ラッキーボーイ

七弐

(短編)

「九月十九日生まれ。九(苦しんで)一(逝)九(く)。俺は苦しみながら死ぬんだよ、きっと。」

そう言って、あいつは笑っていた。


胃癌だった。三年もたなかった。

最期は大量に血を吐いて、病室で死んだ。

九一九号室だった。

冗談みたいだと思った。

笑えるのは、たぶん俺だけだった。


あいつが死んで、一年が経つ。

バスの窓に、田舎の景色が流れていく。俺は今、1人でその景色をぼんやり眺めている。

膝の上のリュックには、ロープと、白いケーキの箱。

今日は九月十九日じゃない。


今日は、令和七年七月七日。

七七七(スリーセブン)。

俺が三十歳になる日だ。

30年前の七七七(スリーセブン)…平成七年七月七日に、俺は生まれた。

それだけで、俺は【ラッキーボーイ】になった。

周りからは「縁起が良い」だの「ギャンブル強そう」だの言われてきたが、あいつだけは違った。

あいつは俺にこう言った。

「人間の期待なんてさ、簡単に地獄に突き落とされるんだよ。なんでかって? 楽しいんだろ、〝誰か〟が。神だか悪魔だか知らねえけど、人の願いが砕ける様がよお、楽しくて仕方ないんだろうよ。だから言っとく。お前は“ラッキーボーイ”なんかじゃない。お前は俺以上に、苦しんで死ぬよ。だってその方が、面白いだろ?……ここ笑うとこだぜ?」

あの声が耳に残ったまま、バスが停まり、俺は見事に何もない停留所で降りた。


森のほうへ歩きながら、リュックの重さを意識する。

この雑木林の奥で、俺は今からひとり、誕生日ケーキを食べる。

それから首を吊って死ぬ。

30年ぶりの、七七七(スリーセブン)の誕生日。

今日が俺の命日だ。



夕方の森。

もうどれくらい歩いただろうか。

川の音と風のざわめきが重なり、世界がゆっくり崩れていくような気配がする。もう、これ以上歩くと死ぬのも面倒になりそうだった。

「この辺でいいか……」

適当な枝を探し、ロープを掛ける。

木に触れていると、子どもの頃の記憶が蘇ってきた。

子どもの頃木登りをした思い出。

まだあの頃は「俺はラッキーボーイだからへっちゃらだ」と妙な自信があり、上へ上へと1人で登り続けた。

地上にいる友人たちは「すげえ」と尊敬の眼差しで地面から俺を見上げていた。

途中、枝で手を切った。だがラッキーボーイの俺は、それを隠して登り続けた。

本当はすごく痛かったが。


そんなどうでもいいことを思い出しながら、リュックからケーキを取り出す。無難に、苺ショートにした。

ケーキを食べながら、昔家族で過ごした日々を思い出した。両親と3人で、食卓を囲む光景。

そんな両親も、俺が高校の頃事故で死んだ。

車ごと、潰れていた。

本当は、三人で出かける予定の日だった。

 

ケーキを食べ終え、立ち上がる。

先程括り付けたロープに、ゆっくり手をかける。

その瞬間。


――バキッ。


背後で枝が折れる音がした。

皮膚の上を、誰かの気配が這い上がる。

振り返れない。

風が吹く。

“誰かが横を通ったような”空気の揺れ。

倒れていくケーキの箱。

開くはずのない蓋が勝手に開き、中の蝋燭がコロコロと転がり出た。

その蝋燭の周りの枯れ葉が、一枚だけ「ガサッ」と音を立てた。

次の瞬間、ケーキの箱が――踏みつけられたように、ぐしゃりと潰れた。

息が止まる。

耳元で、確かな声がした。

「言ったろ。楽しんでるやつがいるんだよ。この世界には。」

振り返る。

誰もいない。

ただ、足跡だけがあった。

林の奥へ続いている、ひとり分の足跡。

――あいつなのか…?

胸が熱くなり、俺はロープを手に取る。

そのまま、首にかける。

「……今行くからな。」

視界が揺れる。

世界が縦に裂けるように、遠ざかる。


木登りをしたあの日の光景が、また蘇った――

俺は、最後の枝に足をかけようとしていた。

手を切って怪我をしていたが、それ以外は順調だった。

しかし突然、不自然に下から突き上げるように、木が揺れた。驚いた俺はバランスを崩し、呆気なく無様に地面へ落下した。

脚は折れ、顔は10針縫うことになった。

木が揺れた理由はわからなかった。

下にいた友人達は皆「木も地面も揺れてなんかない。お前が突然落ちたんだ。」と言った。

おかげで俺はラッキーボーイどころか、不運な間抜けということになってしまった。

まだ夢みがちだった子どもの頃の俺は、ショックだった。

しかしそんなときもあいつだけは、違ったんだ。

「お前さ、その怪我…木から落ちたんだってな。

何?木が突然揺れて落ちたのに、下にいたやつらは揺れてないって?ああ、そりゃ間違いないな。〝呪い〟だよ。誰が仕掛けたかはわからないが…まあ要は狙われたんだろうな。生きてるやつか死人かはわからねえけど、誰かがお前を狙って木から突き落としたんだ。そんな気にすることねえよ。お前は生きてるし、暇つぶしみたいなもんだよ、きっと。暇つぶしに呪われるなんて、お前すげえよ。ある意味ラッキーだよ。」

よくわからない励ましだったが、それがなんだか面白くて、俺は元気を取り戻せた。


あいつと出会えたことだけは、

ほんとうに、ほんとうに……


視界が消えると同時に、涙が落ちた…

その時。

――バキィッ。

木が突然、下から突き上げるように振動し、ロープを支える枝が折れた。

体が落ち、喉に走る激痛と、呼吸を取り戻す咳。

背後で木がきしむ。

ボヤける視界の中、あいつの笑顔が浮かんだ。

まさか、本当に、あいつが?

俺に、まだ死ぬなと言っているのか…?

俺は潰れた喉で、声をかけた。


「……生きろ、ってことか……?」


すると、優しい風が、俺の頬をすり抜けた。

落ち葉がゆっくり、弧を描き舞い上がる。

俺の生還を祝うかのように、森がざわついた。

気づけば、俺は泣きじゃくっていた。

俺のどうってことない人生を、皮肉を交えながらも肯定して応援してくれたあいつ。

そんなあいつと出会えた人生。

それは、疑いようもなく、〝ラッキー〟だった。

俺は、〝ラッキーボーイ〟だ。

涙を拭い、顔を上げた。

俺は、きっと今までで1番、迷いのない真っ直ぐな目をしているだろう。


「…生きるよ。

俺は、お前の分も、これからも……」


「生きてやるよ!!!」


そう叫んだ瞬間だった。

――ドガッ。

背後の大木が倒れ、俺の頭を叩き潰した。

世界が赤黒く染まる。衝撃で片目が飛び出し、意識が途切れそうになりながら、俺は倒れたまま空を見た。


そこに――“足”が立っていた。

日本軍の軍靴のような、古びた革の足元。

視界が傾き、声が出ない。

その“何者か”がしゃがみ込み、俺の顔を覗き込んだ。

軍服のような影。

表情は見えない。


(……だれ……)


喉でそう呟いた時、そいつは低く笑った。


「ほら。最後まで楽しませてくれよ。“ラッキーボーイ”。」


その声は、あいつの声ではなかった。

きっと俺たちが生まれた時から、ずっと側で俺たちを嘲笑っていた、“誰か”の声――

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