月と泥

河村 恵

第1話

久助は夜道を急いでいた。

こんな時間になる予定ではなかった。

真っ暗な山道を降りれば、もう我が家が見えてくる。

家で病に臥している婆のことが目に浮かんだ。

「あと少し」

ヘッドライトの先に何かの影が見えた。

「こんな時間にだれだ…」

町の若い衆かと目を凝らすと、見たことのない大男だった。

髪は乱れ、頬には大きな傷跡があった。

眉は垂れ下がり、頬はひきつれ、鼻はただれたような皮膚があるばかり。顔全体に泥を厚く盛ったようで、その泥の裂け目から白目の大きな目玉がぎょろぎょろしていた。

久助の車の方を一瞬だけ見ると、四つ足で走り去っていった。

「か、か、怪物だー」

久助は大きくハンドルを切った。山道を外れ、ガードレールを突き破り、暗い崖に落ちて行った。


『怪物』はすぐに引き返すと、車を追いかけて崖を落ちていく。

ひしゃげた車をこじ開けて、中からぐったりした男を引きずり出してかついだ。

車のミラーに映った自分の姿を見て、頬に手を当てた。男の帽子を自分の頭に乗せて、車の中に畳まれていた布切れを顔の下半分に巻きつけた。

男を担いだまま、一軒の家に入った。

そこは病院だった。

男を長椅子に寝かせると、わらわらと人が集まってきた。

「大丈夫かー」

そういうと、口元に耳を寄せて、頷いた。「呼吸あり。すぐ、処置室へ」

運ばれていく男の姿を見届けると、『怪物』はその場から去った。


翌日、男は意識を取り戻し、自分が見た『怪物』の話を人々にした。

人々は半信半疑だった。男が頭を強打しておかしくなったという者もいた。

だが、寄り合いで長老の発言を聞くと人々は一気に変わった。

車が崖に落ちた時、男を助ける者がいた。

ただし、それはこの町のものではなかった。

異様に大きく、人のようで人でなく、時に四つ足で歩いた、という。

長老の話で一気に信憑性を増し、『怪物』を総出で探すことになった。

『怪物』はすぐに見つかった。その見た目に町の人々は目を背けたが、車ごと崖から落ちて助けられた男の他にも、幾人もを救ってきたことがわかり、次第に認められるようになっていった。

男は町の外れ、廃棄された炭焼き小屋に住むことを許された。町の人々は、男の顔を見ないようにしながら、時折、余った野菜や古い服を小屋の前に置くようになった。男はそれらを拾い上げ、深々と山に向かって頭を下げるのだった。

 その町には、美しい娘、沙織がいた。  彼女は、町の人々が向ける称賛の眼差しに、いつも冷ややかな疎外感を感じていた。美しすぎるがゆえに、誰も彼女の本質を見ようとはしない。彼女は、町の人々が『怪物』と呼びながらも、どこか聖者のように扱う男に惹かれていった。

 ある夕暮れ、沙織は炭焼き小屋を訪れた。

「あなたに、お礼がしたくて」  

男は小屋の隅で背を向け、うめき声のような低い声で拒絶した。

「帰れ。……俺を見るな。あんたの目が汚れる」

「目は汚れません。汚れるのは、見ようとしない心だけです」

 沙織は通い続けた。一度、二度、十度。

やがて男は少しずつ、その醜い顔を彼女に向けるようになった。彼女の瞳には、嫌悪も恐怖もなかった。ただ、静かな慈しみだけがあった。

 男は震えた。歓喜ではなく、絶望に。  

彼女が優しければ優しいほど、自分の顔の醜さが際立つのを感じた。

彼女は白磁のような肌を持ち、自分は泥のようだと言った。

彼女は天の月であり、自分は地に這う虫だ。

「二度と、ここへ来てはいけない」  

冬の入り口、ついに男は決断した。

「君の美しさは、この町のものだ。俺のような影が隣にいては、君の光が死んでしまう」

「私は光などではありません。ただの人間です」

「違う!」  

男は、傍らにあった古びた手鏡を彼女に突きつけた。

「これを見ろ。これが現実だ。俺の顔と、君の顔を並べてみろ。これが、神が決めた境界線だ。俺たちは、交わってはいけない生き物なんだ」

 沙織は鏡を見た。そこには、完璧な均衡を保った自分の顔と、崩れた土くれのような男の顔が並んでいた。  

沈黙が小屋を支配した。風が隙間から入り込み、ランプの火を揺らした。

 次の瞬間、沙織は男の手から鏡を奪い取ると、それを床の岩に叩きつけた。  

パリン、と鋭い音が響き、鏡は破片となって散った。  彼女はその中の一際鋭い破片を拾い上げると、迷うことなく自らの頬に突き立てた。

「ああ……!」  

男が制止するよりも早く、銀色の刃が彼女の白い肌を裂いた。  一文字。男の傷と同じ場所をなぞるように、深い紅色の線が走る。鮮血が溢れ出し、彼女の白皙の顔を汚していく。  

男は絶句し、膝をついた。彼女は痛みに顔を歪めることもなく、ただうっとりとした、狂おしいほどの微笑を浮かべていた。

「これで、同じ」  彼女は血の滴る手で男の頬を撫でた。 「これで、もう鏡を見る必要はないわ。あなたの痛みも、あなたの醜さも、全部私のもの。私を『光』から解放してくれたのは、あなたなのよ」

 男は泣いた。生まれて初めて、声にならない慟哭を上げた。  彼女の頬に咲いた赤い傷は、男にとって世界で最も恐ろしく、そして最も美しい救いだった。もはや境界線は消えた。美しさと醜さは、血の中で溶け合った。

 翌朝、町の人々が炭焼き小屋へ向かった時、そこには誰もいなかった。  

ただ、床には砕け散った鏡の破片と、乾いた血の跡が残されているだけだった。  

外には、深い山へと続く二人の足跡があった。一つは大きく重く、一つは小さく覚束ない。しかし、その歩幅はぴたりと重なり、決して離れることなく、白く煙る嶺の向こうへと消えていた。

 町一番の美女と、山から来た男。  

二人の行方を知る者はいない。



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月と泥 河村 恵 @megumi-kawamura

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