うわん

円衣めがね

うわん

「うわん、うわん」


朝、目覚ましよりも早く起きたのは、その声を聞いたからだった。いや、聞いたような気がして目が覚めた。それは夢のなかだったのか、実際にそんな声がしていたのか、そのときは夢うつつな状態で判別できなかった。


僕は寝起きが悪い。それどころか寝入りも悪いし、明け方近くなると中途覚醒もするので、毎日毎日、寝ているんだかなんだか分からないまま朝が来る。とりあえず眠りにつくために病院でエチゾラムを処方されているのだが、最近はそれにも慣れてしまったのか日によって効きが弱くなっている気もしている。


普段は早く起きたからといって布団から起き上がるのも面倒なので、そのまま二度寝するところなのだが、なぜかその日はむくりと起き上がり、そのまま洗面所まできた。まだ夢のなかなのだろうか。そんな気持ちのまま水を出す。冷たい。


「はぁ……」ため息が出る。


顔を洗い、鏡を見る。鏡のなかの自分はひどく疲れた顔をしている。鏡のなかの自分も「つかれているなぁ」と思っているんだろうな。じっと僕を見つめている。


「うわん、うわん」


鏡のなかの自分の口がゆっくりと開いていく。自分では口を開けている感覚はないが、鏡のなかの自分は「うわん、うわん」と口を開けている。お前が言っているのか。なんだか僕は他人ごとのように口に出していた。


まあ、いいか。そんな日もある。


せっかく早起きしたので、朝の散歩にでもいこうと思い、僕は着替えをして玄関を出た。すると足もとに小さな影がいた。影のようで、よくみると影よりも濃い。子どもがしゃがみこんだくらいの大きさのそれは、じっと僕を見上げていた。


「うわん」


そいつは僕に懐いているようだった。無視して歩きだすと、つかず離れずついてきた。公園までの道。駅前の商店街。コンビニの中までそれはついてきた。だが、見えるのはどうも僕だけらしい。誰も避けないし、見向きもしない。


「幻覚でも見え始めたか」


そう思ったら、それは首を振った。


「違う?」


それはぶんぶんと首を振る。だが、問い詰める気にもならなかったので、僕は「そうか」とだけ言って家に戻った。朝の散歩が清々しいだとか言っている人間の気が知れない。歩いているやつらは皆、死んだような顔で俯いているじゃないか。ただただ憂鬱になるだけだ。馬鹿らしい。


パソコンを立ち上げ、だらだらとネットを見ているとパソコン画面の文字がときどき一文字だけ違う。誤植かと思ったが、目の前で「理解」が「里解」に変わった。気にしないでいると今度は、ところどころ「残留争いの直接対決でうわんが待ち望んでいたゴール」というように「うわん」という文字が勝手に挿入されている。


「おい、お前のしわざか?」


モニターの横でちょこんと座っているように見えるそれに僕は尋ねた。それはいつのまにか黒い影にちょんちょんちょんと丸い穴が3つ空いていた。顔みたいだな、と思ったが、それはなにも答えない。


そんな状態が今日で二週間ほど続いている。


僕は「うわん」と名付けたそれと奇妙な共同生活を送っている。たまに鏡のなかの自分がよそ見をしていたり、テレビの音声が意味不明な言葉になったりするが、実害はそれくらいだ。唯一、パソコンの文字化けが酷いのだけは勘弁してほしいと思っているのだが、それも慣れてきた。


「うわん」


また、それの声が聞こえた。同時にパソコンの文章がカタカタと変化していった。


「もうじきかも」


なにがだ? と思うとまたカタカタと勝手に文章が変化する。


「全部、気にならなくなる」


それを見て、僕はなんだか妙な安心感に包まれた。もう、すでになにも気にしているつもりはないが、それでも、抵抗する必要はない。怖がることもない。そう言われている気がした。


その夜、寝室にいくと部屋の隅にそれとは別の大きな影があった。ぬるりと伸びるそれは天井に届くほど大きく、輪郭は定まらないが上部をぐねりと折り曲げておじぎをしているようにも見える。じんわりと空間全体を影で覆っているような圧があった。


「うわん」


うわんが、大きな影に近づいた。大きな影は何も言わない。ただ、そこに在る。とても重苦しい圧迫感だけが伝わってくる。逃げ場のない恐怖、不安が襲ってきた。


「最近、ずっと考えていたでしょ」スマホの音声AIがしゃべりだした


思い当たる節は多々ある。疲れ、虚しさ、明日が来ることの不安と倦怠感。ずっとそんなことが体を蝕んでいるのは自覚していた。


「考えなくてもいいよ。もう大丈夫だから」


そう、か。そうなのか。


「僕は、死ぬのか?」


うわんは、顔に空いた穴をパクパクとさせながら少し困ったように首をかしげた。


「死ぬ、ではなく、迎えられる、だよ。彼は迎えの使者」


スマホが音声AIで流ちょうに喋っている。それにあわせて大きな影がぐねりと体を大きくねじった。部屋の温度がグッと下がったような気がした。


普通ならここで拒んだり、懇願したりするのだろう。泣き、叫び、なぜだと意味を求めるだろう。だが、僕にはうわんのように胸にぽっかりと穴が空いていた。


「仕方ないな」


うわんの丸い3つの穴が、にこりと微笑んだ気がした。


「無理やりは疲れるから、助かるよ」


その瞬間、体の境目が曖昧になった。立っている床が、薄紙のように感じてふわりと宙に浮くような感覚になった。不思議と怖さはなかった。ただ、これでゆっくり眠れる気がした。


大きな影が近づく。暗闇は、天井を覆い、トンネルのように僕を漆黒に包み込む。


「なんだか現実なのか、夢なのか分からないな」


僕が自嘲気味に言うと、うわんは初めて声を出した。


「でも、気楽でいいでしょ」


とほほ、と苦笑しそうだったが、うわんの姿が可愛らしい黒猫に見えたので僕は手を伸ばして、うわんを触ってみた。ふわっと柔らかい毛の感触と香ばしい匂いがして、僕は安心して目を閉じた。


日常は、音もなく終わった。

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うわん 円衣めがね @megane43

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