『明暗室の実験』

香森康人

明暗室の実験

 美女と二人で三日間。これはご褒美だろうか。

「優しくして下さいね」

 彼女の声は少し上ずっている。無理もない。心理学実験という名目ではあるが、見知らぬ男と監禁されるなんて恐怖でしかないだろう。

「心配無用だよ。ただこの部屋にいるだけでいいんだから、楽しい話でもして十万円もらって帰ればいい」

 実際僕は誠実な人間である。自分の欲求を相手の感情より優先させるなどありえない。

「私、あまり男性とお話したこともないので不安です。リードしてください」

 彼女は少し笑った。とても可愛い人だ。こんな実験に未成年が参加するはずがないが、とても幼く見える。腰くらいまである黒髪と美しい瞳を持っていた。ピンクのワンピースが良く似合う。

「リードだなんてやめてよ。まずは昼飯にしよう」

 この四角い部屋は一面真っ白の壁と床があり、天井にはぎっしりと蛍光灯が敷き詰められ、目が痛くなるほどの眩しさである。時計はなく、壁に埋め込む形の冷蔵庫と、洗面台がある。

 明室。彼らはそう呼んでいた。

 冷蔵庫には、二人分の食料が入っている。僕の名前、佐々木康司と、おそらく彼女の名前、石綿ゆみ、と書かれたラベルがはってあり、一日目昼から三日目昼まで一人七個ずつしっかりパッケージされている。

 初日昼はスパゲッティーだ。冷えて不味いが仕方ない。白い紙皿に乗った食事を白いプラスチックのフォークを使って二人で食べた。洗面台にあったコップを使って水道水を飲んだ。ゆみさんは、はじめ緊張していたが次第に打ち解けてくれた。大学生だという。

「私、得意なことも、やりたいこともないんです。生きる意味が希薄なんですよ」ゆみさんは力なく笑った。消極的な女性に特徴的な笑いである。

「思いもしないときに突然見つかるときもあるよ。やりたいこと」僕だってやりたいことなんて即答できなけれど、三十男の格好つけで偉そうなことを言った。

「一度もなかったです。そんな白馬の騎士みたいな出会い。きっと他人の言いなりで終わる人生ですよ。私なんて」

「やめときな。言霊って本当にあるから」

 ゆみさんは、それから好きな人の話をしてくれた。一方的な片思いだそうだ。僕も婚約者の話をしたら熱心に聞いていた。

 ただの素直で平凡などこにでもいる女子大生である。美しさは際立っているが、それだって都心を歩けばいくらでもいるだろう。

 ふと、もしかしたらゆみさんはサクラなのではと思った。彼女を通して僕にアクションを仕掛けてきて、どう反応するか。その心理を分析しようということだろう。面白い。ゲーム感覚での参加だし、ひねくれる事なく素直に思った通りに行動しよう。

 彼女がふと壁を見つめた。僕もそちらに目をやる。白い壁には、コの字型に曲げられた鉄の棒が打ち付けられてあり、それがハシゴとなって上に続いている。その先の天井には、潜水艦のハッチのような丸い扉がある。

 暗室。二階は真っ暗らしい。

「トイレだけ二階にあるらしいね」

「この部屋にあるよりはいいんじゃないですか?」

 ゆみさんは頬を赤くしてつぶやいた。確かにそのとおりである。

「ちょっと見に行こうか。何度も行かなくてはならない訳だし」僕は食べ終わった食器をまた冷蔵庫に戻した。

「・・・・・・そうですね、行っておきましょう」

「怖い?」

「ちょっとだけ。夜一人でトイレに行くのも苦手なんです」

 本当に子供である。


 僕が先に登り、ゆみさんがあとに続く。天井の丸い扉を押し開けるとハシゴのついたニメートル程の暗い通路が上に続いており、更にその上に同じような丸い扉があった。二重扉で完全に一階の光を絶とうということだろう。

 上の扉を開けるとそこは完全な闇だった。何にも見えない。光だけでなく、音もない。床は絨毯で音を吸収するのか足音もたたず声も響かない。

 後ろでまた扉の閉まる音がした。ゆみさんも暗室に入ったようだった。

「怖くない? 手でも繋ごうか?」

 返事はなかった。声も出ないくらい怖いのだろうか。それとも手を繋ぐというのが恥ずかしくて答えられなかったのか。まあどちらでもいい。早くトイレを見つけよう。

 壁沿いに歩き部屋の隅に様式のトイレを見つけた。当然ペーパーもしっかりある。

「トイレあったよ。ゆみさん」

 また返事がない。

 ここで、あれちょっと変だぞと思った。怖がっているゆみさんは、きっと早くトイレを見つけてこんなところから出たいはずだ。それなら声を掛け合ってお互いの居場所を常に確認しあい、協力して探そうとするはずである。それなのに、暗室に入ってからまるで消えてしまったように気配がない。もしかして明室に引き返してしまったのかなとも思ったけれど、それもない。僕が入った後、暗室の入口である丸い扉が閉まる音は一度しか聞いていないし、彼女が部屋に入ってくる気配があった。

 だとしたらあの臆病なゆみさんが、この暗闇のどこかで息を潜めてじっと佇んでいるということだろうか。

 少し寒気がした。

「ゆみさん・・・・・・、ゆみさん?」

 トイレを離れて手を前に伸ばし歩いてみた。

 ふいに指先に何かが触れた。ゆみさん、ではない。

 ロープ?

 ロープだった。藁が毛羽立ち、太めの頑丈なロープが宙に浮いているのだ。

「なんだこれは」思わず声が出る。

 ロープは天井に繋がっている。これを登って天井まで行けということなのか? 

 いや、違う。手で探ると、ロープの先は丸く輪っかになっている。

 これは・・・・・・、首吊り用のロープだ。

 反射的に手を引っ込める。なんでこんなものが。一体何のために? それにゆみさんはどこに行ったんだ?

「ゆみさん?」泣きそうな声で叫んだ。僕の声はすぐに消え失せ、また無音の闇に沈んだ。

「・・・・・・もう、降りましょうか」

 耳元で突然声がして、僕は三十センチほど飛び上がった。

「ゆみさん、いるなら返事してよね。聞こえてたでしょ? 僕の声」

 それに対する返事もなく、バタンとあの扉が閉まる音が聞こえた。

 一人で先に降りてしまった?

 首吊りロープと、いつまでも一緒にいたくなかった。これは頭に袋を被せられた死刑囚の見ている景色と同じではないか。僕は慌てて壁伝いに歩くと床の扉を見つけて、明室に逃げ込んだ。


「ごめんなさい、怖くて先に戻ってしまって」

 ゆみさんは、ペコリと頭を下げた。

 そんな彼女を、僕は眉をしかめて見つめた。なかなか息が整わない。

「僕も怖かったよ。ゆみさんが全然返事してくれないし。それにあの首吊りロープ、気がついた?」

「首吊りロープ?」顔が青ざめている。「あったんですか? 上に?」

「あった。部屋の真ん中にあった」

 ゆみさんは、座り込むと頭を抱えて黙り込んでしまった。僕は、そんな彼女を見下ろしながら、頭にこびりついた違和感を拭えずにいた。

 暗室での彼女のあの声。あれは暗闇に怯えている人間の声ではない。この恐怖でうずくまっている女が発した言葉とはどうしても思えない。でも、彼女の声だった。間違いない。

「落ち着こう。大丈夫、ただの心理学実験なんだから。外では精神科医や臨床心理士たちが見てるはずだし、危険なことなんてある訳ない。そうでしょう?」

 何とか言葉を絞り出す。彼女だけでなく、自分自身にも言い聞かせていた。

 それからお互いしばらく黙って座っていたけれど、ようやくゆみさんも顔を上げて話ができるまで回復した。腹が鳴ったので初日の夕飯を二人で食べた。冷えたざるうどんだった。時計がないから時間が分からず、もしかしたらまだ午後三時くらいかもしれないが、とにかく腹が減ったのだった。腹が満ちると眠気が襲ってきた。

「佐々木さん、どこで寝ます?」ゆみさんも眠そうだった。

「隅っこの方で適当に寝るからいいよ。気にしないで」

「この部屋で、寝るんですか?」

 え? 駄目なんですか?

「私、いくら実験とはいえ、男性と同じ部屋では寝れません」そう言い放った。

「待って、じゃあ僕一人で暗室で寝ろってこと? あんな首吊りの部屋で?」

「お願いします」

 これだから青い女は嫌だ。俺がお前に何かするとでも言うのか。ふざけるんじゃあないよ。

「分かったよ。上で寝る」これだから紳士は辛い。


 暗室は、二度目でもやはり薄気味悪い所だった。何があるか分からないのが一番嫌だから、僕は部屋の中を一通り手探りで歩いた。トイレ、僕の目の高さで輪っかを作ったあのロープ、そして木の椅子があった。椅子に座れるのが嬉しくて腰を下ろして寛いだが、この椅子は首を吊るための足台であることに気がついて離れた。

 絨毯は明室のフローリングよりも寝心地が良かった。それに何となく暖かい。気がついたら深い眠りについていた。

 

 ふと、顔を触られた。誰かの手が僕の顔を撫でている。体の上に乗っかってきて、優しく僕を抱きしめている。目を開けても何も見えないことに驚き、ここは暗室であることを思い出した。

「ゆみさんなの?」

 相変わらず返事はない。彼女は、僕の脇をさすりながら頬を寄せてきた。彼女の胸の膨らみを感じて、下半身が充血してくる。

「何をしてるのさ」

 彼女の唇は、僕の唇と触れるくらいの所にあった。吐く息で分かる。

 セックスがしたいのだろうか? 彼女はそんな積極的なタイプとは思えない。でもこの甘い匂いは性をむき出しにして、体を求めている女が出すもの。

 唇を少し突き出すと、触れた。柔らかかった。舌を出すと彼女のツルツルした歯にあたった。手を彼女の頭の後ろに回して抱き寄せたら、彼女の舌をしっかりと抱きしめることが出来た。甘い。若い女はこんなつばを吐くのか。僕には経験のないものだった。

 唇はしっかりと捕まえたまま、手を彼女の胸に添えた。綿のサラサラとした布地の下に柔らかい胸が触れた。

 もう止まらなかった。

 彼女を下にすると、上から思いっきり口を食べた。ワンピースをたくしあげ、胸をさらけ出すと乳首に吸い付いた。右に左にもう一度右に。手は絶え間なく揉むことを忘れない。そして顔に戻って唇を探しあてると、右手で陰部をさすった。絹のパンツはピンポイントで濡れていた。上から手を滑り込ませると、優しい手付きでツルンツルンと転がす。彼女の口からあえぎ声が漏れた。

 下着を剥ぎ取って口をつける。ムッとした匂いが鼻をつく。最初はちょっと躊躇ったけれど舐めているうちに段々その匂いが癖になってきた。若い女の匂い、こんな体験は二度とないかもしれない。存分に堪能しなければならない。

 彼女の液で濡れた指を、彼女の口に入れた。愛おしそうに指を舐め回してくれた。

 真実はいつも一つであるように、電車は終着駅に向かうように、歩みというのは一つの納得できる結論に向かわなければならない。

 僕の性器は彼女の性器に吸い込まれて、そのまましばらくの前後運動を繰り返した後、彼女の唾を口に求めながら僕は中で果てたのだった。

 彼女の上に倒れかかったまま、荒い息を吐いた。

 見ず知らずの若い女の子にどうしてこんなことをしてしまったのだろう。暗闇のせいで彼女の顔も表情も分からず、返事もしないから、知らないうちに大胆になってしまっていた。これでは夜中にベッドで行う自慰行為と同じではないか。彼女を物のように扱かったということなのか? 僕は。

 でも、そもそもはゆみさんである。僕の寝ているところにやってきて、抱きつき、さすり、熱い唇を近づけてきたのは。あそこまでしておいてそんな気が無かった訳があるまい。幼く見えるといっても二十歳を過ぎた立派な大人なのだ。そんな判断ができないはずがない。

 ・・・・・・でも、やっぱり中で出したのはやりすぎだったか。

 かける言葉が見つからずにいると、

「どいて」彼女の声がした。

 慌てて体をあげ、横にとびのく。昼とは声音が全く違う。彼女がのっそりと体を起こす気配があった。

「あの、大丈夫?」彼女の肩に手をあてると、震える声で聞いた。

「大丈夫? 大丈夫なわけないよね」

 ああ、やってしまった。こういう女は性に関してやたらと敏感だしヒステリーになる。自分から誘ってきた癖に全て僕のせいだと言うのだろうか。いずれにせよ彼女は怒っている。ここは謝らないとマズい。実験が終わったあとに下手したら逮捕される。でも、そもそもこの実験をした主催者にも問題がある。男女を同じ部屋に監禁したらこんな事故が起こることは十分に予想できるはずだし、それに対して何の対策もしていない。そうだ、奴らが悪いんだ。僕は、こんな極限状態に置かれて、精神が錯乱していた。暗闇の中で過ちがあっても、それは神経衰弱で処理されて然るべきだ。問題になったときは弁護士にしっかりとそこを伝えなければならない。

 そんなことばかり考えていた。

「あんたさ、私の体に何したの? 寝てるところに突然襲ってきてさ」

「襲ってきたって、君の方が僕のところにやってきたんじゃないか」

 その時、おぞましい声がした。発狂した人間、サイコパス、犯罪者、何だか分からないが普通の人間が出す声では無かった。鼓膜が破けるほど甲高く、敵意に満ちた声が僕の耳元で放たれた。嘘をつくな、そう言ったようだった。

「嘘をつくな、嘘をつくな、嘘をつくな!」

 僕は思わず後ろに倒れて尻もちをついた。何も見えない世界で、僕の目の前に悪魔がいる。この女はヤバい。

「嘘なんてついてない」夢遊病という言葉が頭に浮かぶ。もしかしたら彼女は、寝てる間、意識のないまま歩いてここまで来たのかもしれない。それなら確かに彼女に自覚はない。くそ、なんでそんなややこしい奴がよりにもよって。

「まだそんなことを言うか。私はいつお前に許可した、許した、求めた? お前が暗闇で勝手に私の体を弄んだんだろ、違うか、どうなんだ?」

 ああああ、という絶叫が響いた。この何もかもを吸収する部屋の中で。

「ごめん、僕が悪かった。許してくれ。君は悪くない。僕の不注意だった。だから頼むからもうそんな大声を出さないでくれ。君の声が怖くてたまらないんだよ」

「悪いと思うなら、さっさとそこで首を吊れ!」

 くびを、つれ? 

「待ってくれ、何を言ってる。僕に死ねというのか? そこまで言うことはないだろう」

「何の経験もない私をレイプして、そこまでではないだと? お前は結局何も謝ってなどいないんだ」

 首を吊れ、首を吊れ、首を吊れ、くびをつれ・・・・・・。

 耳元で繰り返されるその叫び。こいつの顔を殴り倒そうかとも思ったが、更に酷くなる追求を思うととてもそんなことはできなかった。

 堪らず駆け出して、暗闇の中を走った。壁に頭をぶつけた。痛い、ちくしょう。壁をつたいながら何とか明室に降りる扉を見つける。直ぐ側ではどこに行ったと狂ったように僕を呼ぶ声がした。

 早くここから逃げ出さなければ。扉を開けてハシゴに足をかける。靴で鉄棒を踏む音がした。

 そこにいるのか、と聞こえた。

 追ってくる。身の毛がよだった。何も見えない世界で追われるというのはこんなに恐ろしいことなのか。

 扉を閉めて急いでハシゴを降りる。上でまた扉が開く音がする。明室までもうすこし。ああ、でも明室についたからといって一体どうすればいいというのだろう。この密室に逃げ場などない。むしろ明るい部屋で彼女の顔を見るほうが恐ろしいとも思った。でも追われているから逃げるしかない。他に選択肢はない。

 明室の扉を開けると、まさしく刃物としか言いようなのない鋭い光が目を突き刺した。

 ううっ、くそ。

 目を閉じて降りるしかなかった。当然のように足を踏み外して結構な高さから床に叩きつけられた。頭も打った。痛みと同時に意識が薄れる。これはきっと現実逃避なんだ。そう思いながら僕は寝ていた。


 体をゆすられた。

 はっと目を覚ますと、ゆみさんが僕の隣に座っていた。ピンクのワンピースは乱れることなくすっぽりと彼女の体を覆っている。反射的に壁際まで飛び退いた。

「良かった。目が覚めた」

 ゆみさんは、胸に手を当てて心から安堵したように呟いた。

「ゆみさん? 大丈夫?」何よりもまずもう一度謝るべきだったのだ。でも、僕の一番気になることは、あの狂った女は本当にゆみさんだったのか、ということだった。ゆみさんには違いないのだが、あの変貌ぶりは一体・・・・・・。

「さっきは取り乱してごめんなさい。よくよく思い出してみれば、私の方から佐々木さんのところに行ったのかもしれません。私にも責任がありますよね。それなのに佐々木さんばかりを悪者にしてしまって、脅かして、怪我までさせてしまって本当にごめんなさい。痛かったですか?」

 後頭部に鈍い痛みがあった。血は出ていないが大きいタンコブが出来ている。だけど、痛みなんてどうでも良かった。

「いや、僕の方こそ悪かったよ。本当に心から謝る。申し訳ありませんでした」

 彼女の前で土下座した。初めての経験だった。そんなことで許してもらえるならいくらでもする。

「もういいんです、それで許します。顔を上げて下さい。朝ごはんを食べましょ。今日はざる蕎麦みたいですよ」

 ゆみさんは僕のところまで蕎麦の皿と麺つゆの入った紙コップを持ってくるとニッコリと笑った。

 もういい? そんなはずはない。さっき僕に首を吊れとまで言った彼女が土下座程度のパフォーマンスで許してくれるはずがないではないか。

 最初にゆみさんと暗室に行ったときの違和感を思い出した。あの時と似ている。もしかしたら彼女は二重人格なのかもしれない。満月で変身する狼男のように、暗闇でだけ姿を現す狂った女。普段は天使のようなゆみさんに覆い隠されて眠っている。

 人間とはつくづく恐ろしい。ゆみさんには好きな男がいると聞いたが、例え恋仲になったとしても、一度でも変貌したゆみさんを見られたら決して関係は続かないだろう。

 ゆみさんは蕎麦を食べ終わると大きくあくびをした。

「私、まだ眠いのでもう少し上で寝てきますね」彼女は目を擦りながらハシゴに足をかけた。

「ちょっと待って。ここで寝なよ。わざわざ暗室に行くこともないよ」

 彼女にはもうずっと明室にいてもらいたかった。暗闇は刺激が強すぎる。

「だって佐々木さんは起きてるんですよね? 男の人が見てる前では寝れないですよ」

「それなら僕が上にいる。眠くないけど別にいい。ゆみさんはここにいな」

「駄目です。さっきみたいなことは二度と起こってほしくないので。それに暗闇にも慣れました」

 ゆみさんは軽快な足取りでハシゴを登り消えていった。

 了解、どうしても行くと言うなら僕がずっとここにいればいいだけのこと。たった三日間、明かりに照らされ続けたってどうってことない。

 そう思ったが甘かった。生理現象がある。尿、便である。白状すると尿は洗面台で済ました。監視されてると思うと恥ずかしくて堪らないが、きっと外の連中も事情を話せば理解してくれるだろう。

 でも便はそうはいかない。洗面台で便は流せない。食器の皿に出すわけにもいかないし、包んでおくビニール袋もない。ティッシュもない。部屋の真ん中で便をして放置するほど羞恥心が壊れてはいなかった。

 暗室に行くしかない。ゆみさんが起きるまでかなり我慢して待ったが、彼女は嫌がらせのように降りて来なかった。結局彼女の待つ暗室に行くしかないのだった。

 重い足取りでハシゴを登る。後頭部の痛みが増してくる。

 暗室は静まり返っていた。寝息は聞こえない。ゆみさんの気配は全く感じない。

 とにかく急いだ。音を立てないように、寝ているかもしれないゆみさんを踏まないように一歩一歩慎重に歩いた。便座に無事着き、用を足し、立ち上がると勝手に水が流れた。大きな音が僕を凍りつかせる。パンツを上げるのも忘れて立ち尽くす。

 何も起こらない。大丈夫。寝てるんだ。このまま戻ろう。

 下着を上げようとしたところで、突然強い力で僕の睾丸が掴まれた。

 うっ。嗚咽がもれる。

「何をしに来た」

 耳元で声がした。

「パンツを下ろして、こんなものを晒して、お前は、一体、何をしに来た!」

 ああ、どうしてこんなことになってしまうんだろう。

「ウンチをしに来ただけなんだよ!」

 泣きながら叫んだ。

「嘘をつくな!」僕の声なんかよりも断然大きく、高く、狂った声が部屋に響いた。

 始まってしまった。もうダメだ。

 僕はうずくまって頭を抱えた。

「一度ならず二度までも私のことを襲いに来るなんて、お前は本当に反省してないんだな。そんなに私のことを傷つけたいのか? 苦しめたいのか? 嬲りたいのか?」

「ごめんなさい、そんなつもりは全く無いんです。許してください」

「申し訳ないと思うなら首を吊れ! 死んで詫びろ!」

 首を吊れ、は辞めてくれ。聞くだけで恐ろしい。

「それだけは勘弁してください。僕には婚約者がいるんです。彼女が悲しみます」

「そういえば、そう言ってたな」途端に静かな声に変わった。さっきまでの絶叫が嘘のような変わりようである。

「お前の婚約者はお前がこんな卑怯な人間だと知って付き合っているのか? それともお前と同じように卑怯な女で、卑怯者同士惹かれ合ったのか?」

「彼女は卑怯者なんかではありません。僕は卑怯な人間かもしれないですが、彼女は違います。僕には勿体ないくらいできた人なんです」

 女はしばらく間をおいてから、僕の耳元に唇を寄せてきた。

「嘘だね」

「嘘じゃない」僕は必死で頭を振った。

「卑怯な人間には卑怯な人間が寄ってくるのだよ。お前なんかにまともな女が心を許すはずが無いだろう。そう、無理なんだよ。そんな卑怯者と付き合っていても良いことなんて何もないんだ。お前にとって悪影響でしかない。別れなさい」

「彼女は卑怯者なんかじゃない」僕はそう叫びながら、最近の彼女のラインの返信が滞りがちになるのを思い出した。仕事だったから、友達と会っていたから。そう言うけれど本当にそうだろうか。返事くらい出来るのではないか。

 男と会っている?

 考えてみると、僕の親と彼女の親とでは残す財産に大きく隔たりがある。彼女は貧乏な家に育ち、僕は裕福な家に育った。今だって僕の親はたくさん稼いでいてマンションも沢山所有している。それらは一人っ子の僕にそのまま引き継がれることだろう。彼女の家にはそれがない。

 財産目当て?

 セックスだってそうだ。彼女はなかなか誘いに乗ってこない。二ケ月とか三ヶ月に一回くらいだ。珍しくその機会に恵まれても、必ずゴムをつけるよう僕に言う。それ無しの挿入は絶対に許してくれない。一度中で破れてしまったときがあって、あの時の怒り方、戸惑い方、泣き方はちょっと異常だった。翌日、婦人科に受診していた。

 僕のことを愛していない?

「ゆみさんの言うとおりかもしれません」

 気がつくとそうつぶやいていた。

「そう、そいつはお前のことなんかこれっぽっちも愛していないんだよ。お前のことを本当に思っているのは私だけだよ」

 ゆみさんの手が僕の頬をなでた。優しい手付きだった。その手に誘われて顔を上げると、僕の唇をゆみさんの唇が覆った。優しく舌を絡ませてくれた。

「別れます」僕はそう囁いた。

「そうそれが良い」

 ゆみさんは僕の手をとって立ち上がった。

「もう私も眠気は覚めた。下に降りよう」

 優しい声だった。そして、僕の手を引っ張り、下に連れて行こうとする。

「降りたくありません」

 手を引っ込めて抗った。あの優しい唇の感触が忘れられない。もう一度抱きしめて欲しい。愛してほしかった。

「そう、降りたくないの、良い子だね」ゆみさんは両腕を僕の頭の後ろに回し、僕の顔をその柔らかな胸に押し付けた。

 なんて幸せなんだろう。本当に僕を愛してくれているのでは無いだろうか。

 許されることなら、もう一度交わりたい。

「いいよ」彼女はふふっと微笑んで言った。「もう一回やらせてあげる」

 でも、首を、吊ってから、ね。

「はい」

 立ち上がると、手探りでロープを探りあてる。あった。少し高い位置にある。すかさず椅子が差し出された。椅子に乗ると輪っかは丁度顔の前に来た。

「もし死ななかったら、たっぷり可愛がってくれるのかな?」

「もちろん。死んでも可愛がってあげるよ。早くいきな」

「うん」

 輪っかを首にかける。あとは椅子を蹴っ飛ばせばそれまで。僕の三十二年の人生は終わる。特にやりたいこともなく、何となくな人生だった。そんなことよりも早くゆみさんに可愛がってもらいたい。

 目を閉じた。心が決まった。ぐっと歯を食いしばって足を踊りだそうとしたその時、瞼の外に強い光が見えた。目を開けると、暗室に眩しいくらいの明かりが灯っていた。白衣を着た男たちが四人ばかり集まって僕の体を支えており、もう一人年配で白髪の男が目の前に立っていた。

「いやあ、お疲れさまでした佐々木さん。これで実験は終了です」白髪の男が嬉しそうに手を差し伸べてきた。

「実験?」何が何だか分からない。心理学実験のことなど頭から消えていたから。

「ガスライティングっていう洗脳の実験だったんですよ。世の中スパイがはびこっていて、日本にも大量に入って来てますからね、尋問、拷問、洗脳っていうのはどうしても研究しなければならない分野なんですよ。勿論公にすると問題になりますから、内緒ですけどね。お察しのように石綿さんはサクラでした。実験の達成目標は、まず明室に降りたがらなくなること、次に首吊りロープに首をかけることでした。でも首吊りは流石に無理かと思いましたが彼女の手腕は見事でしたね。驚きました。実は彼女は応募してきた普通の大学生なんです。二十歳のね。一般の人でも、こちらが指示をすることで、洗脳する立場に容易になれるということもわかりましたよ。でもまさか本当にセックスし始めたときはこちらも腰を抜かしましてね。ちょっと腰を触られるとか、胸に手があたるとかそんなもんでいいという指示だったのに、しっかりやっちゃうんだもの。まあその分効果は抜群でしたがね。他にも強面の男性、老婆、人懐っこい男など、色んなグループを用意して比較したのですが、あなたのところが一番乗りでしたよ。やっぱり美女と暗闇というのは相性が良いんでしょうね。昔スタンフォード監獄実験というのがありましてね、それが・・・・・・」

 よくしゃべる男である。途中から何も頭に入ってこなかった。そんなことよりも僕は隣で泣いているゆみさんが気になって仕方なかった。

「なんで泣いてるの?」男の話を遮ってゆみさんに声をかけた。彼女は手で顔を覆いながら、頭を振った。

「いくら実験とはいえ、命令されていたとは言え、私は佐々木さんに酷いことを言い過ぎました」喘ぎながら彼女は言葉を紡いだ。

「謝ることない。僕だって悪かった」

「でも、首を吊って死ねなんて、そんな恐ろしいことを言ってしまって佐々木さんがどれだけ傷ついたことか。申し訳なくて涙が止まらないんです」

 ゆみさんは男たちが居なくなった後もずっと泣き続けていた。

 

 日常に帰って一ヶ月が過ぎた頃、ゆみさんから連絡があり、夕食をともにすることになった。

「私、やりたいこと見つかったんですよ」彼女は楽しそうに微笑んでいる。髪は少し茶色くなり、全体的に垢抜けていた。

「どんなこと?」

「それは秘密ですよ。大物になったら報告しますね」

「理想高いと挫折したときに辛いぞ、やめときな」

「そんな夢のないことを言わないで下さいよ。それに彼氏もできたんですよ、彼氏」とっても嬉しそうである。

「そうか、それは良かった。大切にしなよ」

 心に傷を負ってはいないようである。僕はそれが分かっただけで安心した。

 食事が終わり夜もふけてきた。僕らは駅まで歩き地下鉄に乗った。電車は満員で僕とゆみさんはお互い向き合って立ち、抱き合うような形になってしまった。でも大丈夫、もうすぐゆみさんの降りる駅である。

 その時、電車が大きく揺れて停止し、そのまま停電になった。車内は真っ暗である。スマホの明かりが僅かに社内を照らすがそれでもかなり暗い。

 僕らは突然また暗室に閉じ込められた。ゆみさんの匂いがする。柔らかい体が僕に触れている。あの時の記憶が蘇ってくる。居心地の良かったあの空間が。

「続きをするから私の家に来な」小声で囁かれた。

「行きます」この展開を待っていたんだ。


 天井からは藁の茶色いロープが垂れていた。あの部屋と同じである。窓はダンボールで覆われ黒いガムテープで目張りされ、電灯のスイッチやインターホンなどの本の小さな光にまで全て黒いガムテープが貼られている。暗室が再現されていた。

 ゆみさんは無慈悲に電気を消す。暗闇が訪れた。僕はコートを脱ぐことも忘れ立ったままじっとしていた。ゆみさんは僕の周りをぐるぐると回っている。

 小さな手が僕の顔を撫でたと思ったら強烈な張り手が飛んできた。覚悟なしの一発だったので、結構痛かった。

「私さ、妊娠したんだよ」低い声が部屋に響く。「お前のせいだよ、当然な。分かるだろ」

「僕のせいです。気の済むまで殴って下さい」僕は暗闇に頬を突き出した。拳、掌、脚、踵、はたまた鈍器、何が飛んでくるか分からなかったが全て受け入れるつもりだった。そんなことで許されるなら。

「痛い思いがしたいのか?」

「はい、したいです」

「そんなことで許されるか!」怒号が響く。耳元で。「私があのとき泣いてたのはな、お前が死ななかったからなんだよ、それが悔しくて血が出るほど唇を噛んでいたんだ」

 僕は快感で震えていた。この後に待っている甘い世界を想像して。

「いえ、許してください。何でもしますから」

「座りな」

 ゆみさんは、床に正座した僕の顔を抱きしめた。豊かな胸に鼻が沈む。いい匂いがした。僕も彼女の体を抱きしめた。幸せだ。

「本当に可愛い子だね。良い子だ。後にはキレイにしてあげるからね。死んでも可愛がってあげるから、約束する」

「どんな状態になっても」

「もちろんだよ。約束は必ず守る。さあ、早く逝ってきな。ここで待ってるから」

 僕は立ち上がりロープに手をかけた。ゆみさんからさっと椅子がさしだされる。登ってロープに首をかけた。もう途中で止めてくれる人はいない。僕が飛べばそれで本当に終わりだ。全て終わり。きっと痛みもないだろう。首吊りというのは苦しいように見えるが実は即死だという。即死というのは慈悲深い。ギロチンはあんなに禍々しいけれど、あれほど死ぬ人に優しい器具は無いだろう。切り損じも無ければ、自分から

「早くいけや!!」

 その声に後押されて反射的に椅子を蹴った。身体が宙に浮く。ロープが首にしまる。

 そして・・・・・・、そのまま床に落ちた。

 パッと電気がつく。仰向けに倒れた僕は天井のライトを見つめていた。

「佐々木さん大丈夫でした? 頭打ってないですか?」

 え? 死ななかったの?

 ロープの先には透明なガムテープが貼られているだけだった。てっきり釘で打ち付けてあるのかと思ったが。

「演技ですよ、演技。私が見つけたやりたかったこと」彼女は嬉しそうに微笑みながら私の首からロープを外した。「別人になるのがこんなに楽しいなんて思いませんでした。それにこんなに上手に出来るなんて。あの実験、結局ロープに首をかけたのは私達のグループだけだったようですよ。自信ついちゃって」

「でも妊娠したって・・・・・・」

「あれも嘘です」さらっと軽く言った。「それに恥ずかしいですけど、本当は初めてじゃなかったんです。彼氏には生理前に何度か避妊しないで許してて。だから正直何とも思ってないんです」

「じゃあ泣いてたのは」

「あれは本当に申し訳なかったなって思って。だって佐々木さん凄く惨めな顔してたんですもの。酷いことしたなって。でも今日会ったら結構元気そうだったので、もう一度あのときの鋭い感覚を掴みたくて誘ったんですよ。今度オーディション受けるんです。舞台の。それの最終試験のつもりだったんです。もし今日佐々木さんが綺麗に飛んだら私はきっと受かる。そう信じて頑張ったんですよ」

 ゆみさんは興奮してよく喋った。僕が飛んだのがよっぽど嬉しかったらしい。

「佐々木さんみたいな優しい方と知り合えて私は幸せです。人生変わりました。本当にありがとうございました」深く頭を下げてから、僕を見た。

「もうすぐ終電ですね、電車で帰ります? それともタクシー呼びましょうか? タクシー代くらい私が出しますよ」

 ねえ、ちょっと待ってよ。

「何ですか? 忘れ物ですか?」

 僕は死ぬ気で飛んだんだよ。三十二年の人生を捨てて飛んだんだよ。ご褒美は? どんな状態になっても可愛がってくれるって、約束、したよね?

「えっ、佐々木さん何言ってるんですか、だからあれは演技だって言ってるじゃないですか。おかしなこと言わないで下さいよ。佐々木さん、変な人だなぁ、もう」

 約束に嘘も本当もないよ。僕の三十二年は一晩や二晩程度ではとても釣り合わない。君はもう人生をかけて僕にご褒美しなくちゃいけないんだよ。

「ちょっと本当にどうしたんですか? 辞めてくださいよ。ちょっと、こっちに来ないでください。怖いじゃないですか。あっ、もしかして佐々木さんも演技の仕返しですか? です、よね・・・・・・」

 君も綺麗に飛んでくれるよね?

 部屋の電気を消した。暗闇が訪れた。


終わり

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『明暗室の実験』 香森康人 @komugishi

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