第一部 第10話 境界の奥で、影は逃げる

 境界を越えた瞬間、森の色が変わった。


 同じ木々、同じ土のはずなのに、どこか輪郭がぼやけて見える。音はあるのに遠く、風は吹いているのに、肌に届くまでに一拍遅れる。


「……静かすぎる」


 リシェルが小さく呟いた。


 ゆうも頷く。この場所は、音が少ないのではない。

 “受け取られていない”のだ。

 魔力も、気配も、ここでいったん滞り、行き場を失っている。


 もふは、ゆうの肩で身体を強張らせていた。胸の結晶が、淡く、しかし不規則に明滅している。


「きゅ……」


「大丈夫だよ」


 ゆうは小さく声をかける。

 だが、その言葉が自分自身に向けたものだと、すぐに気づいた。



 最初に気づいたのは、セレスだった。


「……いるわ」


 彼女の視線の先、木々の影がわずかに揺れた。


 黒い。


 霧のようで、輪郭を持ち、確かに“生きている”何か。


 もふ族に似た丸い身体。

 だが胸の結晶は、黒く濁り、光を拒むように沈んでいる。


「……影、もふ族……」


 セレスの声は低かった。


「侵食が進んだ姿よ。魔力の循環から外れ、ここに留まるしかなくなった存在」


 その瞬間、影もふ族がこちらを見た。


 ――目が合った。


 ゆうは、息を呑む。


 敵意はない。あるのは、恐怖と、困惑と、逃げ場を探す視線。


「……待って!」


 反射的に声が出た。


 だが、影もふ族は一斉に身を翻し、森の奥へと逃げていく。


 音もなく、霧が散るように。



「今の……」


 リシェルが弓を下ろしたまま、呟いた。


「襲ってこなかった」


「ええ」


 セレスは唇を噛む。


「敵対行動は一切なし。むしろ、こちらを“危険”と判断した可能性が高いわ」


 ゆうは、足元を見つめていた。


 胸の奥に、重たいものが沈んでいる。


「……料理、出そうとしたのに」


 革袋に手を伸ばしかけて、止める。


 出したところで、受け取ってもらえない。それは、はっきりと分かっていた。



 その夜、焚き火を囲んでも、森は静かなままだった。


 火の揺らめきが、周囲に広がらない。

 まるで、この場所そのものが、温もりを拒んでいるようだった。


「……ねえ、ゆう」


 リシェルが、少し迷ってから口を開く。


「助けられない相手も、いるのかな」


 ゆうは、すぐに答えられなかった。


 包丁を握る手が、わずかに強ばる。


「分からない……でも」


 言葉を探しながら、続ける。


「さっきの目……あれは、敵の目じゃなかった」


 セレスが、静かに頷いた。


「ええ。彼らは、壊れているんじゃない。……追い詰められている」



 もふが、焚き火の向こうを見つめて鳴いた。


「きゅ……」


 影もふ族が逃げた方向。


 そこに、まだ“声”がある。

 料理では届かないかもしれない。

 それでも、完全に拒絶されたわけではない。


 ゆうは、焚き火に薪をくべた。


「……逃げられた、ってことは」


 小さく、しかしはっきりと言う。


「近づく余地が、あるってことだ」


 誰に言うでもなく。自分自身に、言い聞かせるように。


 焚き火の火は、相変わらず遠く感じられた。


 それでも――


 闇の奥で、何かがこちらを見ている気配は、消えていなかった。

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