殻を破りたいだけの人

八方鈴斗(Rinto)

殻を破りたいだけの人

 顔が、じくりと痒くなる。

「あなたはさ、本当に、何考えてるの?」

 目の前の呉田さんはよっぽどのことがない限りは声を荒げないし意地悪な言葉を使わないけれど、だからこそ恐ろしいということもある。

私なんて簡単に捻じ伏せられる熊のような巨躯を丸椅子に乗せ、それでも私を見下ろす形になる大きな彼はただただ私の言葉を待っていた。

「――ごめんなさい」

「うん。謝ったのは、どうしてかな」

 呉田さんが怒っているから。

 もしそう言えば火に油をそそぐだけだ。

 だけど、私はそれ以外の言葉を見つけられない。

 黙り込む私に対して、呉田さんは見透かしたように、

「何で怒られているのか分かっていないんだ。なのに謝るなんて、不誠実じゃないかな。この前言ったことと本質的には同じ。あなたのそれは結局、その場しのぎ以外のなんでもないんだ。直さないと」

 狭い事務所には呉田さんと私しかいなくて、エアコンの風が生ぬるくてかび臭い。唯一の出入り口の向こう側には石田さんと元村さんが忍び笑いをしている声が聞こえてくる。

 またアイツ怒られてるよ、といった感じの笑い方。

 溜め息をつきかけたところ、すんでのところで我慢する。

 呉田さんは苛立ちを隠そうともせず、胸のポケットから異様に小さく見える煙草の箱を取り出した。それを何度か煩わしそう振って取り出した一本を咥える。

「あの、事務所は禁煙じゃ――」

私の口からこぼれ落ちたその言葉で呉田さんの顔のパーツはぎゅうと中心に寄る。そうすると動物が威嚇するときのような顔になる。余計に怖い。

だから私は流れるように言う。

「――ごめんなさい」

 呉田さんは煙草を胸ポケットに戻して、その代わりに激しい貧乏揺すりをしながら問いかけてくる。

「それで、どうしてそんな顔なのかな」

 不貞腐れたような表情でも浮かべてしまっているのかと、私は壁に括り付けられた姿見をチラリと目を遣る。

 しかしそこには、申し訳なさそうに身体を縮こまらせて、顔を真っ白にした私が映るだけ。

「そんな顔、というのは」

「顔についてるそれだよ。何? その――白塗り? なの? それさ、ふざけてるでしょ?」

「……ふざけてません」

「へえ。それじゃ、家からここ来るまでずっとそれで来たってこと? そんな訳ないでしょ、どういうつもりか知らないけどさ――」

「いえ、事務所じゃこれはできないんで、お家でやってきました」

 包み隠さず本当のことを言った。

 なのに呉田さんは大きく息を吸いこんで、

「やっぱり、ふざけてるんだろおっ!!」

 その剣幕に私は凍りつく。

 怖さで顔が引き攣ったからなのか。

 頬のあたりからぱきぱき音が鳴った。

「――ごめんなさい。でも本当なんです。一パック全部使うし破片を組み合わせるの時間がかかるしピンセットがないとダメだし薄皮ごと貼って乾くまでだってすぐにはできないし……だから、家でやってくるしかなくて」

 扉の向こう側からクスクスという声が響いている。

 頭がずんと重いし、口の中なんてもうからからだ。

「あなたに説明してほしいのはね、どうやってそうしたのかじゃなくて、なんでそんなことしたかなの」

「なんでって――」

 そんなこと、言われても。

 私は思わず頬を掻くと、かりかりと小気味のよい音と共に白く小さな破片が剥がれ落ちる。歪に張り付けたものから開放される。違和感が無くなる。

 ちょっと目を剥くほどに気持ちが良い。

 呉田さんは鋭い視線を私に突き刺してくる。

 必要以上に私から目を離さないのは、私なんかを怖がっているからなのだと思う。

 あれだけ散々虐め倒してきたのに。

 私を、怖がっている。怯えている。危惧している。

「――呉田さんにご指導頂いた通り、私はもっと生まれ変わらなきゃと思ったんです。だから」

 呉田さんの額から、頬と、顎を伝って、汗が流れていくのが見て取れた。

「だから私は、卵になってみたんです」

 頬を掻く。また破片が落ちる。

 出勤前に全面に貼り付けてきた、破るべき殻。破るための殻。

「頭、おかしいんじゃないの……?」

 呉田さんの声に、震えが混じっていた。

 私は喉の奥が引き攣り、くつくつと笑いが湧き上がる。

 もう我慢できなくなって、私は手の指全てを自分の顔に突き立てた。呉田さんが息を呑む音が聞こえた。

 両手で隠れた私の口元が歪む。

 だから触らずとも、そこが剥がれ落ちた。


 掻き、むしる。


 ばりっ ばりばりばりっ ばりっばりっ


 貼り付けておいた卵の殻が、表皮とともにぽろぽろ零れ落ちていく。私はとんでもない興奮と快楽で卒倒しそうになりながら、取り憑かれたように指先で掻いて掻いて掻き続けた。

 指先の爪の中に殻が入る痛みさえ、気にならない。


 ぷつり、と指が入るところがあると気づく。


 柔らかい。指に力を入れる。まだ沈む。


 入れたくなる。破りたくなる。


 破らないと。


「あっはっはっはっはっははは――」


 楽しくて仕方がなかった。

 手首まで、ずるりと捩じ入れる。

 肘までだって、頑張ればいけそうだった。

 扉の向こうからはもう笑い声は聞こえなくなった。私が誰にも負けないくらいの大きさで笑っているからだ。殻が割れたらもう目も耳も口も鼻も関係ない。

 もっと大きな声を出したくて、掘り進めていく。

 ぐりぐりと力任せに穴と穴を拡げてつなげた。

 じきに呉田さんは、嘔吐し始めた。

 お昼の賄いのオムライスと胃液が混じった臭い。私にはもう目も耳も口も鼻もないけれど、何故かその吐瀉物の具合を仔細に感じ取れてしまう。

 汚いなあ、と思う。

 事務所を掃除させられるのは、どうせ私だ。

 腹が立った。私は見せつけるように拡げに拡げてぽっかり開いた暗い穴を、彼の怯えた目へと近づけた。


 全身に、力を入れる。


 その圧力で、穴からにゅるりと出た。


 私が生まれた。新しい私だった。


 輪郭も、首も、残りの殻をみちみちと破って這い出てくる。


 私だった破片が事務所の中飛び散っていた。もう気にしない。


 ああ、それにしても、今日はなんて清々しい日なのか。


 新たな私を目の当たりにしてもう一度嘔吐しようとする呉田さんを見下ろした私は、長く飛び出た新しい大きな口をいっぱいに開く。生まれたてだから粘液でぬめついて糸を引いていた。


 それから、一口で頬張った。

 ぶちぶちという食感。咀嚼した。

 声もしなくなったので、飲み下す。

 


 新しく生まれ落ちた私は、もう誰にも止められない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

殻を破りたいだけの人 八方鈴斗(Rinto) @rintoh0401

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画