声の巣

——繁殖した声には、もう巣立つ先がない。——




 彼は、以前ほど硝子を見なくなった。 見なくなった、というより、 見ていない時間を、わざわざ意識しなくなった と言った方が正しい。


 机の上に置かれた硝子は、 伏せられていることもあれば、 伏せられていないこともあった。 どちらにしても、 彼の一日は、 ほとんど同じ形で進んだ。


 彼は、まだ書いていた。 書くこと自体は、 やめていなかった。 ただ、 何のために書いているのかを、 説明しなくなった。


 説明しなくなったのではない。 説明が、必要なくなった のだった。


 彼の言葉は、 以前よりも、 整っていた。 無駄がなく、 角がなく、 どこにも引っかからない。


 それらは、 彼の内側から出たものというより、 彼を通過したもののように見えた。


 人々は、 彼の言葉を、 「よく分かっている」と言った。 「距離がある」と言った。 「冷静だ」と言った。


 彼は、 それらの言葉に、 頷きもしなければ、 否定もしなかった。


 否定するための、 声の位置が、 もう、分からなかった。


 ここで、 一つだけ、 はっきりしていることがある。


 声の巣とは、 声が集まり、 声が繁殖し、 声が、 誰のものでもなくなる場所だ。


 彼は、 そのことを、 誰よりも正確に書ける人間だった。


 だが、 正確に書けるということと、 そこに属していないということは、 同じではない。


 彼の言葉は、 よく引用された。 切り取られ、 整えられ、 別の声の巣へ 運ばれていった。


 彼自身は、 それを、 ほとんど見なかった。


 見なくても、 分かったからだ。


 言葉は、 一度、 巣の形を覚えると、 自分で帰っていく。


 彼は、 ある夜、 硝子を、 はっきりと机の上に置いた。


 伏せる、 というより、 置いた という動作だった。


 通知は、 しばらく鳴った。 その後、 鳴らなくなった。


 鳴らなくなった音を、 彼は、 数えなかった。


 数えることを、 やめていた。


 硝子のない時間は、 静かだった。 静かだが、 重くはなかった。


 重さは、 もう、 彼の中に 残っていなかった。


 彼は、 時々、 声を出そうとした。 誰かの名前を、 呼ぼうとした。


 だが、 喉は、 正しい形を 思い出さなかった。


 声は、 出なかったのではない。 彼が、 どの声を 自分のものとして 出せばいいのか、 分からなかった だけだ。

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