秘密の温室

和叶眠隣

秘密の温室

 色とりどりの傘が開いて、帰り道が花畑のようだった。

 朝から降りつづく雨の中を、藤井君は傘もささずに走っていた。傘と傘をすり抜けていくびしょぬれの後ろ姿から目が離せない。この日からわたしの視線は藤井君ばかり追ってしまうようになった。


        ◇ ◇ ◇


 正直にいうと、藤井君はクラスでかなり浮いてると思う。

 このあたりの小学生は、だいたい似たような服を着てるけど、藤井君はまるで違う。

 今日だって、布が切り替えになった水色のTシャツに、アイスクリーム柄のピンク色デニムというかなり派手な服を着てる。シール帳みたいに元気な色に囲まれているのに、本人はいつも無表情。

 雨の日はこげ茶色のくせっ毛が横にも縦にも広がるから、見た目が余計に目立ってしまう。服と髪と表情が全部ちぐはぐで、うまく噛み合ってないように見える。


 ほとんどの時間ひとりで本を読んでいて、誰かと一緒にいるところはあまり見ない。唯一の例外は、佐藤君だった。


「今日雨だから、いちだんと爆発してるなぁ」


 ふわふわの髪の毛に触りながらからかうように言われても、藤井君は何も言わない。おとなしいを通りこして無視しているようにも見えるけど、気分を害しているのかどうか表情ではわからない。


 クラスで一番人気者の佐藤君は、誰にでも声をかけるし、誰にでも優しい。

 だから、これはいじめじゃない。

 そう思っているのに、わたしだけが勝手にはらはらしてしまう。


 結局、今日も見てるだけで何も言えなくて、ノートのすみにアイスクリームの絵を描いた。

 わたしにも、佐藤君みたいに話しかける勇気があったらいいのに、と思った。


        ◇ ◇ ◇


 小学三年生になって、はじめての参観日が来た。

 授業が始まったのに、お母さんは来ない。何度も後ろを振り向いていると、遅れて誰かのお父さんとお母さんが入って来た。参観日に両親そろって来ることも珍しいけど、見たこともないくらいきれいな人たちで、教室が、ざわっと一気に波打った。

 背が高くて、顔がちいさくて、まわりの大人たちとまったく違う。


「え、藤井って言ってたよね?」

「全然似てない」

「ほんとにあの人たちの子ども?」


 後ろから聞こえるひそひそ声が、床を這うようにして耳に届く。

 藤井君は、ノートに置いた自分の指をじっと見つめていた。その指が、自分のものかどうかを確かめているみたいに。


 佐藤君が、ガタッと勢いよく立ち上がって手を上げた。


「先生、俺! 俺当てて!」


 その声で、教室の空気が少しやわらかくなる。授業が再開されても、藤井君の背中は、ちいさく固まったままだった。


 放課後。

 藤井君は、三人の女子に囲まれていた。


「ねぇ藤井君のパパとママってモデルなの?」

「なんで全然似てないの?」

「だまってないで教えてよ」


 藤井君は下を向いたまま、何も言わない。

 佐藤君も、藤井君のご両親もすでに帰っていて、藤井君を助けてくれる人はここにいない。

 もちろん、藤井君は「助けて」なんて一言も言ってないし、だからこれも、わたしが勝手にはらはらしているだけだった。


 女子たちは何度聞いても無反応な藤井君に「もうなんで無視するの~」と言いながら、あきらめて教室を出て行った。


 しんとした教室で、わたしははじめて藤井君に近づいた。


「藤井君、蝶、好き?」


 自分でも、とつぜんすぎると思った。顔が赤くなってるかもしれない。

 でも、あの雨の日のことが、ずっと気になっていた。


「……蝶?」

「ちょっと前に、花だんのところにサナギがあったでしょ?」


 藤井君は、ちいさくうなずいた。


「もうすぐ羽化しそうなのに雨が降ってて……もしかして藤井君、サナギを守ろうとして花だんに傘を置いたんじゃないかなって」

「安井さんも知ってたんだ」


 藤井君は、ぽつりと言った。返事をしてくれたことに、ほっとする。


「藤井君、すごいね。わたしは心配することしかできなかった」

「でも『風邪ひいたらどうするの』ってお母さんには怒られたよ」


 あの日の理由がわかって、やり切ったような気持ちになった。会話ができたことも、うれしい。欲張りになったわたしは、もうひとつ伝えたいと思った。


「うちのお母さんね、わたしのことをすごく遅くに産んだから、みんなのお母さんよりおばさんなんだって。だから参観日とかイヤがって来てくれないの。今日も結局来てくれなかった。……ほんとはすごく来てほしかったんだけど」


 藤井君の目が動いた。


「だから、うらやましかったんだ。藤井君のお父さんとお母さん、ふたりそろってキラキラしてたね」

「……でも似てないって言われる」

「藤井君は、似ていたいの?」


 藤井君は答えなかった。

 無言の時間がこわくて、言葉を探す。にぎった手のひらが熱い。


「あのね。わたしたち、まだ芋虫か、よくてサナギなんだと思う」


 はらはらしてるだけじゃなくて、わたしも伝えたい。

 傘でサナギを守るみたいに。敵じゃないよって、伝えたい。


「そのうち羽が生えて蝶になったら、似てるとか似てないとか、どうでもよくなるんじゃないかな」


 わたしが少しだまったら、今度は藤井君が質問してきた。


「……安井さんは、蝶になりたいの?」

「うん」


 すぐに答えた。


「早く大人になりたい。お母さんに大丈夫だよって言えるくらい」


 藤井君が、はじめてわたしを見た。

 光の加減で色が変わる、不思議な色の瞳だった。


  ◇ ◇ ◇


 冬になって、わたしの誕生日が近づいた。

 日曜日の午後、クラスの女子を何人か呼んで、家でお祝いすることになっていた。参観日に来なかったお母さんに、毎日おねがいしてようやくOKをもらったのだ。

 ゲームをしたり、お菓子を食べたり、「おじいちゃんが建てた温室も見せるよ」なんて話をして楽しみにしてた。


 玄関チャイムが鳴ったのは、集合時間の一時間前。ドアを開けると、そこに立っていたのは藤井君だった。


「……温室あるって聞いたから」


 それだけ言って、こちらをじっと見つめてくる藤井君は、手ぶらだった。


 あれから藤井君とはたまに話をするようになっていた。

 蝶の話からお互い図鑑を見るのが好きだとわかって、温室の話もしたことがあった。「今度、温室見たい」と言われていたから家も教えていたけれど、誕生日会には呼んでいなかった。

 男子を招待する勇気がなかったし、たまに話すと言ってもそこまでなかよしなわけでもなかったから。


 戸惑いながら、庭の奥にある温室へ案内した。温室と言っても、おじいちゃんが趣味で建てたちょっと立派なビニールハウス。

 オレンジ色の木枠に、分厚いビニールを重ねてあり、一応暖房設備も備えている。


 中に入るとムワッとした湿気と、土と植物のあまい匂いが混ざった空気に包まれる。お母さんが大事に育てている蘭の花びらは肉厚で、どこか蝶の羽に似ている。藤井君は珍しそうに背伸びしながら周囲を見回していた。


 しゃがんだまま動かなくなってしまった藤井君の横に並んで座ると、蘭の鉢が並ぶ足もとに、茶色の大きなカマキリが一匹いた。

 その背に、薄い緑色のカマキリが重なるようにとまっている。


「交尾してる」


 藤井君が、まるで図鑑でも読むみたいな声で言った。わたしはドキッとして立ち上がろうとした。

 その時だった。大きな茶色のメスが、背中に乗っていたオスを振り返り、ガブリと噛んだ。自分よりもずっと小さなオスの頭を、迷いなくバリバリと食べていた。


 目を閉じたいのに、どうしても逸らせない。

 わたしは今、すごいものを見ている。よりによって自分の誕生日に。呼んでもいない藤井君と、ふたりで。

 わたしは、悲鳴をあげることも忘れて、その静かな食事をじっと見ていた。


「……痛くないのかな」


 わたしの震える声に、藤井君は表情ひとつ変えずに答えた。


「オスはね、食べられてもいいんだよ」


 藤井君の声は、たんたんと落ち着いていた。


「だって、ちゃんと次の世代に続くから、使命を全うしたと思うよ。それは、ただ死ぬよりもずっと、きれいなことだと思わない?」


 その言葉が、のどの奥に張り付くような、重たい蘭の匂いをさらに濃くしたように感じた。むせ返るような、いのちの匂いだった。

 わたしはだまったまま、口の中にいつの間にか溜まっていた唾液を、音をたてないようにそっと飲み込んだ。


 その後、藤井君は「お誕生日おめでとう」の一言もなく帰っていった。


 誕生日会が始まってもわたしは上の空で、せっかく来てくれた友達にも、準備してくれたお母さんにもごめんなさい、と思った。

 みんなに「どうしたの?」と聞かれたけど、今さっき起きたことをどう言えばいいのかわからなくて、結局温室にも連れて行かなかった。藤井君と見てしまったあの光景と言葉と匂いが、ずっと頭から離れない。


 温室での事件が、9歳の誕生日で一番忘れられない時間になった。


 それから十日ほどたった帰り道。

 藤井君のうしろ姿に、勇気を出して声をかけた。


「カマキリ、卵産んだよ」


 藤井君は少し目を丸くして、「見に行ってもいい?」と聞いた。

 家に上がらずに温室へ直行する。交尾していたすぐそばの枝に、泡のかたまりがあった。ふわふわでやわらかな雨の日の髪の毛みたいな卵だった。


「これ、ちゃんと赤ちゃんになる卵だと思う」

「……え? 赤ちゃんにならない卵もあるの?」

「あるよ。無精卵っていうんだ。ぼくたちが食べてる卵なんかもそう。これはたぶん有精卵だから、ちゃんと赤ちゃんが産まれるよ」


 藤井君は卵に指を近づけながら言った。


「でも、このままだと……」


 藤井君の瞳が、蘭の花の影で青く揺れた。わたしにもわかるように、ゆっくりと話す。


「温室の中はあったかいから、冬の間に孵化ふかするかもしれない。でも餌になる昆虫がいないし、寒さにも耐えられない。たぶん、すぐに死んじゃうと思う」


 わたしは、ちいさな泡の卵を見つめた。

 いのちをつなぐために、食べられたオス。

 そのいのちの先にいる、まだ見ぬ新しいいのち。


「どうしたらいいの?」

「外に出したほうがいいと思う。なるべく安全な木の間に移そう。春までかえらないように」


 枝ごと移すのがいいと藤井君が言うので、お母さんには内緒で蘭の茎をはさみで切った。枝ごと卵を持つ藤井君と、落下しないように卵の下の空気を支えるわたし。卵は庭の隅に生えている椿の葉っぱの内側に隠した。


 やわらかくて壊れやすい、いのちのかたまりを運ぶのは、神様のお手伝いをしているみたいでドキドキした。ほとんど言葉は交わさなかったけれど、秘密をいっしょに作っていると思った。


 冬の間、藤井君はたまに家にやってきては、卵の様子を確認して帰っていった。相変わらず口数は少ないけれど、学校で見るより表情はやわらかくて、ちょっと距離は近付いたかもしれない。


 春休みのある日、また藤井君が来た。

 珍しく手ぶらではなく、お弁当かばんを持っていた。


「今日、ぼくの誕生日」


 そう言うと、かばんの中からアイスクリームとスプーンをふたつ取り出した。


「藤井君って、アイスクリーム好きなの?」

「うん。食べもので一番好き。そしたらお母さんがアイス模様のものばっかり買って来るんだ。はい、これ安井さんの分」


 ありがとう、と言ってアイスを受け取った。

 木の間ですっかり固くなった卵を見ながら、ふたりでアイスを食べた。


 卵の泡が、少しだけほぐれている気がする。よく見ると、ちいさな穴が空いていた。


「……あ」


 泡の中から、ちいさな半透明のカマキリの赤ちゃんが、するすると出てくる。


かえったね」

「……お誕生日おめでとう。藤井君も、カマキリも」


 カマキリの赤ちゃんが、まだうまく動かせない羽を震わせて、目の前の椿の枝をよちよちと歩き回っている。プレパラートの破片みたいに頼りなくて、今にも消えてしまいそうな、ちいさないのちの行列。


「安井さんは、蝶になったらどこに行きたい?」


 藤井君がアイスクリームを食べながら聞いた。


「いちばん最初はお母さんのところかな。心配ばっかりしてるお母さんに、わたしはもう大丈夫だよって、きれいな羽を見せてあげたいの」


 嘘でもいいから、お母さんがわたしを産んだことを後悔してないと言ってくれるといいなと思う。


「ねぇ、安井さんの誕生日。今年も来ていい?」

「……知ってたの?」

「うん」

「今度はちゃんと招待する」


 そう言うと、藤井君はにこっと笑ってうなずいた。

 その笑顔は前より自然で藤井君らしくて、髪型にも洋服にも似合っているように見えた。まだ芋虫のようなわたしたちは脱皮を繰り返してちょっとずつ蝶に近づいていくんだ。

 いつか同じ空を飛べるように。

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