企画参加短編:『うちの上司は、「可愛い」が好きなのを止められない。』
江口たくや【新三国志連載中】
第1話 【受講案内】ハラスメント防止研修
「昨今、ハラスメントが顕在化してきた、などと言われることがありますが、それは大きな間違いです!」
女性講師が、もう二時間喋りっぱなしであることを全く感じさせないきりっとした表情で、会議室に並んだ社員たちを見渡した。
「今まで、見過ごされてきた様々な問題に対して、声を上げてきた人々の活動が今、ようやく言語化されてきた、という方が、むしろ正しいでしょう!」
メールで事前配布されていた資料には、定番のフレーズから、見たことも聞いたことも無いような仲間たちが揃っていた。
「こんなにあるのかよ……」
職場で起こりやすい十六のハラスメント、だそうだ。
セクシュアルハラスメント、アルコールハラスメント、モラルハラスメント、マタニティハラスメント、ソロハラスメント、ケアハラスメント、エイジハラスメント、ジェンダーハラスメント、レイシャルハラスメント、テクノロジーハラスメント、ロジカルハラスメント、リモートワークハラスメント、エンジョイハラスメント、カスタマーハラスメント、リクルートハラスメント、リストラハラスメント。
頭が痛い。
世の中には、これだけじゃなく五十を超えるハラスメントが存在するらしい。
「よくパンフレットなどには、『勇気をもってNOと言いましょう』などと書かれています。でも、そこでNOと言えるのならば、誰も苦労しません。言えなかったら我慢するしかないのでしょうか?」
女性講師が眼鏡の端を、くいっと上げた。言葉にも一層熱が入る。
「答えは『NO』です。しかしながら、力関係や、関係性がぎくしゃくしてしまうと思うと、なかなか言えませんよね。そういった場合、嫌だと言えないのは当然ですから、あなたはあなた自身を決して責めずに、話を聞いてくれそうな人に相談してみましょう」
講師がそう言って、パワーポイントのスライドを次のページに進めた。新聞記事のスクラップが出てくる。
「これは、数年前の出来事です。運送会社に所属していた、女性社員が、同僚の男性から名前を『ちゃん付け』で呼ばれた他、『可愛い』『体形が良いよね』などと言われ、損害賠償請求に発展した、というケースです」
会議室が少しだけどよめいた。『ちゃん付け』で呼ばれている社員は、知っているだけでも何人かいる。
「『ちゃん付け』で呼ぶことそのものがいけない、とわたくしは申し上げているのではありません。あくまでも一人一人が嫌だと感じることが、そこにあるとするならば、他の人にとってはそうではなくても、あなたにとってそれはセクハラなのです。自分の感じ方を否定する必要はありません。この線引きをすることで、全ての人々にとってハラスメントの無い、働きやすい会社が創られていくのです。それでは、本日の研修を終了とさせていただきます。皆様、ご多忙の中、ご清聴、ありがとうございました」
会場に拍手が響いた。昼過ぎから二時間コースの研修は久しぶりだった。
「お疲れさま。前田、ちゃんと起きてた?」
「なんだよ、俺は寝てる前提かよ」
同期の木下がへらへらしながら声をかけてきた。同期だが、別に仲良くは無い。
「参ったよ。お前と比べて、俺がモテすぎるのも、ハラスメントになっちゃうのかな」
「知らねー。けど、一回痛い目見とくのが良いんじゃねえの? じゃあまたな」
「おお。またな」
今日はこの後、三カ月に一度の個人面談が控えている。
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