正しさが積もる音

済美 凛

第1話 正しさが積もる音

山崎がその言葉を口にしたとき、周囲の空気は一瞬で凍りついた。


「最近の若い奴らは、根性がないな」


冷房の効いた会議室に、湿った粘り気のある声が響く。

山崎自身、その言葉が自分の口から漏れ出た瞬間、微かな自己嫌悪を覚えたはずだった。

しかし、それ以上に強烈な快感が脳を支配した。

その一言は、思い通りに進まないプロジェクトの停滞も、部下たちの冷めた視線も、すべて「自分ではなく相手のせい」に書き換えてくれる魔法の呪文だったからだ。


​かつての山崎は、そんな男ではなかった。


三十年前、彼は組織の「希望」だった。


バブルの熱狂が冷めやらぬ頃、彼は誰よりも早く出社し、深夜まで明かりの消えないオフィスで孤独に数字と向き合っていた。


失敗すれば「私の指示が甘かった」と頭を下げ、手柄を立てれば「現場の粘り勝ちです」と部下を立てた。彼は、組織という巨大な機械を円滑に回すための、最も精巧で、かつ熱い心を持った歯車だった。


「山崎さんは使える」


上司たちのその言葉は、彼にとって最高の勲章だった。

努力は裏切らない。経験こそが絶対の価値である。

時間をかけて積み上げた専門知識と、泥臭い人間関係の構築こそが、ビジネスにおける唯一の正解だと信じて疑わなかった。

その自負こそが、彼を支える背骨だった。

​だが、時間は残酷な毒として、ゆっくりと彼を蝕んでいった。


四十代を過ぎ、課長、部長と肩書きが変わるにつれ、周囲の風景は変質した。

かつてのように肩を叩き合う同僚はいなくなり、代わりに深く丁寧な一礼と、洗練された敬語が彼を取り囲むようになった。


「部長、こちらで進めてよろしいでしょうか」

「ご判断を仰ぎたく存じます」


最初は窮屈に感じていたはずのその距離感が、いつの間にか心地よい毛布のように彼を包み込んだ。

自分はこれだけの修羅場を潜り抜けてきたのだ。

敬意を払われるのは、当然の報いではないか。

そう思うようになったとき、彼は自分と外の世界を隔てる透明な壁の存在に気づけなくなっていた。


​会議室での山崎は、王だった。


彼が口を開けば、若手たちは一斉にペンを走らせる。

彼が自慢げに過去の成功体験を語る間、誰も口を挟まない。


「それは少し違うと思います」


そんな言葉は、いつの間にか死語になっていた。

代わりに並ぶのは、「勉強になります」「参考にさせていただきます」という、無色透明な同意の言葉ばかりだ。

山崎はそれを、自らの指導が完璧であり、部下たちが心から納得している証拠だと解釈した。

実際には、部下たちは納得していたわけではない。ただ、山崎という「正論の壁」に立ち向かう労力を放棄しただけだった。

彼の知識は、Windowsが普及する前の古いOSのまま止まっている。

しかし、それを指摘すれば、時代錯誤な精神論という名のアップデートを強制される。

それを避けるために、人々は敬語という名の防護服をまとい、彼との間に絶対的な距離を築いた。


​敬語は、山崎を正当化する鎧となった。


理由を語る必要はなくなった。

「俺がこう言っているんだから、間違いない」という傲慢さが、丁寧な言葉遣いの裏側に隠されていった。彼はもはや、自分の判断が正しいかどうかを検証することすら止めてしまった。

過去に一度だけうまくいった方法を、どんな新しい問題にも無理やり当てはめる。


「俺の時代はこうだった」

「とにかく、やってみれば分かる」

「言われた通りにしろ」


思考を放棄した彼の言葉は、もはや指導ではなく、単なる「音」として空間を滑り落ちていった。


​その結末として届いたのが、エース候補だった若手・佐藤の退職届だった。


「成長を感じられないため」


その短い一文を読んだとき、山崎は激しい怒りに震えた。教えてきたはずだ。

導いてきたはずだ。自分の貴重な時間を割いて、経験という名の宝を分けてやったはずだ。

恩知らずめ。そう吐き捨てた山崎の背中は、夕暮れのオフィスで酷く小さく見えた。

彼が教えたのは、特定の状況でしか通用しない「古いやり方」であって、未知の状況に対処するための「考え方」ではなかった。

なぜなら、彼自身がもう、考えることを止めていたからだ。


​老害は、こうして完成する。


本人に悪意はない。

むしろ、これまでの人生を懸命に生き、組織のために尽くしてきたという自負がある。

その善意と自負こそが、誰の意見も届かない強固な城壁を作り上げる。

否定される機会を奪われ続けた人間は、自らの正しさという名の肥大した影に飲み込まれていく。

​しかし、そんな山崎の「完成された世界」を壊す出来事が起こる。


会社が導入した新しいコミュニケーション・ガイドライン。


それは「年齢・役職を問わず、全社員が互いに敬語を用いること」というものだった。

山崎は最初、鼻で笑った。自分は既に敬語を使われている。何を今さら。

だが、ルールの本質は逆だった。


「山崎部長、これから部下の方々と話す際は、必ず丁寧な言葉を選び、命令ではなく『提案』と『質問』の形をとってください」


人事部の若手にそう告げられたとき、山崎は猛烈な屈辱を感じた。

なぜ、実績のある自分が、昨日今日入ったような若造に気を使わなければならないのか。


​その日の午後、彼は新しいプロジェクトの資料を持ってきた入社二年目の河野という女性社員と向き合った。

いつもなら、「おい、これじゃダメだ。作り直せ」と一言で済ませる場面だ。

しかし、社内には「敬語警察」と呼ばれる監査役が目を光らせている。

山崎は、喉まで出かかった怒鳴り声を飲み込み、慣れない言葉を絞り出した。


「河野さん……この資料の、三ページ目のグラフについてですが……意図を説明していただけますか」


​その瞬間、山崎の胸に奇妙な動悸が走った。

「説明しろ」という命令は、答えをこちらが持っている前提の言葉だ。

しかし「説明していただけますか」という問いかけは、主導権を相手に渡す行為だ。

それは、相手の論理が自分の理解を超えている可能性を、暗に認めることでもあった。

逃げ場がない。

敬語というフィルターを通すことで、彼を支えていた「年齢」という鎧が、急速に熱を失い、ただの重りへと変わっていく。

​河野は驚いたように目を見開いたが、すぐにタブレットを操作し、静かに、しかし熱のこもった声で話し始めた。


「はい。このセグメントは、従来の四十代男性ではなく、SNSを通じて情報を収集するZ世代の女性層をターゲットに設計しています。部長が仰っていた『信頼感』よりも、こちらの『共感性』を重視した方が、シェア率が12%向上するというシミュレーション結果が出ておりまして……」


彼女が口にした専門用語の半分以上を、山崎は理解できなかった。


彼女が見せているデータは、山崎が「机上の空論」と切り捨てていた最新の解析ツールによって導き出された、極めて残酷で、かつ正確な現実だった。

​山崎は、自分の手が微かに震えていることに気づいた。

自分が「センスがない」と切り捨てていたものの正体は、自分が理解することを怠っていた「新しい正解」だった。

自分は正しい方向を示していると思っていた。

だが実際には、地図も持たずに過去の記憶だけを頼りに、若い世代を崖っぷちへと引きずり回していただけだったのではないか。


「申し訳ありませんが……その、シミュレーションというものの仕組みを、私にも分かるように教えていただけますか」


​言葉にした瞬間、長い間、埃を被っていた心の奥底の扉が、軋んだ音を立てて開いた。

それは、かつて新入社員だった頃の彼が持っていた「知りたい」という渇望だった。


「分かりません」


その一言は、彼を王座から引きずり下ろした。

しかし同時に、彼を「老害」という牢獄から解き放った。

河野の表情から、警戒の色が消えた。

彼女は一人の先輩を教え導くように、丁寧な言葉で説明を続けた。その対等な言葉のやり取りの中で、山崎は初めて、自分がどれほど孤独だったかを思い知った。

敬語で守られ、敬語で遠ざけられ、誰とも繋がれないまま、ただ自分の正しさだけを肥大させていた

日々。


​老害は、年齢によって生まれるものではない。


それは、敬語と序列という構造が、長い時間をかけて作り上げる「対話の拒絶」の産物だ。

しかし、その敬語が「分け隔てなく」使われるとき、それは権威を隠すための布ではなく、自分自身を映し出す「鏡」になる。

鏡に映った自分は、決して完璧ではなかった。


時代遅れで、無知で、臆病な老人だ。


だが、鏡は残酷なまでに平等だ。自分が未熟であることを認めさえすれば、そこから再び歩き始めることができる。

​山崎は、会議を終えた後の静かなオフィスで、自分のデスクを見つめた。

そこには、かつての栄光の象徴であるトロフィーや賞状が並んでいる。彼はそれらを、ゆっくりとカバンに仕舞い込んだ。

彼がこれから戦うべき相手は、ライバル企業でも、反抗的な若手でもない。


「自分はもう完成した」と思い込もうとする、自分自身の心の弱さだ。


「山崎部長、お疲れ様です」


通りがかった部下が、いつものように丁寧な敬語で声をかけてきた。

山崎は、立ち上がり、腰を深く折って答えた。


「お疲れ様です。……先ほどの件、明日また詳しく教えてください。勉強させていただきます」


​相手の目には、明らかな困惑と、そして微かな期待の色が浮かんだ。


老害は、完成しなかった。


構造が途中で折れ、崩れた瓦礫の中から、かつての「有能な男」が再び這い出してきたからだ。

物語は、ここから先も続く。

人は、学びを止めた瞬間に老いるが、問い続ける限り、何度でも新しく生まれ変わることができる。


山崎は、少しだけ軽くなったカバンを手に、夜の街へと踏み出した。冷たい夜風が、彼の火照った頬に心地よく触れた。それは、長い冬が終わり、新しい季節が始まる予感に満ちていた。


​彼は歩きながら、ふと考えた。


明日、佐藤に連絡をしてみようか。


謝るためではない。今の自分が、どれほど無知であるかを報告するために。

そして、彼が見ていた景色を、もう一度だけ、対等な言葉で語り合うために。


一歩、また一歩。


積み上げてきた経験という重荷を、彼は「武器」ではなく「土台」へと変えていく。

その背中は、もはや孤独ではなかった。

​老害という病の特効薬は、特効薬などではなく、ただの「対話」だった。


鏡に映る自分を直視し、他者の言葉を自分の血肉とする。

その単純で、しかし最も困難な作業を、山崎は一生をかけて続けていくだろう。

暗闇の中に、確かな光が見えた。

彼は、もう二度と「完成」することを選ばない。

未完成のまま、どこまでも歩いていけるからだ。

夜空に浮かぶ月は、満ちては欠ける。

その不完全な輝きこそが、生きている証なのだと、今の山崎なら心から信じることができた。

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