聖女とJK
黒衛
第1話 隣の席の聖女
四月二十二日。水曜日。
入学式を終えてから早二週間が経過していた。
たとえどこかの国で戦争が起こっていようとも。
世界経済の中核を担うほどの要人が暗殺されていようとも。
あるいは狂信的な宗教団体の暴走が招いた事件がニュースで騒がれていようとも。
この私立天淵高校においては取り立てて何があるわけでもなく、普通の日常が続いている。
かくいう私は今日もそんな学校の生徒の一人として教室に溶け込んでいた。
「そしてこのオリエント文明は、紀元前一〇〇〇年頃になると――」
一年四組の教室。
今は四時間目の世界史の授業中だった。
今日のテーマである中東の歴史が黒板にカツカツと書かれていく。
他の教科と比べても、かなりの文字量だ。
私も必死で手を動かし、地中海あたりで栄えたという古代文明に関する情報をノートに書き写しているところでいよいよ書き間違えてしまった。
仕方なく鉛筆を置き、筆袋から消しゴムを取り出そうとする。
そこで初めて気が付いた。
――消しゴムがない。
そういえば昨日なくしてしまってから、新しいものを補給し忘れていた。
しかし、よりにもよって板書量の多い歴史の授業でそのことに気付いたのは致命的と言えた。私一人のちょっとしたアクシデントくらいで授業は止まらないし、時間が経つほど板書量はどんどん増えていく。ノートの遅れが致命的になる前に、なにか手を打たなければ。
ひとまず誰かに借りようか?
他者の時間を少なからず奪う行為ではある。
でも、そのくらいの支援体制は許されるはず。この学校という世界、ひいてはクラスメイトという関係性にあるわけだし――迷っている猶予はなかった。
すぐに隣を見る。
すると隣の席の生徒も、何故かちょうど私の方を見ていた。
艶のある黒髪を肩あたりまで伸ばした、柔らかそうな雰囲気の子だ。
「なにかお悩みのようですね」
その子は囁くように言った。
「え。いや……」
別に悩みというほどでもないのだけれど。
しかし気にしてくれているようなので、素直に甘えさせてもらうことにする。
私は言った。
「ごめん。消しゴムを貸してほしいんだけど……」
「ふふっ」
しかしその子は小さく微笑むと、手にしていたシャープペンシルを机に置く。
そして体ごと私の方へと向けた。
「あなたが望んでいるのは、本当にそんなことですか?」
「えっ」
隣の席の子は、授業中にもかかわらず私の方を真っすぐに見つめている。
その姿はやけに神々しく慈愛に満ちており、私の全てを受け入れてくれそうな深みのようなものを感じさせた。
とはいっても、私は別にそこまで大それたことを求めているわけではない。
「だから消しゴムを」
「恥ずかしがる必要はないんですよ?」
「恥ずかし……どういうこと?」
「話したいことがあるのでしょう? わたしでよければ聞かせていただきますよ」
「なんで?」
「わたしは聖女ですから」
そう口にすると、その子は両手を軽く広げるようにする。
まさに女神や聖母といった優しさを全身に纏い、飛び込めばすぐにでも抱きしめてくれそうな仕草で私の言葉を待っている。
「…………えっと」
私の隣の席にいる女子。
最初に声をかけたのは私の方だったように思うけど、それからというものの、この子は結構な頻度で私に絡んでくるようになった。まあ、それは別にいい。隣の席だし、自然な流れではあるんだろう。
特徴的なことと言えば、この子は自分を『聖女』だと言うことだ。
なんでも、こことは違う世界から転生(?)してきたのだという。
さて、高校生活が始まって――つまりこの子と隣の席になってから二週間。
隣の席なので話す機会はそこそこあるわけだけど、未だに決めかねていることがあった。
この聖女がどうとかいうノリに私がどこまで付き合えばいいのか、だ。
「…………」
まあ、なんでもいいか。
私は少しだけ考えた後、書き間違えた箇所を無視してノートをとることにした。
そう。今は世界史の授業中なのだ。
こうしている間にも先生による板書は進んでいく。黒板にはいつの間にか、初めて鉄器を使用したという民族のことが書かれていた――ん、これは。
微妙に興味深い話題だ。
「……はぁ」
思わずため息がもれる。
隣の席の子の相手をしていたせいで大事な話を聞き逃してしまった。
しかしここは私の判断ミスだろう。間違えた箇所の補修は授業が終わってからでもできた。現時点で無理に消しゴムを入手する必要はなかったのだ。
今ならまだ追いつけるかもしれない。
急いでノートを書かなければ。
「って無視しないでください!」
隣の席の聖女が大きな声をあげる。
「十束さん! ねえ十束さんってば!」
そして私の名前を連呼してきた。
しかし私は無視し、先生の話に耳を傾ける。
初めて鉄器を使用した民族の話。今しか聞けないのだ。
「ほら、難しく考えなくてもいいんですよ?」
聖女は私の横でまだ何か言っている。
「まずわたしのことを見てください。どうですか。見てのとおり明るく元気でしかもかわいいですよね? こんなわたしとのおしゃべりサービスを市場に出そうものなら、高額な基本料金に加えて色んな追加料金が発生することでしょう」
「…………」
「それが何気ない日常の中で普通に体験できる奇跡! 同じ学校の生徒で、しかも隣の席にいる十束さんだからこそ享受できている特権って実はものすごく大きいんですよ!」
「…………」
「加えてわたしは聖女です。みんなの聖女が、今ならなんと十束さんの独り占めです!」
――ガタガタガタッ。
隣で何かを動かすような激しい音がする。
ついそっちの方を見てしまうと、聖女が机ごと私に近づいてきた。
聖女の机が私の机にピッタリとくっ付けられる。
「……何してるの?」
「これは十束さんの妄想じゃありません。実体のある聖女です!」
「は?」
「ほら。試しに……わさってみますか?」
言いながら、聖女は私の真横で紺のスカートを軽くめくる。
太ももがあらわになった。
白い。すべすべでやわらかそうな質感が、見ただけで伝わってくる。
確かに金を払ってでも触りたい者もいるだろう。買い手となるのは、おそらく中年以上の男だ。けどここは女子高で、もちろん私だって聖女と同じ女子なわけで、特段そういう嗜好があるわけでもない。
「あっ、見てる見てる! わたしの足、食い入るように見ちゃってますね!」
聖女がニンマリと笑う。
「いいんですよ、我慢しなくても。突くでも撫でるでも、十束さんの好きなように」
「……うざっ」
「えっ」
聖女がふとももを晒したまま固まる。
「今、なんと?」
「…………」
「もしかして、うざいって言いました? え?」
別にこの子の相手をするのが嫌なわけではない。
聖女を名乗る割には(?)意外と明るいし、表情もコロコロ変わるから見ていて飽きない子だと思う。席が隣同士なので休み時間は喋ることも多いし、昼食を共にすることだってある。
私だってこの私立天淵高校の生徒で、一年四組の一員だ。
そのくらいの付き合いはわきまえている。
ただ、今は――
「十束さん! いいからわたしのふともも! さわってみてくださいよお!」
「おい」
そこで威厳のある声が教室に響く。
しーーん、と。
いつしか板書の音や授業の声は止んでいた。
一年四組の教室は水を打ったかのように静まりかえっている。
騒ぐ聖女を一声で黙らせたのは、世界史の授業をしていた先生だ。
「北沢」
「は、はい」
先生の言葉に、隣の席の聖女はビシッと背筋を伸ばした。
ちなみに先生達は聖女のことを北沢と呼ぶ。それが出席簿とかに書かれているであろう、この子の本名だから。
「さっきから何を騒いでいる?」
先生が厳しい声で言う。
そう。当たり前だけど、今は授業中だ。
それなのに聖女は普通のトーンで私に話しかけていたのだ。目立ちもする。
「あ……ええと」
聖女は挙動不審に視線をさ迷わせると。
私の方をチラリと見た。
「十束さんが、授業中にわたしのことずっと見てくるから……」
――は?
「どうしたのかな、って。そう思ってしまいまして」
この子、平然と私まで巻き込んできた。周りから「おお……」「またかよ」という感じのどこか楽しんでそうな声があがる。意味はわからない。
「そうなのか?」
先生が今度は私の方に視線を移す。
私は言った。
「いえ。今日は朝から一度も北沢さんの方を見ていません」
「十束さん!?」
先生がまた聖女の方を見る。
「十束はこう言っているが?」
「いや、だからこれは照れ隠しというか、つんでれの裏返しみたいなもので……そ、そう! 教科書! 十束さんが教科書を忘れてたようだから、見せてあげてたんです!」
「その割にはスカートをめくり、ふとももを見せて喜んでいたようだが?」
この先生、板書しながらそんなところまで気付いてたのか……
机をピッタリくっつけた隣で聖女が「なっ!?」と目を剥く。
「わたしは聖女ですよ! そんないかがわしいことするわけないじゃないですか!」
「していただろう。そもそも聖女とは何なんだ?」
先生が聖女を睨む。
その圧に聖女は「え……」とたじろいだ。
「もう一度聞く。お前がいつも得意げに名乗っている聖女とはなんだ。言ってみろ」
「それは、えと。め、め……がみの、かごを……」
「聞こえん。もっとはっきり言え」
「女神の加護を受けた聖なる少女のことで、女神みたいに崇められる存在です!」
先生かカツカツと黒板に『女神の加護を受けた~』と聖女の言ったことを何故かそのまま書き始める。
書き終えると、手を止めて聖女の方を振り返る。
「で?」
「で……で!? ええ、と……あの」
思わぬ続きの催促にしどろもどろになる聖女。
「ええと……無辜の民に、女神に代わって慈愛や祝福をもたらすという使命を与えられてて……罪に染まった人に、救いを……」
「なんだそれは」
そこで先生が冷めたように言う。
「本気で言っているのか? この世に救いなんかないぞ?」
「な……そんなことありませんっ!」
思わぬ反論にじわりと聖女の目が涙でにじむ。
「お前が何を主張したところで無駄だ。人類はいずれ滅ぶ」
「滅びません! わたしが救ってみせますからぁ……!」
先生らしからぬ物言い。
そういえばこの世界史の教員、世界の歴史は人類の滅びへの歴史であることを豪語する変わり者だった。
聖女はひぐっ、ひぐっと嗚咽を漏らす。
先生はその間も『無辜の民に~』と聖女の言葉を板書している。聖女が救おうとする人類がいかにして滅びゆくかを説くつもりなんだろう。授業の趣旨が変わってしまった。でも真面目な他の生徒達は黒板を見ながらノートにそれを書き写している。
私も一年四組の生徒の一人として、ノートを再開させることにした。
そんないつもの授業風景。
今日も平和な一日になりそうだった。
聖女とJK 黒衛 @mukokuro04
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