姫様、国を買う〜亡国の姫は己の拳で金を稼ぐ〜
アジカンナイト
第1話 ベルタ王国でのひととき
大国に挟まれ、まるで箱庭のように慎ましく存在する小国、ベルタ王国。
昼下がり。その象徴であるベルタ城の中庭では、王国の至宝たる姫と彼女に仕えるメイドが、優雅なひとときを分かち合っていた。
ベルタ王国の姫、カリーナ・マネニット。齢十八歳。
母譲りの透き通るような金色の髪と碧眼を持つ彼女は、その場にいる者全てを魅了するほどの、圧倒的な美貌の持ち主であった。
「アイ、私は貴方と過ごすこの時間が、何よりも好きなのです」
カリーナは、アイによって丁寧に注がれた紅茶のカップを両手に持ち、メイドを見つめて微笑んだ。
アイと呼ばれた同い年の黒髪メイドは、姫の笑顔を胸に刻みつけ、静かに幸福を噛み締める。
「姫様、ソルド伯爵様のお話はお聞きになりましたか? お嬢様が三歳のお誕生日を迎えられたとか」
アイは自分のカップにも紅茶を注ぎながら、穏やかな口調で尋ねる。
「あら、本当に? それはいけませんわね。早速、お祝いの品を用意しなければ」
「はい。では今度、ご一緒にお祝いの品を選びに参りましょう」
「そうですわね。アイが隣にいてくれると、私は心から安心できるのです」
「姫様にそう仰っていただけて、この上ない光栄にございます」
「立っていないで、座ったらどうです? お茶が冷めてしまいますわ」
「では、お言葉に甘えさせていただきます」
アイとの何気なくも温かい会話と、この平和な空間は、公務の重圧に追われるカリーナにとって、何にも代えがたい「憩い」であった。
バタン!
突如、中庭へと続く重厚な扉が乱暴に開け放たれた。
平和な茶会を打ち破るように駆け込んできた一人の兵士の尋常ならざる形相は、二人にただならぬ予感を突きつけた。
「どうなさいましたか、一体?」
アイは肩で息をする兵士に、冷静さを保ちながら問いかけた。
「ハァ……ハァ……っ! 姫様、アイ様! 早くお逃げください! 魔物の大軍勢が、城を襲撃しております!」
兵士の必死な叫びは、一刻の猶予もない危機的状況を物語っていた。
ドガァァァァン!!!
ヴオオオオオオオ!!
次の瞬間、遠くで何かが城壁に激しくぶつかる轟音と、とても人のものではない、おぞましい咆哮が、城全体を振動させた。
「早く、お逃げに!」
兵士は、一刻も早く二人をこの部屋から遠ざけようと急かす。
「逃げましょう、姫様!」
アイは、反射的にカリーナの手を強く引いた。
「でも、お父様と、お母様が……まだ中に……」
カリーナの御両親、国王と王妃は高齢で、とても自力ですぐに避難できるとは思えなかった。その事実が、カリーナの足を絡め取った。
「姫様……」
アイは一瞬迷った。しかし、カリーナの家族への深い愛情を知るアイは、このまま逃げてカリーナに一生の後悔を背負わせたくはなかった。
「分かりました、参りましょう!」
アイとカリーナは、優雅な茶器もそのままに、中庭を飛び出した。
城の内部は、既に地獄の様相を呈していた。
兵士たちは顔面蒼白になりながらも、次々と城の入り口へと駆けていき、メイドたちは恐怖に引き攣った顔で右往左往している。
「おい、早く来い! このままでは門が破られる!」
「もう駄目だ……」
「弱音を吐くな! 何としてでも持ちこたえるんだ!」
そんな凄まじい混乱の中、二人は、兵士たちの流れに逆らい、国王と王妃の私室へと全速力で駆けた。
(お母様……お父様……)
カリーナは不安と恐怖でアイの手を、骨が軋むほど強く握りしめた。
バタン!
「お父様! お母様! 一緒に逃げましょう!」
扉を蹴破るように飛び込んだカリーナを迎えたのは、ベッドの上で互いに身を寄せ合い、静かに佇む両親の姿だった。
「カリーナ、アイ。二人とも無事でよかったわ」
王妃は、飛び込んできたカリーナの頬を優しく撫でる。
「参りましょう! 隠し通路からならまだ間に合います!」
アイは国王と王妃に手を差し伸べた。
しかし――
「アイとカリーナ、二人だけで逃げなさい。我々がいては、お前たちも助からぬ。それに私は、この国の王だ。この城を捨てて逃げられるものか」
国王はその手を静かに払うと、アイの顔を優しく包み込んだ。
「カリーナもアイも、立派に育ってくれた。二人なら、この荒波を乗り越えて生き延びていける。私はそう信じておる」
アイは、その決意の全てを悟り、顔をくしゃくしゃにして涙を堪えることができなかった。
「いいのよ、カリーナ。後ろを振り返らず、後悔のないように生きなさい。貴女の人生は、これから始まるのよ」
溢れ出す涙が止まらないカリーナの背中を、王妃が優しく、力強く叩いた。
バタン!
「陛下! 城門が、完全に破られました! 一刻も早くお逃げください!」
扉を開けて飛び込んできた兵士の、悲痛な叫びに、国王は静かに「分かった」と応えた。
「行きましょう! 姫様!」
アイは、泣き崩れるカリーナの身体を無理やり引き剥がした。
「嫌です!お父様ぁ!お母様ぁ!」
アイに抱きかかえられ、部屋から遠ざかるカリーナが最後に見たのは両親の穏やかな笑顔だった。
「カリーナ、アイ。貴女たちなら、大丈夫」
遠ざかる部屋の奥から、そんな優しい声が響いた。
「姫様、こちらへ!」
アイは、カリーナを抱えたまま、王城の深い地下に隠された通路へと飛び込んだ。
「ひっく……ひっく……ぅっ……」
しゃくり上げ、泣き止むことのないカリーナを、アイは強く抱きしめる。
「カリーナ! 私を見て! 小さい頃から、二人でどんな困難も乗り越えて来たではありませんか! 絶対に、絶対に生きてやりましょう!」
そんなアイの瞳からも、大粒の涙がとめどなく溢れ出した。
「はい……絶対に……絶対に……私はこの国に戻ってきますから」
カリーナは、服の袖で乱暴に涙を拭うと、先導するアイの手を取った。
まだ見ぬ二人の未来を信じて――彼女たちは、崩れゆく故郷を背に、走り出した。
この日。ベルタ王国は、突如として発生した魔物の大群によって、一夜にして完全崩壊を喫した。王城は見る影もなく崩れ落ち、民は四散し、後に残されたのは、血と泥にまみれた瓦礫の山だけであった。
それから――数年の月日が流れた。
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