬというよりは、悪知恵の働く奴が姑息に生き残るっていうほうが正しいんじゃないの?」
と本条さんは言ったが、その内容とは裏腹に声の調子は涙ぐむ森本さんに寄り添おうとしているように柔らかかった。
「だからあなた生きているのね」
と森本さんは言った。本条さんは大迫力で肩をすくめた。
「教祖様を呼んだのは、ほら、葬儀とかそういうことを質問するためなんですよ」
「葬儀?」
と僕は首を傾げた。
「信仰する宗教によって葬儀の様式も様々でしょう? 水上さんも教祖様の信者でしたから、どうすればいいか聞こうと思って」
「特にそういうのはありませんね」
と僕は素直に答えた。
「考えてなかったんでしょう?」
と本条さんは笑った。
「そうですね」
と僕は頷いた。それから部屋の隅に立っている子どもに目を向けた。五歳になる武喜くんだ。水上さんの一人息子、元夫は仕事で出会った女性と蒸発することに成功したので、水上さんと武喜くんは二人暮らしだった。
「そう、武喜くんのことも相談しようと思って」
と森本さんは言った。彼女の語調は酷く淡泊であったがゆえに、その向こう側を逆説的に強調するように響いた。
「相談と言うと?」
「水上さん、身寄りがないでしょう? ご両親を早くに失くしているし、元旦那の方はあてに出来ないし、武喜くん、これからどうすればいいんでしょう?」
「警察は何も言ってこなかったんですか? 児童相談所に連絡しろとか」
「そりゃそういうのはあったけど、でもそれじゃああんまりじゃない。あんまりですよ」
森本さんは声のボリュームを絞った。
「だって武喜くんを家族のように思っている人間は山ほどいるんですからね。武喜くんにしたところで、お母さんを失って、見ず知らずの場所にぽんと放り出されるなんて、あんまりだと思いません? 子ども一人の面倒を身内で見れなくて、何が教祖ですか」
と森本さんは批難するような目を僕に向けた。
僕は改めて武喜くんを見た。
母親によく似た大きな目をしている。髪の毛も服装も乱れたところがなく、大切に育てられたのだろうといった印象を受ける。
実際彼は信者のみんなにも愛されていた。お菓子を貰ったり、母親が仕事の時に手の空いた者が遊びに連れていったことも珍しくない。表情が豊かで愛くるしいところがあったから、構うほうがかえって癒されるのだという。
しかし今の彼の姿からはそのような印象は少しも感じ取ることができなかった。じっと俯いて微動だにしない。表情からはありとあらゆる感情が欠落しているようだった。
「ともかく」と本条さんが言った。「俺はひとまず職場に行きますよ。何かありましたら連絡してください。本部に電話をかけて下されば俺のとこまで繋げてくれますから」
「わかりました。お忙しいのに色々とありがとうございます」
と僕は頭を下げた。
水上さんの部屋は狭かった。まだ小さな子どもとは言え、親子二人暮らしではずいぶん窮屈だったろうと思う。キッチンの脇にはパイナップルの缶詰が肩を寄せ合うようにして並んでいた。
それからの一日、二日は非常に大忙しだった。僕は頭の中にある信者リストから、弁護士の久郷さんと葬儀屋の三下さんに連絡をとった。水上さんの身辺整理の手続きと葬儀を並行して行いながら、その日の夜は武喜くんを僕の家に連れて帰った。
僕の家と行っても、僕は居候の身である。信者の一人に大きな家を持て余していた西田さんという人がいて、その人の家にお邪魔させてもらっているのだ。
水上さんのアパートから西田さんの家までは歩いて三十分ほどの距離があった。日中に降った雪はほとんどがすでに除雪されていたが、それでもところによって酷く歩きにくかった。雪の下には凍結した地面があって、気を抜くと滑りそうになる。武喜くんは僕の手に掴まって歩いた。とは言え彼が僕に掴まっているのか、僕が彼に掴まっているのか今一つ判然としないような気分だった。
ここに至るまでに僕は武喜くん色々と質問をしてみた。だがそれも酷な話だったかもしれない。唯一の肉親を突然亡くしたのだ、受け入れるのには時間がいくらあっても十分というものではないだろう。結局彼は一言も口を利かなかった。母親と一緒にありとあらゆる表情も失くしてしまったかのように見えた。
西田さんは武喜くんを連れ帰った僕に意味ありげな一瞥を向けた。おそらく連絡網から水上さんの急逝は耳に入っているのだろう。
「おかりなさい」
と西田さんは言った。いつも通り、パーカーにジーンズ姿だ。四十歳そこそこのはずだが、ずいぶん若く見えた。一緒に歩いていると姉弟と間違われることもある。ちなみに僕は二十代半ばに足を踏み入れた場所に立っていた。
「ただいま」
と僕は答えた。武喜くんは玄関でじっと立ち尽くしていた。僕は彼を上り框に座らせて靴を脱がせた。彼はされるがままになっていた。
「夜ご飯、できていますよ」
と西田さんは言った。
「ありがとうございます。でもまずはお風呂にしようかな。少しのんびりしたい。武喜くんはどうする?」
武喜くんは玄関ホールに立ったまま何も答えなかった。無視しているというよりは、何も聞こえていないのではないかという感じだった。
僕は西田さんに目を向けた。途方に暮れていたのだ。いったいどうすればいいのかさっぱり分からなかった。
西田さんは小さく溜め息をついて、武喜くんの手を優しく引いていった。不甲斐ないことこの上ないし、苦労を西田さんに押し付けてしまう形になってしまったが、事実として少し肩の荷が下りたような思いがした。
服を脱いで湯につかり、ぼんやりと天井の染みを見つめていた。そうしていれば何か大事なことが分かるような気がした。だが僕には大事なこととはいったい何なのかすら分からないのだった。
風呂を上がると武喜くんは寝間着に着替えて、夕食を食べていた。食欲が要請するから食事をしているというわけではなく、西田さんに言われるがままといった印象だ。自分が今何をしているのかさえ彼には分かっていないようだった。
形ばかりの食事を終えて、武喜くんは寝室へ手を引かれていった。しばらく一人にしてあげようということなのかもしれない。実際、今の今まで周囲に大人たちがわらわらとして一人になる機会を与えられていなかったのだ。
しばらくして居間に西田さんが戻ってきた。
「ビール飲みます?」
と彼女は言った。
「西田さんは?」
「私も少し頂きます」
西田さんはロング缶の黒ラベルを一つとグラスを二つ持ってきて、半分ずつ注いだ。
「ありがとうございます。武喜くんの様子は?」
「ひとまず横になっています。眠れるかは分かりませんけど」
と西田さんは言った。僕は頷いた。
「今日は何をして過ごしていたんですか?」
と僕は訊ねた。
「炊き出しのボランティアです。そうだ、久しぶりに牧田さんが来ましたよ」
牧田さんというのはたびたび炊き出しの会場に出没する、五十代後半の男性だった。
「あら、お元気そうでした?」
と僕は久しぶりに牧田さんの名前を聴いて嬉しくなった。
「相変わらずでした」と西田さんも頬を緩めた。「カンボジアに行っていたそうですよ」
「カンボジアで何を?」
「それも相変わらずで、何を言っているのか私にはさっぱり理解することができませんでした。でも楽しそうでした」
僕は五つくらいの異なった話を並行して語る牧田さんの姿を思い浮かべた。ついていくのは至難の業というかほとんど不可能だった。
「武喜くんの身体に痣がありました。いくつも」
と西田さんは言った。ビールを口に含み、喉がこくりと動いた。
「痣、ですか?」
「あくまでも推測ですけど」と慎重に断った上で西田さんは言葉を続ける。「おそらくつねった痕なんじゃないかと」
今更ながら部屋の中に流れているシューマンのピアノ曲が、意識の膜を破って胸に届いた。受け取ったものをどう処すべきか僕は少し混乱した。待ってもいない手紙が届いたような気分だった。
翌日、僕は武喜くんと外を歩いていた。一月にしては気温が高く、今日は最高気温で四度まで上がるようだ。そのために軒先では雪が溶けて滴が落ちる音が聞こえ、春のような匂いがした。
天気も良かった。青空が広がっていて、風もほとんどない。
夜の間、気になって何度か武喜くんの寝室を覗いたけれど、ドアに背を向けるようにして小さな背中は一ミリたりとも動いていないように見えた。あれは眠れている背中ではなかったように思う。
「西田さんの料理、美味しかったね」
と僕は口を開いた。一応間をちょこんとおいてみたけれど、返答はあまり期待していなかった。僕は遠くの方を見つめながら話し続けた。
「西田さんに会うのは初めてではないよね? 彼女は信者会に必ず出席しているからね。しっかりしているけど、でもああ見えて結構お茶目なんだ。例えば方向音痴でね、道に迷うのが得意だし、そう、道に迷うことに関しては絶対の信頼がおけるんだよ。毎週通ってる商店街からの帰り道も見失うんだ。と言うのも、彼女には他の人には見えないものが見えるんだ。それは生き物の形をしていたり、ただ単に色だったりもする。あるいは音や、そういった言葉では形容することができないものだったりする。そういうものに気を取られて、あとをついていった結果、気づいたら今いる場所がどこなのか分からなくなっちゃうわけ。そういう時はね、彼女を見かけた人が家まで連れ帰ったり、僕が探しに行ったりする。僕も見えるからね、彼女のいる場所は彼らが教えてくれるんだ」
武喜くんの視線が少し持ち上がって、僕の顔の方へ動いたような気配がした。僕はあえて彼の方を見ようとはしなかった。
「思うに、武喜くんも見えるんじゃないかな」
と僕は言って、一応間をちょこんとおいてみた。返答は期待していなかった。ただその間には冬らしくない長閑な風が吹き込んだような気がした。しかし一寸あとに、その間は野太い声に搔き消された。
「こんにちは、教祖様、ちょうどよかった。今、少し困ったことになっていてね、ちょっとついてきてくれないかね」
そう言って歩み寄ってきたのは、酒屋を営んでいる小峠さんだった。彼は僕の信者というわけではなかったが、信者予備軍だった。信者会で振る舞われるお酒は彼の店で提供してもらうことが多かった。
「これは武喜くん、こんにちは。お母さんのことは残念だったね、私も家内もまだ信じられない気持ちでいるよ」
と小峠さんは言った。
「困ったことって何があったんですか?」
と僕は訊ねた。
小峠さんに導かれていった先は、浅沼さんご夫妻が営む個人商店だった。もっとも個人商店だったのは昔の話で、今はコンビニエンスストアになっている。だが昔の名残りで今も地域の人は「浅沼商店」という認識のままだった。ちなみにご夫妻は僕の信者だ。
小峠さんは店のレジ脇から浅沼さんに声をかけた。レジの奥は事務所になっていて、カーテンで仕切りが設けられていた。
「浅沼さん、ちょうどそこに教祖様がいたから連れてきたよ」
「おお、そいつは助かります。入ってきてもらえますか」
カーテンの向こうから浅沼さんの声が聞こえた。申し訳ないけど私は次の用事があるので、と小峠さんが引き返したので、僕と武喜くんは二人で事務所に入った。
事務所は小さく物が雑多に置かれているために酷く狭かった。パソコンが置かれた事務机の前に浅沼さんが座っていて、向かい合うようにしてお婆さんが一人座っていた。お婆さんは俯き、蒼白な顔をしていた。
「こんにちは、教祖様。武喜くんも、こんにちは」
浅沼さんは目の端に少し辛そうな色を光らせた。
「どうしたんですか?」
と僕は訊ねた。
「それがね、どうしたものか困ってしまってね。この方は土井さんというらしいんだけど、ああ、土井さん、この方は教祖様です」
「教祖です」
と僕は名乗った。
「それから武喜くん。教祖様の信者さんの息子さんです」
お婆さんの含めて三人の視線が武喜くんに集まったが、行き場を失って霧散した。辿り着いたそこで何も発見することができず、気まずい沈黙だけがじりじりと煙のように生じたからだ。
「土井さんがね」沈黙を破って浅沼さんが口を開いた。「何というか、店の商品を会計をせずに持っていこうとしてね。まあ、うちとしても大事にしたくはないからね、だけどこのままお帰り頂くのもどうなのかなと思って、土井さん何も話してくれないから困っていたんだよ」
ほとほと困り果てたという顔で浅沼さんは言った。
「そうですか」
と僕は頷いた。
それからしばらく誰も口を利かなかったので、店内を流れる有線音楽が無観客ライブでもしているみたいに、どことなく空々しく流れた。
「そう言えば、レジはいいんですか? 店の中、誰もいませんでしたけど」
と僕は言った。
「ああ、そうでした」と浅沼さんは、この場から離れられると思ったのかほっとした表情で言った。「少し見てきてもいいですか?」
僕と武喜くん、それから土井さんの三人となっても、気詰まりな空気がどうにかなるわけではなかった。しばらく所在なく、身体の置き場を探しているような雰囲気が継続していたが、次に空気を揺らしたのは意外にも土井さんだった。土井さんは武喜くんに声をかけたのだった。
「私もこないだ主人を亡くしたのよ」
と土井さんは言った。
「私たち、夫婦ふたりきりだったから、主人が亡くなって途方に暮れてしまって。最初は万引きをするつもりはなかったのよ。間違えて商品をそのまま持って帰ってきてしまってね。ああ、これはいけない、返しに行かなきゃって思って、でも気づいたら繰り返してしまっているの。よくないことだって分かっているんだけどね」
「でも結構監視カメラとかついていますよね。すぐに発覚してしまうんじゃないですか?」と僕は訊ねた。「万引きをしたことがないので、その辺りの事情がよく分からないんですよ」
「もちろん下準備は必要だけど」と土井さんは言った。「結局は腕がモノを言うのよ」
「つまり?」
と僕は言った。すると土井さんは膝の上に載せていたハンドバックの中から財布を取り出した。僕はあっと驚いた。それは僕の財布だったからだ。
「すごい」
と僕は思わず感心して言った。
「主人がいなくなって、それまで主人のために使っていた時間がぽっかり空いたじゃない。その時間を埋めるために何となく習得したのよ。どうかしていたんだと思うわ。もちろん今もそうだけど」
ごめんなさいね、と言って土井さんは財布を僕に返した。
「とるつもりはなかったのよ。でも、気づいたら手に取ってしまっているの。私もいい加減こんなことはやめなくちゃって思っていたから、今回はわざと見つかるようにしたのよ。迷惑をかけるって分かっていたけど、自分ではやめられない、情けない話だけどね」
「でももったいないですね、それだけの技術をこのまま眠らせておくのは」
僕が素直に言うと、土井さんは意外そうな、呆れたような目で僕を見た。
「ここは僕が浅沼さんに謝っておきますから、今度信者会に来てください。ええと、そうだな、次の土曜日に開催されるはずです」
「信者会?」
土井さんは怪訝そうな顔をした。
「ええ、信者会って行ってもほとんどただの飲み会というか、みんなで集まって好き勝手に話をする会のことです。別に信者でなくても構わないんです。もちろん信者になって下さっても構わないわけなんですが、ああ、怪しいですよね。安心してくださいっていうのは少し違うかもしれませんが、信者になったからと言って何か義務が生じるわけではないんです。寄付金とかそういう会費とかがあるわけではありませんし、信者か信者でないかの違いは実のところ曖昧なんです」
「この子も信者さんなんですか?」
と土井さんは武喜くんを見た。武喜くんは相変わらず表情のない顔で俯いている。
「いいえ。武喜くんは信者ではありません」
「そう。私はそこで、信者会に行って何をすればいいのでしょう」
土井さんの目に怯えのような光を見つけて、僕は慌てて言った。
「別に糾弾したり、そういうことではないんですよ。ただ土井さんの能力を何かに活かせないかなって思って。信者会には本当に色んな人が来るんです。年齢も立場も人生観もバラバラで、そういう場だからいつも全然思ってもみない意見や考えが出たりするんですよ。きっと土井さんの能力の居場所も見つけられるはずです」
土井さんは釈然としない表情で「そうですか」と頷いた。まあ無理もないなと僕は思った。土井さんは迷うような視線を武喜くんに向けた。武喜くんを見る目には僕には解し得ないニュアンスが佇んでいた。
「武喜くんは、ショックな出来事があって、少し休憩しているんです」
と僕は言った。
土井さんは了解しているという風に頷いた。それから武喜くんの頭に柔らかく触れた。その柔らかさは技術ではどうしても演出できない類のものだった。
「辛いわね」
と土井さんは言った。
武喜くんの身体が少し震えたように見えたが、それは僕の錯覚かもしれなかった。
水上さんの葬儀が開かれた。葬儀は簡易的なものだったけれど、次から次へと人がやってきた。喪主は森本さんがつとめてくれた。僕はその後ろで西田さんに指示を得ながら忙しく立ち働いた。
武喜くんは故人のそばに座ってじっと動かずにいた。あれから二日経っていたけれど、彼には少しの変化もなかった。何も感じず、何も考えず、ただ受動的な存在としてその場に佇んでいるかのように見えた。
「よくね」と重室さんが言った。八十代後半の男性だ。もう長いこと一人暮らしをしている。「ほら二丁目の坂道で難儀していた時に、水上さんに助けてもらったんですよ。荷物を持ってもらったりね」
「そうでしたか」
と僕は頷いた。それに類似した話は次から次へと、ほとんど無際限に話された。
外では雪が無言のままに降っていた。夜の間に十五センチほど降り積もったが、まだまだ降りそうだった。雪はただ降り積もるだけで何も話しはしないのだ。その点が雨と違っていた。
すすり泣く声がどこからか聞こえていた。
誰かと誰かの会話も途切れ途切れに聴こえてくる。
「ひどい雪だねー」
「年末まで降らなかったからね」
「まったく、帳尻を合わせようとしなくていいのにな」
「水上さん、幌加内町の出身なんだってね。あそこも毎年大雪でしょう?」
「豪雪地帯だね。昔行ったことがあるけど、いやはやいやはやでしたな」
雪はその間、延々と降り積もっていた。街は除雪が追い付かずに、JRが運休した。渋滞が至るところで生じていた。ただ子どもだけが公園で楽しそうに笑い声を上げていた。
僕は時間が空いた時に、信者のみんなと連絡を取り合って、除雪困難な家に出向いてボランティアをした。だけれども雪は際限なく降り続け、まるで街一つを沈めてしまおうとしているようだった。
僕はふと土井さんの姿を見かけた。どこからか葬儀の話を聞いてきたのだろう。あのあと、浅沼商店で別れてから彼女がどうしていたのかは当然知らない。どことなくおろおろとするその姿に会釈をすると、土井さんは窮屈そうに頭を下げた。
お焼香をあげ、いそいそと会場を立ち去ろうとする土井さんの後を追いかけて声をかけた。
「来てくれたんですね」
と僕は言った。
「ええ、まあ」
と土井さんは歯切れの悪い返答をする。
「たいへんな大雪ですね」
僕が言うと、土井さんは窓の外を降り続ける雪に視線をやった。
「そうですね。主人は雪が好きでした」
「そうですか」
と僕は頷いた。
「武喜くんはどうですか?」
と土井さんは言った。
「相変わらずです」と僕は答えた。「彼には時間が必要なんだと思います。出来ればその時間を僕らで提供できればと思いますけど、もちろん、彼の意思を尊重した上で。でも今は色んなことが彼の身体の中で居場所を見つけるのを待つ以外にないのかなと思います」
「そうですね」
と土井さんは思わしげに言った。
「そうだ」と僕はその姿を見ながら切り出した。「武喜くんに返してあげてくれませんか?」
土井さんはハッとした表情をした。
僕は頷いてから続けた。
「もちろん、それは武喜くんにとって辛いことかもしれませんけど、だからと言って、その辛さを彼から取り上げる権利は僕らにはないと思うんです」
土井さんはしばらく俯いていたが、やがて黒いハンドバックから何かを取り出して、僕に手渡した。土井さんはあの時、浅沼商店で武喜くんの心を万引きしたのだ。それは救急車の小さな模型自動車の形をしていた。
「ありがとうございます。これは僕は責任をもって武喜くんにお返しします」
と僕は言った。
「すみません、お願いします。同じとは言いませんけど、私にはあの子の気持ちがよく分かって、それでつい盗ってしまったんです」
「そうですか。今日は、武喜くんに、返そうと思ってきてくださったんですよね」
土井さんはそれには答えなかった。僕は言葉を続けた。
「これからも武喜くんに会いに来てあげてください。彼は、と言うか僕らは、誰でもそうですけど、たくさんの小さな助けを必要としているんだと思うんです」
土井さんは何も言わずに俯いていたが、やがて会釈して雪の中を去って行った。
翌日、水上さんの火葬が行われた。
僕は武喜くんのポケットにそっと救急車の模型自動車を入れた。だからと言って武喜くんには何か変化があるわけではなかった。だけどずいぶん時間が経ったあとで、彼は少年らしい、高く透き通るような声で言った。
「新鮮なパイナップルも好きだけど、やっぱりぼくは缶詰のパイナップルが好きなんだ。どちらか選べって言われたら、ぼくは缶詰のパイナップルの方がいい」
その声は分厚い雪雲が去ったあとの、情けないくらいに晴れ渡った空の下で、微かに震えていた。
「そうなんだね」
と僕は言った。
缶詰のパイナップルの方がいい。 ayaya @ayayadeiyaya
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