第15回 エリーの涙
佐々木キャロット
エリーの涙
遠い昔の話です。空の上にはエリーという名前の少女が住んでいました。エリーはとても大きな屋敷のお嬢様でした。そのため、エリーはお母様からとても厳しい躾を受けていました。一人で屋敷から出ることは許されず、食事の仕方に歩き方、言葉遣いに至るまで事細かに注意されていました。エリーは言いつけを守ろうと日々努力をしていましたが、なかなかうまくはいかず、お母様から毎日のようにお叱りを受けていました。その度に、エリーは布団の中に潜り込み、こっそりと一人寂しく泣くのでした。
ある日のことです。その日もエリーはお母様からこっぴどく叱られ、いつものようにベッドの中でしくしくと泣いていました。
「またお母様に怒られたわ。私は一生懸命頑張っているのに。あんなに怒らなくてもいいじゃない。お母様はきっと私のことが嫌いなんだわ。だからあんなに怒るのよ。きっとそうだわ」
エリーは布団から顔を出し、窓を眺めてぽつりと呟きました。
「私、もうこんな家からいなくなりたい」
すると、どこからか不思議な声が返ってきます。
「なら、いなくなってみるかい?」
エリーは驚いて部屋の中を見渡しましたが、そこには誰もいません。
「誰?誰かいるの?」
「ここにいるさ。ほらここに」
エリーは声のする方を見つめましたが、声の主は見当たりません。
「誰もいないわ」
「ここにいるよ。君に見えていないだけさ」
「あなたは誰なの?」
「僕は『新月』さ」
「『新月』?」
「そう、『新月』。僕の姿は誰にも見えない。ここにいるのにいないのさ。」
『新月』と名乗る声の主はそう言って愉快そうに笑いました。
「お嬢さん。君はいま『いなくなりたい』と言ったね」
「……ええ、言ったわ」
「ならば、僕がその願いを叶えてあげよう」
「どういうこと?」
「言葉の通りさ。君を僕と同じように誰からも見えなくしてあげようということさ」
「そんなことができるの?」
「ああ、もちろんだとも」
『新月』は自信たっぷりにそう答えます。
「……でも、そんなことをしたらお母様にまた怒られてしまうわ」
「大丈夫さ。姿が見えないのだから、怒ろうにも怒れまい」
「……でも、うまくいかないかもしれないし」
「大丈夫さ。僕のことを信じておくれ」
『新月』の声がエリーに近づき、耳元でそっと囁きました。
「君はいつも頑張っているのに、お母様に怒られていて本当に可愛そうだ。君の言う通り、お母様はきっと君のことが嫌いなんだよ。君もそんなお母様のことは嫌いだろ?僕みたいに見えなくなって、こんなところから逃げてしまおうじゃないか」
「……でも」
エリーは提案に惹かれるものの、未だに姿の見えない『新月』のことをなにか恐ろしいもののように感じていました。すると、急に『新月』の声が遠のきました。
「そうかそうか。君は見えなくなってしまうことが怖いのか。やっぱりお嬢様には難しい提案だったな。それじゃあ、僕は失礼するよ。もうこんな機会は訪れないだろうね。なんてたって君には僕の姿が見えないのだからさ」
「待って‼」
どこかへ行ってしまおうとする『新月』をエリーは思わず呼び止めました。
「やっぱりお願いするわ。私のことを見えなくして。もうこんな家にいたくないもの」
部屋の中は静まり返っていました。『新月』はもう行ってしまったのでしょうか。
エリーは残念に思い、布団の中へ潜り込みました。
すると、耳元で
「承ったよ、お嬢さん」
囁き声につられるように、エリーは深い眠りの中へと落ちていきました。
次の日の朝、エリーは騒がしい音に目を覚ましました。
「何かあったのかしら?」
エリーが不思議に思いつつ部屋から出ると、使用人たちが屋敷中を走り回っています。
「ねえ、何かあったの?」
エリーは使用人の一人にそう尋ねましたが、使用人はエリーを無視してどこかへ走り去ってしまいました。
「もう。無視するなんて酷いわ」
その後もエリーは何人かの使用人に声をかけましたが誰も相手にしてくれません。エリーはふてくされて、部屋に戻ってきました。そのとき、ふと鏡が目に入りました。しかし、そこにエリーの姿は映っていません。
「え?どうして?なんで私が映ってないの?……もしかして、昨日のあれは夢じゃなかったの⁉ 『新月』が私の姿を見えなくしたってこと⁉」
エリーはとても喜びました。これで、もうお母様に怒られることはありません。エリーはお母様の様子を見に行くことにしました。
「きっとお母様も私がいなくなって喜んでいるわ」
エリーがお母様の部屋に行くと、そこからは泣き声が聞こえました。
「誰が泣いているのかしら?」
エリーが中を覗くと、泣いていたのはお母様でした。
「エリー、いったいどこへ行ってしまったの?屋敷から出てはいけないとあれほど注意していたのに。……いいえ、きっとそれがいけなかったんだわ。あの子に厳しくし過ぎたのよ。エリーのためだと思って厳しく接していたけれど、エリーは苦しんでいたのかもしれない。きっとエリーは私のことが嫌いになって出て行ってしまったのよ。私は母親失格だわ」
お母様はそう言って泣き崩れました。エリーは思わず声をかけました。
「そんなことないわ、お母様。私、お母様のことが大好きよ」
しかし、エリーの声はお母様に届きませんでした。
「ああ、エリー。いったいどこへ行ってしまったの?」
「私はここよ、お母様」
やっぱりエリーの声は届きません。
「お母様、お母様」
エリーがいくら大きな声で呼びかけても、その声がお母様に届くことはありませんでした。
困り果てたエリーは自分の部屋に帰ってきました。
「『新月』、『新月』。どこにいるの?お願い、返事をして」
すると、窓の方から声が返ってきました。
「どうしたんだい、そこにはいないお嬢さん」
「『新月』、あなたなのね。お願い、私を元の見える姿に戻して」
「どうしてだい?せっかく姿が見えなくなって、嫌いなお母様に𠮟られることもなくなったのに」
「違うの。お母様は私のことが嫌いじゃなかったの。お母様は私が好きだから、私のために怒っていたの。私も厳しいところはあるけれど、やっぱりお母様のこと好き。お母様に気付いてもらえないのは嫌だわ。お願い、元の姿に戻して」
「ふーん。そうかいそうかい。でも、それは無理なお願いだね。一度なくなったものはもう元には戻らないのさ」
「そんな」
「君は二度とその姿を見つけてもらえないし、その声を聞いてももらえない。一生いないままなのさ」
『新月』の声はどこか遠くに消えていってしまいました。
エリーは泣きました。それはそれは激しく、「お母様、お母様」と大きな声で叫びました。その声は誰にも聞こえません。誰もエリーの存在に気付くことはできないのです。
しかし、一つだけ見えるものがありました。それは『涙』です。エリーの目から流れ出たその涙だけははっきりと見ることができました。
みんなは不思議に思いました。何もないところからただ雫が落ちてくるのです。けれども、それがエリーの涙だと気付く者は一人もいませんでした。エリーはそれが悲しくてまた泣きました。何度も何度も泣きました。
エリーの目から溢れ出たその雫は、空の上に収まらず、地上へも降り注ぐのでした。
このことから、雲のまったく見えない空から降り注ぐ雨を「エリーの涙」または「お嬢様の涙」と呼ぶのです。
第15回 エリーの涙 佐々木キャロット @carrot_sasaki
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