夜渡りの逃亡者

夕月燈

第1話~憑き人と祓い~

 逃げろ。

 逃げろ。

 逃げろ。

 逃げてくれ。


 その声は私の耳に、確かに届いた。

 二人だけの空間に響いた、懺悔の叫び。


 誰にも話すつもりはなかったけれど、今、あなたに聞いてもらいたい。

 それぞれの後悔を残した、私たちの物語を。


* * *


 森の中、木々の隙間からこぼれる陽の光は、すでに温度を失いつつあった。

 人里まで続く道を歩いていたトウヤは、夜が来る前に森を抜けようと先を急いでいたが、草むらの陰に誰かが倒れていることに気づいて足を止めた。


「……逃げてきたのか?」


 そんな呟きが漏れたのは、倒れていたのが裸足の少女だったからだ。

 

「おい、しっかりしろ」


 駆け寄って抱き起こすと、少女は小さく声を漏らした。

 どうやら生きているようだとトウヤが安堵のため息を吐いたとき、閉じられていた瞼がぴくりと動く。

 それから二度、三度と瞬きして、白金色の睫毛に縁取られた瞼が開いた。

 

 目を閉じているときから、美しい娘だと感じていた。

 陶器のような白い肌にかかる薄い金色の髪はなめらかで、すらりと通った鼻筋も、形の良い唇も、すべてが神に計算されたように配置良く収まっている。

 少女が美しいだけでなくある種の気品を備えていることもよくわかった。

 しかし少女の美しさは、トウヤにはあまり意味のないことだった。

 それよりも、気にかかることに気づいてしまったからだ。


(うーん。これは……どうしたものかな)


 まだぼんやりとしている様子の瞳と見つめ合ったままトウヤが考え込んでいると、薄紅色の唇が微かに動いた。

 

「あなたは……? ここは、どこ?」


 抱き起こした身体が、びくりとこわばる。

 見知らぬ男に抱かれていることに怯えているのだと見当はついたが、急に手を離したらまた倒れてしまうかもしれない。

 そこでトウヤは、持ち前の人懐っこさで少女の警戒を解くことに決めた。


「俺はトウヤ=シエイ。旅人だ。たまたま通りがかったところに、お前が倒れていたから助けたんだ。怪我はないか?」


 出会った人々から『感じが良い』と評されることの多い笑顔を、少女に向ける。

 どうやら効果があったのか、身体からは徐々に力が抜けていった。


「ええ、大丈夫……。足は……痛いけれど……」


 一度口をつぐんだ少女は、大きな目をきょろきょろと彷徨わせる。

 しばらく迷うような素振りを見せてから、か細い声を漏らした。

 

「私は……フィリア。助けてくれて、ありがとう」


(家名を口にしない。訳ありか)


 改めてフィリアを眺めてみると、薄衣にガウンを羽織っただけの服装は、どこからどう見ても外出向きとは言い難い。

 何より裸足であることが、ただごとではない様子を物語っている。

 そうであれば――こんなところでのんびり話している場合ではないだろう。


「フィリア。助けたというには、俺はまだ何もしていない。礼をもらうのは、どこか休める場所へお前を連れていってからにするよ」


 少しためらいながらも、トウヤは続きの言葉を口にした。


「ここからそう遠くない場所に、村がある。そこまで俺がお前を、抱き上げて運んでもいいか?」


 裸足とはいえ、出会ったばかりの男に抱き上げられるのは流石に怖いかもしれない。

 そう考えたのに、フィリアは驚くほど素直にうなずいた。


「ええ……お願い」


(警戒心が弱すぎる。……いや、もしかしたら人を使うことに慣れているのかもしれないな)


 指に触れるガウンの布が上等なことを確かめながら、そんなことを考える。

 いずれにしてもフィリアを見つけたのがトウヤではなく、良からぬ輩だったらと考えると、ぞっとした。


「じゃあ、いくぞ」


 声をかけてから、慎重にフィリアを抱き上げる。

 腕の中に収まった彼女は、羽のように軽かった。

 いつの間にか消え去っていても不思議ではないほどの存在感のなさは、トウヤに言い知れない不安を抱かせた。

 

***


 フィリアは、トウヤ=シエイと名乗る青年に抱き上げられ、夜の気配を見せ始めた森の中を運ばれていた。

 フィリアの目と鼻の先には、彼の横顔が揺れている。


(この肌の色は褐色というのかしら。それに黒い髪というのも珍しい。何より色付きの眼鏡なんて、初めて見たわ)


「なあ……そんなに見られると、落ち着かないんだが」


 困ったような声がして、フィリアは我に返る。

 同時に、自分がどれだけ無遠慮にトウヤを見ていたのか気づいて、頬に熱が集まった。

 

「ごめんなさい。じろじろ見てしまって……」


 自分の振る舞いを恥じて俯くと、トウヤは気まずい空気を吹き飛ばすように明るく笑った。


「いや、いいよ。肌の色が珍しかった? それとも髪? よく言われるんだ」

「肌も、髪も……珍しいと感じたわ。それから……その、色付きの眼鏡も……」


 素直に感じたことを伝えると、トウヤは前に向けていた視線をフィリアに向けてほほえんだ。

 

「格好いいだろ。俺専用、特注の眼鏡なんだ」


 最初に笑った時も、悪い人ではなさそうだと感じた。

 でも今のは笑い方はどこか得意げで、子供っぽくもある。

 知らない男性だったトウヤを自分とそう変わらない年頃の男の子のように感じて、フィリアの口は滑らかになった。


「特注……特別なのね。それなら、髪を長く伸ばしているのも特別?」


 好奇心に駆られて尋ねると、トウヤは首を傾げた。


「いや、髪が長い男はたくさんいるだろう。会ったことはないのか?」

「ないわ。私の周りにはいなかった。その背中に背負っている剣も、特別……?」


 剣の柄には、草と花が絡まったような複雑な文様が刻まれている。

 トウヤを観察していたフィリアの意識は、美しい意匠が施された剣へと自然に吸い寄せられた。


「ああ。俺にしか使えない剣だよ」


 さらりと答えたトウヤは一度笑顔を収めると、探るような目でフィリアを見つめた。

 

「良かった、普通に元気そうだな。怪我はしてないって言ってたから、その心配はしてなかったんだが……あまりにも軽いから、もしかしたら精霊なんじゃないかと怪しんでいた」

「私、人間よ」


 びっくりしてフィリアが答えると、トウヤは再び笑顔になった。


「ああ、もうわかってる。これだけ好奇心たっぷりに、おしゃべりできるんだ。お前は人間の女の子だ」


(……私、はしたなくあれこれ聞き過ぎてしまったのかしら)


「あの……ごめんなさい」


 フィリアの胸に、去ったと思った羞恥心が戻ってくる。

 けれどもトウヤは気負った様子もなく、何気ない調子で続けた。

 

「どうして謝る? 俺はお前が元気なほうがうれしい。たくさん食べて、たくさん眠れば、お前はもっと元気になる。そう思えて、安心したよ」


(私が元気だとうれしい……そんなこと、お母様以外に初めて言われた)


 置いてきてしまった母のことを思い出すと、フィリアの胸は鈍く痛んだ。

 ここまで必死だったので、あまり考えようにしていたが、麻痺していた感覚が徐々に戻ってくると途端に不安が押し寄せてくる。


(どうしよう……私、何も考えずに、トウヤに運ばれているわ。このまま彼の言う通りにしていて、いいのかしら)


 けれどもフィリアが考えをまとめるよりも、トウヤが声をあげるほうが早かった。


「見ろ、フィリア。森を抜けるぞ。俺たちが目指しているリム村は、すぐそこだ」


 まだ不安は消えなかったが、トウヤの声には警戒心を解かせるような温かさがある。

 そもそも警戒の仕方などよくわからないフィリアは、トウヤの言葉に黙ってうなずいた。

 

***


 リム村は、周囲を森と山に囲まれている小さな集落だ。

 聞こえてくるのは夜の訪れを告げる鳥の声や、村の住人たちが夕食の支度をする音くらいで、フィリアを連れた今のトウヤには、休むのにぴったりの場所だと思えた。

 

「宿へ向かおう。この季節なら、部屋が埋まっているということはないはずだ」


 今は秋と呼ぶにはまだ早い、夏の終わり。

 精霊の祭りが行われるのはもう少し先で、その祭りを目当てに旅人が移動するような時期ではなかった。


「……あなたは、ここへ来たことがあるの?」

「一度だけな。だから宿の場所も、前と変わっていなければわかる。確かこっちだ」


 自信をもって進みながらも、トウヤは村人を見つけると積極的に話しかけた。

 

「やあ、こんばんは。宿はこの先の二階建ての建物で、合ってるかな」

「ああ、そうだよ。……お連れさんは、怪我でもしたのかね」

「そうなんだ。森で足を滑らせてね」

 

 警戒されないように自分からその土地の住人へ話しかけていくのが、トウヤの旅の流儀だった。

 念のためフィリアにはトウヤのマントを被ってもらっているが、人を抱えて歩くのは目立つし、要らぬ興味を惹いてしまう可能性があった。

 

(だが、今の言い訳で通りそうだな)

 

 懸念が去ったことに安堵して歩いていくと、トウヤの記憶通りの場所にそれらしき建物が見えてくる。

 太い丸太で組まれた二階建ての家は、大都市の基準で見れば、宿というにはかなり控えめな造りだ。

 それでも木戸を押し開けて中に入ると、この宿がつつましやかでも、逗留するには気持ちの良い場所だとわかった。

 食堂になっている一階には綺麗に磨かれた一枚板のテーブルが置かれていたし、壁には手織りの大きな布がかけられて、この空間に温かみを演出している。

 客の姿はまばらだったが、彼らを温める暖炉の薪を惜しむつもりはないようで、赤々と炎が燃えていた。

 カウンターの中に宿の主人を見つけたトウヤは、フィリアを抱えたまま慎重に近づいた。

 

「部屋は空いているか? できれば――」


 そこで一度口をつぐむと、ちらりとフィリアへ視線を向ける。

 慣れない場所に緊張しているのか、フィリアはトウヤと目を合わせなかった。


(失敗したな。宿に入る前に、確認しておくべきだった)


 遅まきながら自分の失態に気づくが、他に取れる道はない。

 フィリアが何かから『逃げてきた』のかもしれないと考えると、この選択をするしかなかった。

 

「部屋は一つで、ベッドは二つあると助かる」


 トウヤの発言を聞いても、フィリアはなんの反応も示さない。

 ある意味とても心配にはなったが、この心配については部屋に入ってから話そうと、トウヤは決めた。


***


 部屋に入ると、トウヤはまず桶にお湯を張り、清潔なタオルでフィリアの汚れた手や足を拭いてやった。

 自分の服の中でフィリアが着られそうなものを選び、桶のお湯を張り替えたところで、ベッドに座った少女を振り返った。

 

「俺は部屋の外に出てるから。身体を拭いて着替えたら、ドアを叩いて合図してくれ」

「……身体はあなたが拭いてくれないの? 着替えも、一人ではできないわ」


(……うん。言われるような気はしてた)


 少しだけ覚悟をしていたとはいえ、堂々と言われてしまうと、やはり動揺する。

 息を吐いて気持ちを落ち着けてから、トウヤはフィリアの前にしゃがみ込んだ。


「あのな。子供じゃなければ、着替えは普通、一人でするものだ。あと男は、知り合ったばかりの女の身体を拭いたりしない」


 もう一度息を吐いて、トウヤはさらに続けた。


「それから一つの部屋によく知らない男と二人で泊まるというのも、しないほうがいい。お前はもう少し、警戒心を持ったほうがいいぞ」


 部屋に入ってから言おうと決めていたことを、この際だからすべて伝える。

 フィリアは大きな目をさらに大きく見開いて、自分の胸に手を当てた。


「警戒……していなかったわけじゃないの。一度はこのままあなたについて行っていいのかと、不安になったのよ」


 フィリアの形の良い眉が、わずかに眉間に寄った。


「だけど、あなたの腕も声も温かかったから、安心してしまったの。今からでも警戒したほうがいいのかしら」


(それを、俺に聞いちゃだめなんだが)


 あまりにも浮世離れした答えに、トウヤは脱力した。

 それでも懸命にフィリアへ語りかける。


「安心してもらえるのは、うれしいよ。俺のことは、信じてもらってかまわない。だけど世の中には悪い奴もいっぱいいるから、そんなに簡単に人を信じちゃだめだ。それから――」


 次の言葉を口にするのは、かなり恥ずかしかった。

 しかしフィリアは期待するような目で話の続きを待っている。

 短い葛藤を経たのち、トウヤはフィリアから目を逸らして口を開いた。


「俺は今、二十二だ。お前は何歳だ?」

「私は……十七よ」

「思ったより、歳が近いな。それならなおさら俺はお前の身体を拭けない。その……どうしたって、意識する」

「意識……」

「恥ずかしいってことだ」

「私の身体を見るのが、恥ずかしいの? 私に何か、おかしなところがある……?」


(そろそろ話が通じてくれ……!)


 トウヤは心の中でフィリアには聞かせられない言葉を叫ぶと、半ば泣きたい気持ちになって立ち上がった。

 

「お前がおかしいわけじゃない。俺くらいの歳の男は、お前くらいの歳の女の裸を見るのは恥ずかしいっていう一般論だ。わかったか?」


 ベッドに座ったフィリアを見下ろすような形で、見つめ合う。

 耳が熱くなるのを感じ始めたとき、フィリアがちょこんと首を傾げた。


「わかった。身体は頑張って自分で拭いてみるわ。でも、着替えは手伝ってくれる?」

「それじゃ結局、裸を見ることになるだろ……」


 一度は立ち上がったのに、トウヤは再びフィリアの前にがっくりと膝をついた。

 ――そうしてさんざん押し問答したあげく、袖口のボタンだけはトウヤが留めることになったのだった。

 

***


 食事は部屋でとったほうがいいというトウヤの意見に従って、フィリアはトウヤと二人きりの部屋でスープとパンを食べた。

 

(温かい……私、寒かったんだわ)


 スープをひと口飲むたびに、こわばっていた気持ちが、ほろりと緩んでいく。

 冷えていたのは身体ばかりではなく、心もだったのだ。


(どうして、こんなことになってしまったんだろう。帰りたい……お母様のところへ)


 俯いていると涙がこぼれそうになるけれど、ただでさえ迷惑をかけているトウヤに心配をかけたくなくて、フィリアはぐっと顔を上げた。

 顔を上げて――トウヤが色付きの眼鏡を外していることに気がつく。

 初めて見た瞳の色は、紫水晶に似た青紫色だった。

 

「あなたの肌の色に、その瞳は良く映えるわ。綺麗なのに、なぜ隠しているの?」


 褐色の肌の中で強い光を放つ瞳は、まるで夜空に浮かぶ星のように見える。

 あまりに美しくて素直な感想が口をついて出たのだが、トウヤはなんとも言えない複雑な表情になった。


「……この容姿は、人目を惹くんだ。今お前が言ってくれたように、綺麗だと言われることもある。だけど俺は……目立ちたくない」

「だから色付きの眼鏡で、瞳の色を隠しているの? でも、その眼鏡も……珍しいのではないの? とても目立ちそうだけれど」

「まあ、そうなんだけどな……」


 気まずそうに手の中の眼鏡をいじくっているトウヤは、何か事情を抱えていそうだった。


(でも事情があるのは私も同じ。そのことにトウヤも気がついているはずなのに、何も聞かないでいてくれる)


 それが今のフィリアには、心底ありがたかった。

 自分の身に起きたことを、まだよく飲み込めていなかったから。


(だから私も、これ以上は聞いてはだめね。何も言わないでおこう)


「……食事が済んだなら、今日はもう眠ろう。お前にとって怖いことが起きないように、俺が注意しておくよ」


 自分のベッドに移動したトウヤは、枕元にあるランプの灯りを消した。


「そのために、同じ部屋をとったんだからな」


 暗い部屋に響いた彼の声は温かく、フィリアの心に優しく届く。

 素直にベッドに横になったフィリアは、あっという間に深い眠りに落ちてしまった。


***


「……?」


 どれくらい経ったのだろう。

 ギシッと床が軋む音がして、フィリアは目を覚ました。


(ここは……どこだったかしら。私は、何を……)


 ぼんやりとした頭を働かせようとして――青紫の双眸が自分を見ていることに気がつき、フィリアは飛び跳ねるように起き上がった。

 

「悪い。起こしたか」


 すまなそうなトウヤの声に、フィリアはふるふると首を横に振る。

 ひと呼吸遅れて、灯りの落ちた部屋では見えないと気がついたフィリアは、声を出した。


「あの、何をしてるの……?」


 そう尋ねたのは、トウヤが剣を手に持った状態で、扉の前に立っていることがわかったからだ。


「……ここは空気がいいと思ったんだが。いるとは思わなかったな」


 しかしトウヤの答えは、フィリアには意味がよくわからないものだった。

 

「いるって、何がいるの?」


 そっと囁き返すと、灯りをつけないままトウヤが近づいてくる。

 トウヤはフィリアのベッドの手前まで来ると、床に腰を下ろした。


「俺が何を言っても、信じてくれるか?」

「ええ。信じるわ」


 真剣な声を出すトウヤに、フィリアは即答した。


「じゃあ、この宿に霊がいるって言ったら、信じるか?」

「……霊?」


 けれども突拍子もない方向に話が進んで――今度はすぐに信じるとは言えなかった。

 暗闇の中で、わしゃわしゃと音がする。

 目を凝らして見ると、トウヤが自分の頭に指を突っ込んで髪をかき回していた。


「あーーー、うん。そういう反応になるよな……仕方がない。仕方がないけど……本当なんだ。ここはいったん、信じてもらえないか?」

「わかった。信じるわ」


 まだ頭がよく回らなかったものの、優しいトウヤを困らせたくない一心で、フィリアはうなずく。

 次の言葉は、さらに彼女の予想を超えるものだった。

 

「俺は霊を自分の身体に降ろす、『憑き人』という能力を持っている。それから霊を浄化させる『祓い』という能力も。今この宿にいる霊からは、禍々しい気配を感じる。だから俺は、霊を浄化しようと考えているんだ」


 ――『憑き人』と『祓い』。

 そんな能力の話を聞くのは、初めてだった。


(私が『外の世界』をよく知らないからかしら。普通、みんなは知っている……?)


 みんな――と想像しようとして、上手く想像できないことに気づいたフィリアは、すぐに諦めた。

 代わりに自分を見つめる青紫色の瞳に宿る、誠実な光を信じてみようと考える。

 

「私にも、できることはある?」


 静かに尋ねると、目の前のトウヤからほっと息を吐く音が聞こえてくる。

 立ち上がった彼は、剣を携えて再び扉へ近づいた。

 

「お前はそこで、じっとしていてくれ。何が起きても、騒ぐなよ」

「わかったわ。大人しくしてる」


 フィリアが答えると、トウヤは音を立てないよう慎重に、部屋の扉を開いた。


「…………」


 しばらくは、何も起きなかった。

 扉を開けて数十秒ほど経ったところで、トウヤは鞘に入ったままの剣を右手に構えた。

 そうして弧を描くように剣を動かすと……急に、部屋の空気が暗く澱んだものに変わる。

 静寂はよりいっそう静けさを増し、わずかな衣擦れさえ聞こえなくなった。

 

「彷徨える魂よ、この身に宿れ。我は、声なき声を聞く者。その無念を晴らし、浄化へと導く者」


 トウヤの低い声が、闇の中に溶けるように響く。

 不意に彼の身体がぐらりと傾いで、フィリアは思わず息を呑んだ。


『死……にたくなど……なかった……、このような、旅の、途中で……』


 聞こえてきたのは、地を這うようなひび割れた声。

 その声は、トウヤの唇から漏れている。

 声の奥にトウヤの声音の片鱗を感じることはできたが、温かみのある彼の声とはまったく異なるものだった。


「……ああ、わかるよ。だがここに留まっていても、お前は苦しみに囚われるばかりだ。だから俺にお前を救わせてくれ」


 かと思えば、すぐにいつも通りのトウヤの声が聞こえてくる。

 そのことに安堵する間もなく、再びひび割れた声が部屋の空気を震わせた。


『救う……? どうやって……』


 問いに応えるように、トウヤは鞘に納めていた剣をすらりと抜き放った。

 

「大丈夫。お前はただ、俺に身をゆだねていればいい」


 抜かれた剣は、白銀色。

 暗闇の中で光る剣身は、湖に落ちた月明りのように静謐で、冷たい光を放っていた。


「彷徨える魂に、今、安寧を」


 厳かに告げたトウヤは、白銀の刃を振り上げる。

 そしてそれを――迷わず、自分の胸へと突き刺した。


「――――――!!」


 騒がないと約束したのに、フィリアは自分でも耳を塞ぎたくなるような大きな声で、悲鳴をあげた。

 ――次の瞬間、真夜中だというのに、宿の中の全ての部屋のドアが開け放たれた。

 

***


 ――翌朝。


「ごめんなさい。私のせいで、大騒ぎになってしまったわ……」


 しおしおとうなだれたフィリアは、昨夜から何度目かの謝罪を口にした。

 そのたびにトウヤは、まったく気にしていない様子でフィリアに答えた。


「『祓い』をしていれば、よくあることだ。それに俺が事前にもっと、説明しておくべきだったよ」


 昨夜、トウヤは確かに自分の剣で自分を刺したように見えた。

 けれどもその身体からは、血の一滴も流れていない。

 特別な剣で、特別な力を行使して、自らの身体を使い、この世に未練を残した霊を浄化する。

 これが『憑き人』と『祓い』の能力で、現世ではなく幽世に近い場所で行われるこの儀式は、現世の肉体に直接害を及ぼすことはない。

 騒ぎがひと通り収まった後になって、トウヤはフィリアにそう説明した。


「お前は何も気に病まなくていいが……この村からは、早々に去ったほうが良さそうだ」


 二人は宿を出て村の中央の通りを歩いていたが、まだ夜明けを告げる鳥が鳴いてから一時間も経っていないのに、二人には多くの視線が注がれていた。


「こうなったら、逃げ出すしかない」


(逃げる……私も、逃げないと)


 顔を上げたフィリアは、困ったような口調に反してのんびりと構えているトウヤの笑顔を見つけた。

 その笑顔に勇気をもらって、口を開く。


「私……逃げなければいけないの。王都から、できるだけ遠くへ」


 これを聞いてトウヤはどう思うだろうか。

 厄介な娘だと、この場に切り捨てていくだろうか。

 さまざまな不安と、伝えたことへの後悔がフィリアの胸をよぎる。

 けれどもトウヤは大きく瞬きをしただけで、わずかなためらいもなくフィリアに手を差し出した。

 

「逃げるというなら、俺たちの目的は同じだな。一緒に行こう」


 差し出された手をとると、トウヤは力強く握り返してくれる。

 その手は温かくて、不安だらけのフィリアには、唯一無二の道しるべのように思えた。


2話へ続く

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