第一部 第10話 境界の奥で、影は逃げる
境界を越えた瞬間、森の色が変わった。
同じ木々、同じ土のはずなのに、どこか輪郭がぼやけて見える。音はあるのに遠く、風は吹いているのに、肌に届くまでに一拍遅れる。
「……静かすぎる」
リシェルが小さく呟いた。
ゆうも頷く。この場所は、音が少ないのではない。
“受け取られていない”のだ。
魔力も、気配も、ここでいったん滞り、行き場を失っている。
もふは、ゆうの肩で身体を強張らせていた。胸の結晶が、淡く、しかし不規則に明滅している。
「きゅ……」
「大丈夫だよ」
ゆうは小さく声をかける。
だが、その言葉が自分自身に向けたものだと、すぐに気づいた。
◆
最初に気づいたのは、セレスだった。
「……いるわ」
彼女の視線の先、木々の影がわずかに揺れた。
黒い。
霧のようで、輪郭を持ち、確かに“生きている”何か。
もふ族に似た丸い身体。
だが胸の結晶は、黒く濁り、光を拒むように沈んでいる。
「……影、もふ族……」
セレスの声は低かった。
「侵食が進んだ姿よ。魔力の循環から外れ、ここに留まるしかなくなった存在」
その瞬間、影もふ族がこちらを見た。
――目が合った。
ゆうは、息を呑む。
敵意はない。あるのは、恐怖と、困惑と、逃げ場を探す視線。
「……待って!」
反射的に声が出た。
だが、影もふ族は一斉に身を翻し、森の奥へと逃げていく。
音もなく、霧が散るように。
◆
「今の……」
リシェルが弓を下ろしたまま、呟いた。
「襲ってこなかった」
「ええ」
セレスは唇を噛む。
「敵対行動は一切なし。むしろ、こちらを“危険”と判断した可能性が高いわ」
ゆうは、足元を見つめていた。
胸の奥に、重たいものが沈んでいる。
「……料理、出そうとしたのに」
革袋に手を伸ばしかけて、止める。
出したところで、受け取ってもらえない。それは、はっきりと分かっていた。
◆
その夜、焚き火を囲んでも、森は静かなままだった。
火の揺らめきが、周囲に広がらない。
まるで、この場所そのものが、温もりを拒んでいるようだった。
「……ねえ、ゆう」
リシェルが、少し迷ってから口を開く。
「助けられない相手も、いるのかな」
ゆうは、すぐに答えられなかった。
包丁を握る手が、わずかに強ばる。
「分からない……でも」
言葉を探しながら、続ける。
「さっきの目……あれは、敵の目じゃなかった」
セレスが、静かに頷いた。
「ええ。彼らは、壊れているんじゃない。……追い詰められている」
◆
もふが、焚き火の向こうを見つめて鳴いた。
「きゅ……」
影もふ族が逃げた方向。
そこに、まだ“声”がある。
料理では届かないかもしれない。
それでも、完全に拒絶されたわけではない。
ゆうは、焚き火に薪をくべた。
「……逃げられた、ってことは」
小さく、しかしはっきりと言う。
「近づく余地が、あるってことだ」
誰に言うでもなく。自分自身に、言い聞かせるように。
焚き火の火は、相変わらず遠く感じられた。
それでも――
闇の奥で、何かがこちらを見ている気配は、消えていなかった。
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