調律の料理人ゆう 〜世界を癒す光のごはん〜

灯乃しんわ

第一部 第1話:異世界の森と最初の料理

第1話 異世界の森と最初の料理


 鼻先をくすぐるのは、土と葉と、わずかに甘い果実の匂いだった。


 目を開けた瞬間、ゆうは自分が深い森の中に倒れていることを理解した。空は高く、木々はどれも日本で見たことのない姿をしている。幹は淡く光り、葉はゆっくりと呼吸するように揺れていた。


「……ここ、どこだ?」


 声に出した途端、胸の奥に小さな不安が生まれる。


 夢ではない。そう感じたのは、背中に伝わる冷たい地面の感触と、耳元で鳴く見知らぬ虫の声が、あまりにも現実的だったからだ。


 料理人・結城悠。戦えない。魔法も使えない。ただ、人より少し料理が好きなだけの、ごく普通の人間。


 ――そんな自分が、なぜここにいる?


 立ち上がろうとして、足元に革袋があることに気づいた。中には、見慣れた包丁と簡易調理道具。


 それを見た瞬間、胸の奥が少しだけ落ち着く。


「……これがあれば、なんとかなる」


 根拠はない。それでも、包丁を握った手は不思議と震えなかった。


 しばらく森を歩くと、小さな影が木陰からこちらをうかがっていることに気づいた。丸い耳、ふわふわの尻尾。怯えと空腹を同時に抱えた瞳。


 ゆうが意識を向けた瞬間、視界の端に淡い文字が浮かび上がる。


【種族:もふ族(幼体)】 【状態:魔力不調和/強い空腹】


 ――読める。


 驚きはあったが、恐怖はなかった。相手の“在り方”と“今の状態”が、料理人として素材を見る感覚に近い形で伝わってくる。


「……お腹、空いてるんだよな」


 ゆうは地面に腰を下ろし、森で拾った木の実と澄んだ水を鍋に入れた。


 包丁を握った瞬間、世界が静まる。


 切る。洗う。煮る。その一つひとつの動作に、無意識のうちに“整える”意識を込めていた。


 鍋から立ちのぼる香りは、どこか懐かしく、柔らかい。


 完成した料理を差し出すと、もふ族の子は恐る恐る口に運んだ。


 次の瞬間。


 乱れていた気配が、静かな波紋のように整っていくのを、ゆうははっきりと感じ取った。


「……やっぱり」


 料理は、ただ腹を満たすものじゃない。心を癒し、生きる力を取り戻させるものだ。


 それが、この世界では――魔力すらも整える。


 もふ族の子は、安心しきった表情で尻尾を揺らしている。


 ゆうは森の奥を見つめ、静かに息を吐いた。


 もふ族の子は、安心しきった表情で尻尾を揺らしている。その胸から伝わってくる魔力は、先ほどまでの不安定さが嘘のように、穏やかだった。


 ――食べただけで、ここまで変わる。


 ゆうは自分の手を見つめる。包丁を握り、鍋を火にかけ、ただ“美味しいものを作った”だけのはずだった。それなのに、この世界では――命の調子そのものが、整ってしまう。


 ふと、森に目を向けると、さっきまで感じていたざらついた空気が、ほんのわずかに和らいでいることに気づいた。魔力も、土地も、生き物も。

どうやらこの世界は、あちこちで“お腹を空かせている”らしい。


「……そっか」


 ゆうは、小さく笑った。


「腹が減ってるなら、まずはちゃんと食べないとな」


 もふ族の子が、きゅいっと鳴く。


 ゆうは静かに立ち上がり、森の奥を見つめた。


「行こうか。……世界を、ちゃんと美味しくするために」


 こうして、調律の料理人の旅は始まった。

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